同級生の木嶋さん
土手に転がる前の話
高校の教室での席順は特に決まっていない。だから正宗は、いつも後ろの席を選ぶ。
同年代の同級生には、デリケートな事情で中学に殆ど通えていなかった者もいる。正宗は大柄で人相も悪く、そのつもりがなくても尖った空気を撒き散らしている。ただでさえ同年代が話しかけるには勇気がいる部類の人間だ。自身の刺激の強さは知っているから、正宗なりに気を遣ってそういった同級生から距離を取るようにしていた。
授業態度は真面目だから問題児扱いはされていない。教師は家庭の事情を知っている為、時折顔に痣を作っていても父親が原因と判断して気遣わしげに話しかけてくる。だから学校で孤立しているということではない。ただ、真っ当に育った人間というのはどうにも反りが合わなかった。悪心のない言葉だと解っていても時に押し付けがましく感じ、無神経と感じることも多々あるのだ。それでつい正宗は苛立ち、善意からだろう彼らの言葉は素直には受け取りにくい。唯一、反発を覚えにくい大人が同級生の木嶋だった。どことなく同じ匂いを感じる所為かもしれない。
木嶋は真っ黒に日焼けしていて、縦にも横にも正宗より大きい。見るからにガテン系で、真顔だと話しかけにくい点では正宗とあまり変わらない。ただ笑うと目尻に笑い皺が入り、人好きのする顔になるので怖さが薄れる。
木嶋も自分の身体の大きさを思ってか後ろの席を選ぶので、二人は授業の合間に自然と話すようになった。正宗が足を投げ出して椅子の背もたれにだらしなく背を預けていても、木嶋には威圧感を与えないようだった。ただのだらしないガキくらいにしか感じていないのが解るから、気が楽だった。
「木嶋さんなんで高校生やろうと思ったの。土建屋に学歴必要ないんだろ」
木嶋から仕事の話を聞くようになると不思議になるもので、正宗は次の授業の準備をしながら訊いた。木嶋は教科書に目を滑らせながら頷く。
「まあな。仕事は別にいいんだよ。必要な資格とんのも出世もそこは重要になんねぇから。ただ俺、嫁さん大好きでな」
急になんだと正宗は眉を顰める。木嶋はその顔を見て笑い、まあ聞けよと続ける。
「結婚はよかったんだよ。食いっぱぐれはねぇしそこそこ稼いでるから、そこで認めさせた。けど親戚連中は中卒ってのがどうにも気に入らねぇらしくて。土建業にも偏見あるのが多いから、嫁さんは俺のいないとこじゃ色々言われてるらしくてな。嫁さんは平気なふりしてるけど、平気なわけねぇだろ。黙らせてやろうと思ってな」
思いも寄らない話に、正宗は驚いた。そんなことで、と思う。
「そういうヤツって、高卒でもなんか言わねぇ?」
「そんなら次は大学卒業だな。通信大学とかあるだろ。やってやれねぇことはねぇ」
正宗は戸惑った。
言いたい奴には言わせておけばいい。どうせ口だけの、何もできない奴らだ。根拠もなく木嶋はそういう蹴散らし方をする人間だと思っていた。認めさせて黙らせるという方法は、格好良いとは思う。正宗もそこまでの明確な気概があるわけではないが、高卒資格を得ようとしているのは学歴で態度が変わる人間がいることを知っているからだ。ただ。
「女の為に、そこまですんの」
「おうよ。なんせ同じ墓に入る女だからな」
快活な笑顔を見せる木嶋を、正宗は全く理解できなかった。
正宗は女好きのする風体ではない。それでも悪そうな男を好む層がいるのか、寄ってくる女がいないわけではなかった。だが彼女らは、何もできないくせに他人の事情を根掘り葉掘り聞きたがる。無神経で、自分本位で、考えなし。見当違いな安っぽい同情をしては独りよがりの優しさを押し付ける。それがどうにも不快で、女という生き物が苦手だった。
女をそんな風にしか感じられない自分は、結婚してもきっと、父親のようになる。だから自慢げですらある木嶋が、ただただ別世界の人間のように見えた。
なんとなく木嶋の顔を見ていられなくなって、正宗は目線を正面に流した。定時制の生徒数は少なく、机の数は余る。前の席は三つも四つも空いていた。
「俺は無理だなぁ」
独り言のようにぼんやりした呟きが溢れた。
「諦めんの早えな。お前はまだ二十歳にもなってねぇだろうが」
「……諦めっつうか。まず女に優しくできねぇしさ。無理なんだよ」
諦めは、やる気のある人間が辿り着く心境ではないかと正宗は思う。やってやって、やり尽くした人間がどうしようもなくなった時に陥っていい境地。やってみようともしない人間に、諦めるという概念は妥当ではないような気がした。正宗はただ、やる気にならないだけだ。
「津田よお。多分それはさ。お前が満たされてねぇからなんじゃねぇか」
「は?」
正宗は眉を顰め、反射的に睨んだ。
「ほらお前、ちょっと痛いとこ突かれただけで直ぐ苛立つだろ。そりゃ余裕がねぇからだ」
木嶋はちらとも怯む様子もなく、からりと笑う。まるでじゃれてくる子猫をあしらうような軽さだ。正宗は凄む気概が削がれた。気持ちの収めどころを見失って、眉間の皺だけが残る。
「女に限ったことじゃなくてな。余裕がねぇと人間、誰にも優しくできなくなるんだよ。俺も津田くらいの頃はまあ荒れてたわ」
正宗の嗅覚は間違っていなかったようだ。別世界の人間のはずなのに、同族臭がするのは何故なのか。正宗は少しばかり混乱した。
「あの頃に会ってたら今のひと睨みでぶちのめしてたくらいには荒れてた」
脅しかと思いきや、木嶋は嬉しげな顔をしている。正宗の脳内では木嶋像が混沌としてくる。
「惚れた女と相思相愛で、結婚までできて、今じゃ俺はあの頃には考えられなかったくらい寛容な男だぞ。大海原のように広い心を持った男だぞ」
「……なんなんだよ。自慢? 結局幸せ自慢?」
「おうよ。幸せはな、いいぞ。くっそ生意気にガン飛ばしてくるクソガキにも手が出ねぇ!」
木嶋は大きく開いた片手で正宗の頭を掴んだ。わっしわっしと豪快に正宗の頭が乱される。
「出てんじゃねぇか!」
正宗は乱暴にその手を払った。木嶋は笑っている。
「可愛がってんだよ」
「力つえぇんだよ! 首もげるかと思ったわ!」
正宗は椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、木嶋の手の届かない場所に頭を避難させた。
「お、おおい、そこ、喧嘩は駄目だぞー」
教師の声がして前方に目を向けると、眼鏡をかけた中年太りの男が前の扉から顔を出していた。同級生達が腰を浮かしたり机ごと距離を置いたりしている。
「あ、すみません。じゃれてただけです。こいつ可愛くて。皆もごめんなー。怖いことないからなー。殴りかかってきたら撫で回して回収するからなー。大丈夫だぞー」
木嶋は立ち上がりいち早く教師に頭を下げ、同級生達に笑顔で無害を訴える。正宗は木嶋に言いたいことを苦虫と一緒に噛み潰して、首から上をかくんと下げて見せた。
「すんません。ふざけてただけです。学校ではやりません」
「こ、校外でも駄目だぞー」
教壇に立った教師は聞いてはいけないことを聞いてしまったような顔をした。
「大丈夫です。俺がしっかり指導しておきます」
木嶋が凛々しく引き締めた顔で請け負った。
「おいおっさん。調子乗んなよなに保護者ヅラしてんだよ」
正宗は鼻に皺を寄せたが、同級生達が怖々ながらも机を元の位置に戻しているのを見て、小声になる。
「処世術ってのを覚えろ。なんでも馬鹿正直に言やいいってもんじゃねぇだろ」
木嶋も小声で答えて、着席した。その通りだと思ったから、正宗も渋々といった顔をしながらも口を噤み着席した。
「まあ今直ぐやめろとは言わねぇけどよ、喧嘩なんぞしててもこれから得るもんなんてなんにもねぇぞ。失ってくばかりだ。今は俺の言ってることもわかんねぇかもしれねぇけど、……そうだなぁ、取り敢えず喧嘩より楽しいことを見つけろよ。自分が幸せな気分になるようなことをさ。あ、合法でな」
このおっさんは何言ってんだ、と反射的に正宗は思った。ただ、喧嘩で得られるものがないことは解っていた。その時はいい。相手を負かした時は鬱屈とした気持ちが晴れ、万能感が正宗を満たす。だがそれはほんの一時のことで、現実は何も変わったりはしない。家に帰れば働き盛りであるはずの男が泥酔していて、片付けたはずの家内は荒れている。意識があれば金を出せ酒を出せと掴みかかってくる。喧嘩慣れして身体も大きくなった今は殴り負けることは殆どなくなった。だが酒に取り憑かれた男はそんなことは意に介さない。次の日には正宗に殴り倒されたことなど忘れてまた掴みかかってくるのだ。
恐れるばかりだった父親に初めて反撃できた時は、酷く興奮した。喧嘩で鍛え度胸をつけたことは間違っていなかったと思った。弱者ではなくなったと、快哉を叫んだ。だがそれからは同じことを毎日のように繰り返している。破落戸に勝ったところでそれが一体なんだというのか。殴り倒したところで、父親は断酒する気になどならない。ただただ虚しかった。
真面目に働いて得た金も、酔っ払いが闇金に手を出さないように適度に酒に換え、酒で壊れた身体の治療薬に消える。そのうち首が回らなくなったら弱いやつを捕まえて恐喝でもするようになるのだろうかと、他人事のように思っては頭の片隅に残っている良識とプライドをを引っ張り出す日々だ。
───幸せってなんだっけ。
授業が始まる前のほんの隙間に、正宗は心中で呟いた。
父親を断酒させればこの生活から抜け出せる。断酒会に通わせなさい。そういったことは散々教えてもらった。幸せになりなさいなんて、誰も正宗には言わなかった。
正宗が幸せになることが先なのか。そんなことは可能なのか。もしそんな気分になれたら、何か変わるのか。心に余裕ができて、人に優しくすることができるようになったら。そうしたら。木嶋のように、充実した顔でつまらない授業を聞いていられるのだろうか。木嶋のように、クソ生意気なクソガキを余裕であしらえるような大きな男になれるのだろうか。
木嶋は別世界の人間だ。そのはずだ。だがどこか同じ匂いのするその男の言葉を、少し、聞いてみようと思った。




