6. 季節が巡っても会える場所
ビーチパラソルの出番が終わり寒い季節が近づいてくると、川沿いは一足先に冷える。桔梗は例年より早くタイツを履き始め、ブレザーの中に重ね着をし薄地のマフラーを用意して土手に下りる。直に座ると冷えるから鞄を尻の下に敷いていた。正宗も厚地のパーカーを羽織り、寝転がることはなくなっている。
「最近怪我減ったね。喧嘩やめたの?」
いつの頃からか、正宗が顔に痣を作っているのを見ることがなくなった。服の下の見えない部分は判らないが、尖っていた雰囲気も桔梗が出会った当初からは薄くなっている気がしている。
「いい加減、いい歳だしな。必要な時だけだ」
少しの沈黙の後、正宗はぼんやりと口にした。
「必要になることがあるの?」
正宗は飲食店の厨房で働いていると聞いていた。まさかそれを辞めて、その手のことが必要になる仕事に就いたのかと、桔梗は恐る恐る正宗の横顔を窺った。
「あいつ、暴れるからな」
「あいつ?」
正宗ははっとしたように桔梗を見た。直ぐに正面の川へと顔を向けて気まずいように眉を寄せる。
「……父親」
口にしたくないことを無理矢理押し出したような言い方だった。桔梗は正宗の父親がアルコール中毒だと言っていたことを思い出した。うっかり口にしてしまったのだということがありありと判るから、桔梗は問う口は閉じる。きっと触れられたくない部分だ。ストリートファイトはしなくなったということが判れば十分だと思うことにした。
「豆炭あんかっていうのがあるんだけど、どうかな」
桔梗は立てた両膝を抱えて冷えから守ように身体を小さくし、話題を変えた。
「なんだそれ」
「暖房器具。湯たんぽより長持ちするんだって」
「……ここに持ってくる気か」
「これからの季節はそういう、何かしらあったまるやつ必要になるでしょう」
「寒いならそう言え」
正宗が立ち上がった。
「今はまだ我慢できるよ。でも冬はさ、流石に」
「流石に冬は来ねぇわ」
正宗は立てと言葉にする代わりに片手を差し出し、催促するように人差し指を揺らす。桔梗が手を出すと、引っ張り上げられた。
「じゃあ冬はどこ行けばいいの」
どちらも言い出さなかったから、連絡先は交換していない。桔梗は今が訊く機会かとも思ったが、嫌がられそうな気がして尻込みをする。正宗は川へ視線を流し考え込んだ。桔梗は不安になる。桔梗が通わなければ接点がなくなるような心許ない関係だから、ここで終わっても不思議ではない。まだ繋がっている手に力を込めると、正宗の目が桔梗に戻った。その目が迷うように揺らいでいて、桔梗は緊張する。正宗が言葉を発するのを待つべきか迷っていると、正宗が屈んだ。唇に触れた柔らかいものが何か、桔梗は一瞬、理解できなかった。
「……してよかったって言ったろ、お前」
正宗は硬直した桔梗を眺めて確かめるように言った。
「えっ、あっ? う、うん」
唇に息がかかる距離では少しでも動いたらまた触れそうで、桔梗は身体も思考も止まったまま咄嗟に返事だけをした。
「俺がしてもいいってことじゃねぇの?」
桔梗がキスのことだと思い当たったのは、それから二度瞬いた後のことだ。衝動的にやってしまったあれは、随分前のことだったと記憶している。今の今まで話題に上ったこともそういった空気になったこともなかったから、正宗の中ではなかったことになったのだと思っていた。
顔に血が集まり、狼狽える。
「そ、それは、そうだけど」
自分からしておいて相手からは駄目というのもおかしな話だ。異論はない。ただそれよりも。
「なんで、今」
思い出させるの。そう言おうとした口は正宗の口に塞がれた。反応を見るように離しては、また口付ける。何度か繰り返すうちに心拍数が上がって、桔梗は何を訊こうとしていたのか忘れてしまった。正宗が身を起こした時には桔梗は真っ赤になっていて、それが自分でも判るから余計に気恥ずかしくて俯く。
「俺んち、来るか」
「え」
桔梗は驚いて顔を上げる。正宗は探るような目をしていた。注意深く見るとその奥に緊張のようなものがあるような気がして、火照っていた顔がゆっくりと落ち着いてゆく。
「えっと、その、お父さん、は……?」
触れていいのか判らなくても触れざるを得ない。暴れる可能性のある人間と会うのは怖いのだ。どういうつもりなのか判らなくて、桔梗は慎重になる。
「あいつの家は出た」
「……一人暮らし?」
「ボロアパートだけど暖房器具はある」
冬も会える場所を提供すると言っているのだと気付くと、桔梗は目を輝かせた。
「行く!」
正宗は微妙な顔をした。
「お前、解ってんの? 来たらヤるけど」
「え、あ……」
桔梗の顔が再度赤みがかった。今、あの時の衝動はない。理屈を飛び越える勢いがない。迷っていると、繋いでいた正宗の手の力が緩んだ。桔梗ははっとして、離れていこうとするその手を慌てて掴む。
「い、行く」
心の準備は全く整っていない。それでも、その手の温もりを離すのが惜しかった。