第1話「umbrellaの夜」
夜、雨。
濡れたアスファルトの匂いが、東京の夜に沈殿している。
路地裏の奥、誰も気づかぬように灯るネオンの看板――「umbrella」。
カラン、と扉の鈴が鳴る。
黒いパーカーに濡れたフードをかぶった青年が、軽やかな足取りで店に入った。
「こんばんは〜。あ〜、寒ぃ……マスター、ホットバタードラムとか出ない? いや、出さないか」
言いながらずぶ濡れのグローブを脱ぐのはアキヒト。
その後ろから、無言の影が一つ。
オトハはフードすらかぶらず、濡れた髪を垂らしたまま、静かにカウンターへ歩み寄る。
マスターは無言で一枚の封筒を差し出す。手入れを終えた黒いケースとともに。
アキヒトがそれを受け取り、軽く会釈して笑う。
「了解。じゃ、行こっか、オンパ」
オトハは返事をしない。
ただ、マスターから受け取ったケースを抱えると、濡れた靴音を静かに響かせてドアへ向かった。
店を出ると、車が既に路地に待機していた。マスターが手配したものだ。
アキヒトは助手席に回り、ドアを開けてオトハを先に乗せる。
車内は温かく、雨の音が外へ遠ざかっていく。アキヒトはエンジンをかけ、封筒を開いた。
「えーと、ターゲットは三人。場所は渋谷のラグジュアリーホテル。ターゲットのうち一人は海外から来てる殺し屋らしい。重装備っぽいから、油断するとヤバいな。どうする? 作戦は」
オトハは少し黙ってから答える。
「……そいつだけ、最後に残す。喋らせる」
「うわ、出た。オンパの拷問ターイム」
「……黙ってて。声がうるさい」
「はいはい、悪ぅございましたー。けどさ、なんか久々だよな、こういう現場」
オトハは窓の外を見る。まつげに残った雨粒が、頬を伝って落ちた。
「……黙っててって、言った」
「おー、こわ。了解でーす」
アキヒトは苦笑しながら、車をゆっくりと夜の街へ滑り出させた。
*
深夜の渋谷。
煌びやかな街の灯りの下に、ラグジュアリーホテルのガラス張りのエントランスが静かに輝いていた。
だが、オトハとアキヒトはその正面からは入らない。ホテル裏手の搬入口――、スタッフしか通らぬ狭い通路を抜け、非常階段から忍び込む。
「23階、スイートルームの一室。チェックインは偽名。けど内部に情報流したやつがいたみたいで、部屋番号はもうバレてる」
小声で囁くアキヒトの手には、簡素なスケッチとメモ。
「上の2人は順当に消す。最後のやつだけ、生け捕り。で、喋らせてから……整理」
オトハはわずかに頷く。
エレベーターは使わない。階段を踏みしめる音も、2人は一切響かせなかった。
***
スイートルームの外。
アキヒトは特殊なピッキングツールを器用に使い、電子ロックを20秒で解除した。
扉が、ほとんど無音で開く。
中には3人の男たち。うち2人は既にベッドの上、酔いつぶれていた。
残る1人――筋肉質の大柄な男が、窓辺で携帯端末を覗いている。
アキヒトがまず、眠っている2人に歩み寄り、片手でワイヤーを滑らせた。
くぐもった音が2度、部屋に沈む。
その直後、3人目が気配に気づいて振り返った。
「――誰だッ!」
だが次の瞬間には、部屋の照明がすべて落ちた。
暗闇の中で、どこからか響く旋律。電子音でも打楽器でもない、不可思議な音。
オトハがケースから取り出した“それ”を奏でると、空気の密度が変わった。
男の動きが一瞬だけ、止まる。全神経を“音”に持っていかれたように。
その隙を、アキヒトが逃さない。
刃を抜き、肉を裂くには至らぬギリギリの位置で、筋肉を断つ。
男は叫ぶこともできず、膝から崩れ落ちた。
***
男はソファに縛られていた。口は塞がれておらず、ただ恐怖で震えている。
「誰に情報を売った?」
オトハの声は冷たい。微塵の感情もない。目は彼を見てはいないが、存在を見透かしているようだった。
「お、俺は……売ってない。あれは、組織に戻るための……っ」
「嘘」
オトハの指が、静かに楽器の弦に触れる。音が、脳を貫く。
男の顔色が変わった。口から泡のような唾をこぼし、頭を振る。
「ま、待て、まって……! 中華系の……買い手がいた、だけだ! 名は知らねぇ! けど、裏で動いてた! 女が一人……!」
オトハは音を止めた。
アキヒトが目で問う。
「兄貴……の線は?」
「……ちがう。たぶん、こいつは関係ない」
「なら――整理、するか」
「――任せる」
アキヒトは無言でナイフを抜いた。
再び、音もなく、任務は終わる。
***
数分後。
オトハはスマホを取り出し、マスターへ短く連絡を入れる。
「完了。三人、処理済み。部屋は原状に戻す。……兄の情報では、なかった」
『了解』
マスターの声はそれだけだった。変わらず淡々としていた。
ホテルを後にし、二人は無言のまま車へ向かう。
街は深夜の気配に沈み、ネオンも人通りも遠ざかっていた。
アキヒトが運転席のドアを開ける前、ふと立ち止まり、ポケットから手ぬぐいを取り出してオトハに差し出す。
「……濡れっぱなしだと風邪引くぞ」
オトハはわずかに顔を向けるだけで、何も言わずにそれを受け取る。軽く首元と頬を拭いて、また無言で助手席に乗り込んだ。
アキヒトも続いて乗り込み、静かにエンジンをかける。
音楽もラジオも流さないまま、車は夜の街を抜けていく。
誰も口を開かない。言葉は必要なかった。
命がまた一つ、音もなく消えた夜だった。