4. 歩調は合わないけれど
晴れているのに正宗の姿がない水曜日が続いた。一度くらいなら度々あった。だが二度三度と続くと桔梗は思わざるを得ない。おそらく嫌われてしまったのだと。桔梗は失くしてしまったのだ。心の全てを占めるほどの大きな存在ではなかった。それでも共にいても気疲れしない存在は貴重だった。気分が落ち込むのは嫌われて悲しいからなのか、自分の所為で正宗が気に入っていただろう場所に通えなくなった申し訳なさからなのかは判らなかった。桔梗の通学路は変えたっていい。帰りだけ遠回りをして対岸を通ればいいのだ。だが正宗は犬猫ではないのだから、桔梗の通り道が変わったところで察知する術はないだろう。
「つまんないな」
口に出した気持ちはいまいちしっくりこない。溜息をついて通いなれた土手の上を歩く。今日もきっといないのだろうと思いながらも、目は正宗の姿を探していた。
いつもの場所に人影がある。片膝を立て、背後に両手をついただらしない姿勢ながらも座っている。だから別の人間だ。と、一瞬思った。だが少し近づくとそれが見知った人物だと直ぐに気付いた。足は止まる。転がっていないのが珍しかった。何より、会えたことを喜んでいいのか素通りした方がいいのか迷って、動けなかったのだ。
どれくらいそうしていたのかは判らない。ふと正宗が顔を上げて、桔梗のいる方向を見た。表情が判るほど近くはないから、どういう顔をしているのかは判らない。正宗のことだから、どんな感情を抱いていても直ぐに顔を逸らすだろうと思っていた。だが正宗は、まるでじっと桔梗を見ているかのように身じろぎ一つしない。どういう心境なのか判らなくて、桔梗は困惑する。やがて正宗は立ち上がり、斜面を斜めに横切るように土手を登ってきた。桔梗のいる方向へ。帰るのだと思った。桔梗が来た方向は、正宗の帰る方向だから。桔梗は俯く。自分の所為とはいえ、素通りされるのは辛い。
「お前この後、時間あるだろ」
桔梗は驚いて顔を上げた。正宗は桔梗の進路を妨げるように真正面に立っていた。両手をポケットにつっこんだお世辞にも姿勢が良いとはいえない様は、上背と人相も相まって威圧感がある。桔梗は萎縮した。怒っているわけではないのだろうが、機嫌が良いようにも見えなかった。
「好きな食いもん、何」
桔梗の目は丸くなる。
「え。な、なんで」
言葉は理解できたが、内容が理解できなかった。避けられていると思っていたのだ。なのにまるで、桔梗に用事があるような言動をするから。
「ねぇんならいいよ」
正宗は顔を顰めて桔梗の横を通り抜ける。
「あっ…ぎゅっ牛丼! 花野屋の牛丼は美味しいと思う!」
桔梗は慌てて振り返った。
「おう」
返事はあったが、正宗は振り返りもしなければ足も止めない。桔梗は遠のく背中をただ見送る。
「なんだよ」
そのまま遠ざかるだけに見えた正宗が、半身になって桔梗を見た。
「えっ、なにが?」
「花野屋行く流れだろ」
そうだっただろうか。桔梗は動かなくなっていた頭を働かせて、正宗の言動を振り返ってみる。繋ぎ合わせればそう解釈できなくもなかった。ただ、「おう」だけでは何も伝わらない。話は終わったのだと思っていた。
「わ、わかりにくい」
長年連れ添った人間同士なら「あれ」や「それ」で通じるらしき話を聞いたことはあるが、まさかそんな高度な要求をされるとは思わなくて、桔梗の口は小さくわなないた。
「行くの、行かねぇの」
小さな呟きを聞き取れる距離にない正宗は、苛立ったように声を尖らせる。
「い、行く」
兎も角気が変わらないうちにと桔梗は駆け寄った。正宗は隣に並ぶまで見届けずに歩みを再開する。
「えっと……でも、なんで」
「何が」
桔梗がおずおずと問うと、不機嫌な声だけが返る。
「怒ってたんじゃないの?」
今だって、とても友人を食事に誘う態度とは思えない。怒っているから奢れということならしっくりくる。だがそれなら桔梗の好みなど訊かないだろう。
沈黙が降りた。
背丈が違えば歩幅も違う。桔梗は置いていかれそうになっては小走りで距離を詰めるといったことを繰り返した。
「……優しくされてぇんだろ」
桔梗は耳を疑った。態度は全く優しくない。正宗自身が優しくできないと言っていた。こんな短期間で改善できるような簡単そうな話でもなかった。それでもやってみようと思ったのだ。それで、ご飯。
桔梗の足が止まる。
「あ、は。たぁんじゅーん」
奢ろうとしているのだと思うと、気が抜けたような笑いが桔梗の口から漏れた。正宗は舌打ちをして足を早めた。
「うるせぇな。置いてくぞ」
「嘘嘘、ごめん待って!」
桔梗は小走りで後を追う。
「嫌われたと思ってたのが馬鹿みたいで笑っちゃったの。ごめんて」
単純発言には触れない。折角桔梗の言を受け入れてくれたのだ。手法に文句をつけてやる気を削ぐ必要はない。正宗は何も言わない代わりに歩調を緩めた。桔梗はまだ早歩きをしなければならなかったが、それだけで機嫌は上向いた。
「なんだ、なぁんだ」
ゆっくりと胸の内に安堵が広がり、桔梗はそれを反芻するように同じ言葉を繰り返す。
「してよかった」
桔梗にとってはファーストキスだったのだ。特別な夢を見ていたわけでも、大切にとっておきたかったわけでもない。それでも嫌な思い出にならなかったのはいいことだ。
正宗は何をと問う目だけを桔梗に向けた。桔梗は少し考えて、自分の唇を指し示す。
「……そうかよ」
正宗はそっぽを向くように進行方向に顔を戻した。程なくして片手が後ろ手に差し出される。桔梗はその手を見て考えた。奢りではないのかもしれない。
「……前払い?」
「ちげぇよ。手。貸せ」
「手?」
正宗の声が苛立った。桔梗が手を置いてみると、握られる。
「歩くの遅ぇんだよ」
正宗は振り返らない。桔梗が見上げた耳は少し赤かった。きっと顔は顰められているのだろうと思うと、笑いが込み上げてくるのを止められなかった。
「んふふふふ」
「なんだよ」
「なんでもない」
桔梗はご機嫌で歩く。
手を引っ張るよりも歩幅を合わせてくれた方が優しいと教えるのは、もう少し後にすることにした。