3. 優しくなくないよ
「ねぇ、学校行ってないの? 働いてるの? いくつ?」
何も知らないのは事実なので、桔梗は次に正宗を見つけた時に少し踏み込んでみることにした。
「行ってるし働いてる」
反応がなくても今更だと気楽に構えていたが、答えがあると嬉しくて桔梗は調子付く。
「そうなの? でもここにいるのって水曜日でしょ、平日。学校サボる曜日決めてるの?」
「昼間働いて夜学校」
「あ、定時制とか? ええ、凄い」
自分で生計を、少なくとも何かしら家計の助けになる生活をしているならば桔梗よりも余程地に足がついている人間だ。
「凄かねぇよ」
「凄いよ。だって、働いてでも学校行ってるんでしょ、何か目的があって」
「高校くらい出てねぇと舐められるから行ってるだけだ」
投げやりな言い方だった。
「じゃあもっと凄いでしょ。必要だから特にしたくもない勉強に時間割いてるってことでしょ」
桔梗は少々不満で、不貞腐れたような声になる。正宗が鼻で笑って、桔梗ははっとした。
「ごめん。無神経だった。私みたいになんとなく生きてるのに言われても、腹立つだけだよね」
親の金で何不自由なく大学まで約束されている立場からの言葉は、そのつもりがなくても嫌味になることがあるのだ。桔梗はいつもは気をつけていたことだった。正宗は苛立つことはあっても怒ったことがないから、いつの間にか図々しくなっていたのだということに気付くと恥ずかしくなる。
「ごめん、違うの。前言ったこと、覚えてるかどうかわかんないけど、私、なんにもなくて。やりたいこととか。惰性でただ生きてるみたいな。だから、目標とか目的意識とか持って行動してる人って、本当に凄いと思ってて、それで、正宗さんだって、必要なことちゃんと選んでるの、凄いなって。だから、だからね、」
桔梗の早口を、正宗の溜息が遮った。
「気にしてねぇよ。落ち着けよ」
桔梗はまだ出ようとしていた言葉を喉奥に押し込んだ。
「……ごめん」
「俺んちは。母親はいない。父親はアル中で。生きてるだけでも腹が減るから働いてる。それだけ。凄いも凄くないもない。お前がどう思おうとなんも変わんねぇ」
正宗の声には煩わしさが滲んでいた。
「う、うん、わかった。ごめん」
反応はなかった。正宗はきっと、桔梗の口を閉じさせるために話したのだ。桔梗はそう思うと、その日はもう話しかけることができなかった。
次の水曜日は、桔梗は土手を下りることができなかった。その次の水曜日も通り過ぎようとして、足が止まる。あの会話の前までは毎回土手に下りていたから、誤解を与えそうな気がしたのだ。桔梗は正宗の家庭環境に思うところがあって距離を置こうと思ったわけではない。不快にさせた気まずさで足が遠のいただけで、正宗の何かが悪かったわけではないのだ。
暫く躊躇って、桔梗はそっと斜面へ踏み出した。
「ね、え。……ここ、いい?」
「なんだよ、今更」
正宗の背中におずおずと声を掛けると、いつもと変わらない億劫そうな声が返った。
「あ、うん。そうなんだけど」
桔梗は拍子抜けして肩から力を抜いた。この間はごめんと気軽に音にしかけて、口が止まる。謝ればまた、不快にさせる気がした。誤解をしていないか訊くにしても、蒸し返すことになってしまうだろう。定位置となっていた正宗の背中側に座ることはできても、どうにも切り出せず悶々とするだけの時間が過ぎていく。
雲が茜色に染まる頃になって、正宗がのそりと立ち上がった。
「俺みたいのと会ってて親心配しねぇの」
桔梗が驚いて見上げると、目が合った。
「大丈夫。あんまり私に関心ない人達だから」
正宗はふうん、と相槌を打って土手を登っていった。
いい大学に行かせることにしか興味のない両親よりも、そんなことを気にする正宗の方が余程関心があるのじゃないかと思うと、桔梗は少し嬉しくなった。
それ以来会話が弾むようになった。とは言っても以前と比べればという程度だ。正宗は相変わらず低調で、桔梗の喋る量の方が圧倒的に多い。
「正宗さん犬と猫ならどっち好き?」
「……犬」
「どういうとこ好き?」
「……仕込めばちゃんと仕事できるだろ」
「可愛いとかもふもふー、とかじゃないんだ……警察犬とか、盲導犬とか凄いもんね。あ。この間麻薬探知犬の話観たよ。空港で活躍してるやつ。凄いよね。何かの病気の匂い嗅ぎ取って人間助ける動物も犬だったような……アラート犬だっけ? え、ほんとに凄いな」
記憶にあることを言葉にする作業をしていただけだった桔梗は真顔になった。犬とは一体、とその存在について考え込むと、正宗は沈黙している。
「ねえちょっと。私がどっちが好きかは気になんないの?」
「……どっち」
「うわー、全然気持ちこもってない。義理で訊くのやめてー」
義理でも、今までを考えると随分な進歩だと思う桔梗の声は軽い。正宗から面倒そうな溜息が聞こえた。軽口でじゃれ合うのはまだ早かったようだと、桔梗は少しばかり落胆する。
「正宗さんは猫科の何かだよねー」
桔梗は拗ねた声を出した。
「何かってなんだよ」
「何かは何かだよ。家猫は可愛すぎるから絶対違うけど、なんかこう、馴れ合わない感じが」
「じゃあお前は犬科だな」
「え? 優秀だから?」
「警戒心の欠片もなく誰彼構わず尻尾振る馬鹿犬もいるだろ」
「酷いな!?」
反射的に声を上げたものの、桔梗は腹を立てはしなかった。
頭がいいといっても学校の勉強の話だから、社会に出ても優秀とは限らない。誰彼構わず尻尾を振ったりはしていないが、特に良い顔をするわけでもない正宗に対しては振っているようなものだ。馬鹿犬に見えても仕方がないと納得してしまったのだ。
上手いことを言われたような微妙な悔しさで唸っていると、仰向けになった正宗が桔梗を見た。
「俺、優しくねぇだろ」
唐突に目が合った桔梗は虚を衝かれて、返事をするまでに間が空く。
「うー、ん? ……う、ん? そう、かな。そうかも?」
非常に判りにくいが、気遣える優しさがあることを知っている。ただ馬鹿犬発言には優しさがなかったと思うので、ちょっとした抗議のつもりで桔梗は頷いた。
「余裕がねぇから優しくできねぇんだってさ。自分が満たされてねぇからだって」
予想外に正宗の核心に触れる話で、桔梗は戸惑った。正宗はもう、桔梗を見ていない。目を伏せるようにしてぼんやりと、どこを見るでもない眼差しをしている。
「誰に言われたの?」
桔梗は下手な相槌を打てなくなって、慎重に問う。
「学校の同級生」
「……深いとこ衝く同級生だね」
「定時制だから大人もいるんだよ」
「そっか」
助言か苦言かは判らないが、正宗にはそういうことを教えてくれる大人が近くにいるのだ。桔梗はあまり良いとは言えない家庭の事情を聞き齧っていたから安堵して、それから羨ましいとも思った。
桔梗は世間で言うところの良い子だ。上っ面だけだとしても人間関係を良好に見せることができる。成績は優秀で何でも無難にこなし、世間の決まりも校則も破らないから大人は何も言うべきことがない。だから誰も、桔梗の内面など気にかけない。世間の仕組みやそれらと上手く折り合う方法は書籍や動画といった媒体から得て、実践形式で学んできた。媒体の向こう側には必ず人がいる。けれど面と向かって、桔梗のためだけに発信された言葉ではない。
「そう。そりゃそうだなって思ったんだ。だからちょっと自分大事にしてみようと思ったんだよな。俺が幸せだって思えること探して、幸せになってやろうってさ」
「……まだ探し始めたばかりなの?」
見つかっていたら正宗はこんな倦んだような目はしていないだろうと、桔梗は思った。
「もうやめた」
「なんで?」
「気付いたら馬鹿馬鹿しくなった」
「何に気付いたの?」
「俺が満たされたところで、で? って」
「………で? って?」
「優しくしてぇ相手もいねぇなって思ったら、意味ねぇことに気付いた」
何を言うべきか判らなくなって、桔梗は口を噤む。そうすると正宗も黙るから、会話は途切れる。
「なんか、寂しいね」
桔梗は気の利いた言葉を暫く探したが、結局そんな言葉しか出てこなかった。
桔梗は幸せな人間だ。顔を合わせることが殆どなくても両親が揃っていて、住む家があって、金に困ることもなく三食食べるのが当たり前のことで、苛められてもいないし、大した苦労をしなくても大学にも行ける。だけど寂しい。誰とも繋がっていなくて寂しい。だから正宗のことも勝手に寂しいと感じるのかもしれなかった。
「そうだな。そうか。………そうだな」
正宗は何もかも諦めたような顔をしていた。桔梗がちょっと不用意だったかなと思う発言にも苛立ちを覚えないほど、どうでもいいのだ。それが何だか悲しくて、どこも見ていない目を此方に向けて欲しくて、桔梗は正宗の顔の真上に首を伸ばした。肩を少し過ぎるくらいの黒髪が顔の両側から落ちて、正宗の頬を擽る。緩慢に持ち上げた目線で何だ、と問う正宗の薄い唇にそっと口付けた。触れ合わせただけで直ぐに離すと、正宗は目を瞠いていた。
「なっ、なん……っ、なん……? だよ…?」
桔梗はその正宗の珍しい反応を、自分の髪の間に囲ったままじっくりと観察する。
「こういうことする相手ができたら、男は変わるんだってなんかの本に書いてあった」
「……それ、信じてんの?」
まだ頭が働いていないかのようにほうけた、無防備な表情で正宗は瞬く。
「わかんないけど」
桔梗は生身の人間よりも、媒体から得る情報の方が多かったのだ。得た知識が本当かどうかはやってみるまで判らなかった。
「馬鹿か。男はやりてーからやれる女大事にしてるだけで、別にそれで変わったりなんかしねーよ」
正宗は眉を顰めて、苛立った声を出した。
「そうなの?」
「そうなんだよ」
「正宗さんもそうなの?」
「………わかんねーけど」
眉間の皺を深めた正宗は目を逸らした。桔梗はもう一度唇を重ね合わせる。
「おい!」
正宗は慌てて上にずり上がって桔梗の下から抜け出すと、上体を起こした。
「嫌だった?」
正宗は黙った。瞳は忙しなく揺れている。
「わかんないんだったら、試す価値あると思わない?」
桔梗とて、未知の領域だ。頭でっかちなだけの桔梗が、他人にどれだけの影響を及ぼせるかなど判らない。それでも少なくとも、正宗を動揺させることはできたのだから、何も及ぼさないなんてことはないのじゃないかと思う。
正宗は睨みつけるように桔梗に視線を定めた。
「……お前、俺に優しくされてーの?」
「そうかも」
正宗にとって桔梗は、突然訳のわからない絡み方をしてきた、それこそ得体の知れない人間だったはずだ。それを煩わしげにしながらも相手をしていたのだから、心無い人ではないと思う。無意味に馴れ合おうとしない微妙な距離感は、気遣いで親しくしようとされるよりもずっと心地よかった。優しくしたい対象になったら、距離感は変わってしまうだろう。それでも正宗が投げやりなままでいるよりは良い気がした。
正宗は暫く沈黙し、何の前置きもなく立ち上がると土手を登っていった。
嫌だったのかな、嫌だったんだなと、桔梗は思った。そういう関係でもないのに突然あんなことをされたのだ。逆の立場だったら、桔梗だって嫌だ。
あれは衝動だ。焦燥感が、桔梗を突き動かした。
正宗の心が完全に閉じて、あの億劫そうな返事すらなくなる気がして。完全に手の届かない場所に行ってしまう気がして。何故ならあれは。あんなことを話したのはおそらく、桔梗に心を開いたからではなくて。優しくできないからもう近づくなと言いたかったのだ。優しくしたい相手はいない。それは、桔梗も例外ではないのだから。
「でもさ。それって」
それはそれで、優しさではないのか。問いかけたい相手の背中はもう、遠かった。