5. 料理が楽しくなる日
制服のブレザーやカーディガンが不要になり、夏服でも暑い季節がやってきた。
桔梗は日傘をさして正宗の元へ下りる。土手は風通しが良い分幾らか涼しいが、遮るものがないので容赦なく日差しが突き刺さる。仰向けの正宗の顔にはロゴのない野球帽が乗り、腹の上で緩く両手を組んで足を投げ出している。Tシャツの袖から剥き出しの腕は既に日に焼けていた。空のペットボトルが直ぐ傍に転がっている。
「日射病になるよ」
桔梗は日傘の影に正宗を入れ、覗き込んだ。正宗は帽子を浮かせてちらりと桔梗を確認すると、上体を起こした。
「最近めちゃくちゃ暑いよね。去年はどうしてたの?」
「別のとこにいた」
去年は見かけたことがなかったから、別の場所にいたことは判っている。眉間の皺辺りに不快そうな気配が見えるから、訊かれたくないのだろうと桔梗は問いを重ねなかった。帽子を被り直した正宗の隣に座り、日傘で影を作る。肩を支えにしているが、正宗と使うために新調した日傘は大きめで、少し重い。長時間さしていても負担にならず、且つ正宗が窮屈にならない丁度良い位置を見つけるべく試行錯誤する。なかなか定まらない様子を横目で見ていた正宗が日傘を押し上げた。
「わ」
直ぐに日傘の重みが戻って桔梗が慌てているうちに、正宗は再び寝転んでいた。眩しそうに帽子のつばを下げている。桔梗は何をしているのか訊きかけて、やめた。代わりに正宗の上半身を影に入れるように斜面を少し登る。正宗が低い分、楽な位置は直ぐに見つかった。きっとそういうことだと思うと桔梗は嬉しくなって頬が緩む。正宗は何も言わない。桔梗は上機嫌で日傘を回したが、矢張り大きいから長くは回していられなかった。
「ビーチパラソル欲しいね」
「なんで」
「快適な土手ライフを送るために」
「……刺すのか。ここに」
「駄目?」
「目立つだろ」
「いいでしょ別に。正宗さんが流血してなきゃ通報されないよ。あ、そしたらピクニックできるね! 今でもここにお弁当あったらもうナチュラルにピクニックだよ。次持ってくるから一緒に食べようよ」
正宗は戸惑ったような目で桔梗を見上げた。
「私ピクニックやったことないからやってみたい」
「小学校の遠足とかあったろ」
「あれは遠足であってピクニックではない」
「……同じじゃね」
「いいの。あれは数に入れないの。私浮いててさ。苛められるほどではなかったんだけど、なんか浮いてて。お弁当も自分で用意したし特に楽しいものではなかったんだ。だからノーカン」
「……そうか」
「嫌なら食べなくてもいいけど、持ってくる。正宗さんが食べてくれないと次の朝も同じもの食べなきゃいけなくなるけど、持ってくる」
「お前……意外と悪どいな」
正宗の言葉に怯んだような気配が滲んだ。桔梗は確信する。この路線でいけると。優しさ発掘中の正宗は無視できないはずだ。
「正宗さん私より食べるでしょ。私にとっては二人前くらいになるから、お昼もかも。冷凍と解凍繰り返したら不味くなりそうだよね。凄く不味くなりそう」
桔梗はとぼけるように視線を浮かせ、わざとらしく困ったなぁといった空気を醸す。正宗の視線が頬に刺さっているが、気付かないふりだ。
「……ビーチパラソルは俺が用意する」
「え、ほんと? ありがとう! じゃあ雨でも大丈夫だね」
桔梗の満面の笑みに、正宗は不機嫌なのか困っているのか判りにくい顔になっている。
「それは椅子も用意しろってことか。斜めじゃ危ねぇだろ」
「……じゃあ雨天延期で」
桔梗はクーラーボックスや弁当箱を買い、ネットの世界には弁当の動画が溢れかえっていることやスープジャーなんてものがあることを知った。夕食には久しぶりに手を入れたものを試作して、水曜日の献立を考える。
高校に入学してからの桔梗の三食は昼は購買で買い、朝夕は作っているものの時間のかからない簡単なものばかりになっていた。カレーを作り置きして毎日食べ続けることも、お茶漬けだけということもある。自分しか食べないのに凝ったものを作る気になれなかったのだ。誰かが食べると思うとそれだけで料理が楽しくなるのは発見だった。
毎日天気を気にしながら水曜日を待つ。日曜日に雨が降ったがその後は晴れた。当日は少し早起きをする。近頃挨拶と学校の成績以外の会話もなくなっていた母と遭遇したので、食べるか聞いてみる気にもなった。母は慌ただしく支度をする手を止めずに、急いでいるからいらないと出かけて行った。会社で重要な立場にあるらしく、朝から晩まで精力的に働いているようだった。いつものことだから、桔梗の心に波風は立たない。日常のこととして忘れ去り、料理を楽しんだ。
どんなに浮かれていても桔梗は授業はちゃんと受ける。真面目に聞いていれば一度で理解できるものを聞き逃して、わざわざ復習に時間を割く気はない。それでもビーチパラソルが気になって、授業を終えると友人への挨拶もそこそこに校舎を出た。
目的の物はまだ遠い橋の上からでも見えた。色はモスグリーンだ。用意してくれたことに喜びはあるが、迷彩色を選んだなと思うと可笑しさが勝って桔梗は一人笑う。
橋を渡り土手道に入ると自然と足取りは弾んだ。ビーチパラソルの下で寝そべっている正宗が見えてくる。
「正宗さーん! お弁当とりに帰るから、もうちょっと待ってて!」
土手に下りずに声だけを届けると、正宗は了解を示すように片手を持ち上げた。桔梗は駆け足になる。暑さと運動不足で途中でばてたから結局は歩くのと変わらない時間を要したが、戻っても正宗はちゃんと待っていた。
「着替えてこなかったのかよ」
「早く来たくて」
タオルで汗を拭う桔梗に正宗が冷たいペットボトルを差し出した。見れば正宗の傍にもクーラーボックスがある。乗り気だったのかどうかは判らないが、ひと手間考えてくれたのだ。桔梗は嬉しくなる。受け取ったペットボトルは暑い日に桔梗が持ち歩くスポーツドリンクだったから、尚嬉しい。
「ありがとう。次からは飲み物は全部正宗さんにお願いしていい?」
「……次もやんのか」
「一回だけなんてビーチパラソル勿体ないもの。クーラーボックスもお弁当箱もこのために買っちゃったし、あ、そう! スープジャーも買ったの! 見て! この中で果物も冷やせるんだよ。凄くない? 冷たいまま食べれちゃうの!」
桔梗は円筒形の容器の蓋を外し、中のビニール袋を開けて中身を見せた。保冷剤代わりの氷袋の上にカットしたキウイと蔕をとった苺が乗っているだけだが、この時間まで冷えているのは検証済みだ。食っていいのかという目で見られて、桔梗は頷く。正宗はキウイを摘んで口に入れた。咀嚼中にスープジャー、桔梗、クーラーボックスと順繰りと視線が巡る。
「……次もやるか」
正宗がぼそりと呟いて、桔梗は小さく拳を握った。