2. つもりがなくても積み重なる
桔梗は気紛れに青年の寝転ぶ土手に下りるようになった。近くに座っても何も言われないのをいいことに、護岸に沿って流れてゆく川をぼんやりと眺める。相手をするのは億劫そうなので、返事もいらないようなどうでもいい世間話を選んで垂れ流すこともある。返事があることは稀だが、おもしろ動画を見て一人で笑うよりは満足していた。
「お前友達いねぇの?」
ある日。青年が脈絡もなく言葉を投げた。
「いるけど!?」
座ったまま手の届く範囲で四葉のクローバーを探していた桔梗は、驚きで顔を上げた。相変わらず向けられている背中が、じゃあなんでこんなところで無為な時間を過ごしているんだと言っているような気がして、目が逸れる。
「いるけど。……いるけどさ。学校の中だけの友達っていうか」
語尾が口の中に消えてゆく。青年の反応はない。桔梗に興味が湧いたというより、ただ疑問を口にしただけのようだった。桔梗は何となく言葉を続ける。
「私。自分で言うのもなんだけど。頭いいみたいなんだよね。周りの子がさ、テスト難しかったとか言ってるの全然共感できなくて。そういうの正直に話すのって、嫌味じゃない? 話合わせるようにはしてるんだけど、きっとバレてるんだよね。教え合うってなっても、なんでそれがわかんないのかわかんないから全然役に立たないし。教えてもらいたいこともないし」
空を流れる雲を追っていた目は手元に下り、桔梗の手は無作為に三つ葉を摘む。
「制服で判ってるだろうけど、うち進学校でさ。夢とか目標持ってる子ばっかなんだけど。私はそういうのなくて。ただ親が望むから選んだだけなんだよね。養ってもらってるし、いい大学に入れる為に私に投資してるわけで。だから。その分は還元しなきゃなーって。そんなのが特に苦労もなく上位にいるのって、頑張ってる人から見たら、なんだよ、って感じでしょ?」
言葉を切っても、青年からの言葉はない。
「まあ、私もさ。 最低でも一年は同じ教室にいる人達と気まずくなりたくないってだけだから、わざわざ学校の外で会うような用事なんて作らないし」
両手に持ちきれなくなって、桔梗は三つ葉を摘む手を止めた。青年にとっては、だからなんだという話だろう。だからといって、訊いておいて相槌もないとは何事かと青年の背中を見た。
「ねぇここまで喋ったんだから、そっちもなんか喋ってよ」
返事はない。三つ葉をその身体に降らせたら顔にもかかって、青年は煩わしそうに片手で払った。
「お前が勝手に喋ったんだろ」
「そっちが訊いたんじゃない」
「そこまで喋れとは言ってねぇ」
「そうだね!」
桔梗は会話が続いたことが嬉しくて笑い、青年は不審そうに桔梗の顔を横目で見た。
桔梗は青年を見かけると必ず土手に下りるようになった。青年は相変わらずだった。桔梗は絆創膏を持ち歩くようになったが、打撲ばかりで出番はない。
「喧嘩、好きなの?」
青年はぴくりとも反応しない。
「……苛めなら」
「ねぇから。直ぐなんかに通報しようとすんのやめろ」
青年は立てばおそらく桔梗よりも上背があり、人相も良くはない。同年代から侮られるような風体ではないから、納得はする。
「だってさあ。私達、だいたい週に一回は会うんだし、もうそろそろ友達って言ってもいいでしょう」
「お前が勝手に来るだけだろ」
「そうだけど。でもどうでもいい世間話とかしてるし、友達みたいなものだと思わない?」
「名前も知らねぇだろ」
「匿名の友達がネット上に溢れてる時代に名前とか。因みに私桔梗っていうんだけど。これ本名ね。花の名前なんだけど知ってる? そっちは?」
沈黙である。少し会話が続いたと思って調子に乗った分、桔梗は面白くない。
「シャイボーイか」
悪態をついて、桔梗はスマートフォンを手にした。男の子名前ランキングを検索し、読み上げる。
「蓮?」
「……」
「碧?」
「……」
「陽翔? 湊、蒼、朝陽、凪、み」
「正宗」
煩わしさを煮詰めた声が割り込んで、桔梗は弾かれたように顔を上げた。
「え、しっぶ!?」
「うるせえな。お前だって渋さじゃ変わんねぇだろ」
「私のは花の名前だから全時代対応してますー。多年草だから毎年生まれ変わって新鮮なんですー」
「どういう理屈だよ」
「マサムネさんマサムネさん漢字は?」
「……」
「もー直ぐ黙る。いいよ独眼竜政宗って呼んでやる」
「……変な名字作るな」
「名字じゃないよ。智略に優れた片目の戦国武将、伊達政宗の異名だよ。一つ眼の竜で独眼竜。格好良いよね。現代人が使うとなんか恥ずかしいけど」
「……」
「ねぇ独眼竜」
「……」
「独眼竜さんてば」
「やめろ。酒だ」
「ん?」
「酒の名だっつの」
「あ、これ? 正しいに宗教の宗?」
桔梗が顔の前に差し出したスマートフォンの画面を見て、正宗は頷いた。桔梗は改めて日本酒のラベルに筆で書かれたその字面を眺める。
「正しい宗教……独眼竜のがぽい気がする」
「なんでだよ。返事しねぇからな」
「え、じゃあ正宗さんなら返事してくれるってこと?」
「……」
「しないんかい」
そこからはまただんまりだ。桔梗は諦めて液晶画面に目を落としたが、共にいる誰かがスマートフォンに夢中になるのは好まない。まるで液晶画面の中に広がる世界より価値がないと言われているように感じるからだ。背を向けている正宗が気にするとは思えなかったが、それでもそれを仕舞い込んだ。さりとて返事を引き出せそうな策は今日はもうない。
目前には穏やかに川が流れている。いつも見ている、変わらぬ風景。座り込むことには慣れたが、寝転んだことはなかったなと、仰向けに倒れてみた。足を伸ばすとスカートと靴下の間の素肌に草が刺さる。脱いだブレザーを敷いて、再び寝転んだ。倒された草が適度な弾力となって背中を支える。土手沿いに高い建物はない。真っ直ぐ見上げれば視界に広がるのは空だけだ。
「なるほど。これは気持ちがいいね」
正宗がちらりと桔梗を見た気配があった。返事はなかったが、正宗がいつも転がっている理由を理解した気になって、桔梗は少しだけ気分が良い。
「あ、ねえ、あれうろこ雲じゃない? 明日雨かなぁ」
同じように空を見上げてくれていいんだよと誘ったつもりだったが、正宗は桔梗に背を向けたままだった。
「おい」
ぶっきらぼうな声が聞こえて、桔梗は瞼を持ち上げた。白かったはずのうろこ雲が茜色に染まっている。
「えっ、嘘、寝てた!?」
桔梗は慌てて上体を起こした。
「お前の警戒心はどうなってんだよ」
声の方向を振り返ると、半身の正宗が両手をポケットに突っ込んで立っている。土手を少し登った場所にいるので、桔梗は大分見上げなければならなかった。呆れきった目がそこにある。
「スマホは鞄の中で頭の下に敷いてました!」
「お前歴戦の兵士かなんかなの?」
当人が弱ければ何の防犯にもならない。正宗の指摘は尤もで、桔梗の目が泳いだ。
「ま、正宗さんいるから大丈夫だと思って……きっと、そう、安心感があるから、……川の音ってリラクゼーション効果あるって言うじゃない。それに負けちゃったんだよ」
まごまごと言い訳じみると、正宗の呆れは深くなった。
「その信頼はどっからくんだよ。名前しか知らねぇだろ」
「う、うーん……今までの積み重ね?」
「なんも積んだ覚えがねぇ」
疑問形じゃねぇかと正宗の胡乱な目が語る。
「でもほら、起こしてくれたし」
桔梗は言い訳として口にしたが、正宗が信頼に値するのは間違ってはいないと思う。正宗の足は揃っていない。明らかに登りかけた途中で振り返った体勢だ。そのまま置いて帰ることに気が咎めた以外に考えられなくて、桔梗の頬が緩んだ。
正宗はじわりと顔を歪めると、そのまま土手を登っていった。