10. 覚悟じゃねぇんだ
「おっ、おい、おま、リスカ」
正宗は森本家を出てから数十歩歩いたところで我に返り、繋いでる桔梗の手を引いて立ち止まる。
「落ち着いて。ずっと前の話だから」
桔梗は正宗と向き合うと、困ったように微笑んだ。正宗の瞳は動揺で揺れている。
「今はやってねぇのか」
「うん。小学生の時にね、やろうとしたんだけど。痛くて。なんでかわかんないけどそこで急に、すんっ、てなっちゃったのね。こんな痛い思いしなきゃ私のこと見てくれない人達って何なの、って」
「急に」
「うん。いやあ、そうなってからは吃驚するくらい悟るの早かったよね。思いつめてんのが馬鹿馬鹿しくなっちゃって」
「小学生……早くねぇか」
「そうかな。わかんないけど。でもそこで悟れたから病まずに済んだんだと思ってる」
「そうなのか」
「うん。きっとね」
桔梗は晴れやかに笑った。
「期待するからなんでなんで、ってなっちゃってたんだ。あの人達が持っていないものを求めても出てくるわけがないの。あれは世間一般が言う親じゃないんだなって思ったら、惨めな気持ちとか、苦しかったのが全部なくなってね。程よいお付き合いができるようになったの。寂しいのだけはなくなんなかったけど、正宗さんいるからもう大丈夫。必要だって言ってくれて、ありがとう。嬉しかった」
桔梗は頭を下げた正宗だけを思い出すと、胸の奥を温めることができる。満たされた微笑みが滲んだ。
「……綺麗に纏めたなおい。……くそ、……どういう顔しろっつうんだよ」
正宗は首の後ろを乱暴に掻いた。素直に喜びだけを感じることができないように顔が歪んでいる。目を逸らし、話を咀嚼するような間ができた。それから気を引き締めるように顔を作り、桔梗を見る。
「お前の事情は解った。……でもお前、あの別れ方はねぇよ。向こうは消化不良だろ。戻るぞ」
正宗が引っ張ろうとした手を、桔梗は離した。
「いいの。娘に見限られたなんて絶対人には言えないから、ああ言っとけばきっと大人しくしてるよ。いい大学優秀な成績で出てやった時に向こうは投資の分を回収できてるんだから、私は義務は果たしてる。もういいの」
「おう……。義務。義務な、そうか……。それはそれでいいんだけどよ。その。……俺が言うのもなんだけど……一応親だからさ」
歯切れも悪く語尾が弱くなるのは、親を親と思えない気持ちが正宗には解るからだ。口にするのが気が進まない気持ちが見てとれる。実態を理解しようともせず、ただ道徳を振りかざす人間が言うのとは訳が違う。きっとちゃんと、桔梗の為を思っての言葉だ。それでも正宗の口からは聞きたくなくて、桔梗の心は毛羽立った。
「だからなに? あの人達は虚栄心を満たしたくて私を飼ってただけ。与えてたのはお金だけ。情なんて、育む要素与えなかったのはあの人達だよ。大体、今まで放置してたくせに、急にまともな親のふりして結婚相手吟味するなんてありえないから。あの人達が寿命迎えた後も私の人生は続くんだよ? その後も寄り添う人に口出しする権利なんて、あの人達にはないからね。それとも何、正宗さんは私と結婚することより、あの人達の世間体が大事なの?」
桔梗は正宗をきつく睨んだだけのつもりだった。なのに気の昂りが涙となってぼろぼろと溢れ出し、視界が歪む。
「そんなことは言ってねぇよ。……泣くなよ」
正宗は弱ったように桔梗の頭を胸元に引き寄せた。
「勝手に出てきた。なんでだろう。まだなんか、残ってるのかな。悔しいとか、悲しいとか、そういうの」
桔梗は正宗のスーツを汚したくなくて、自分の手を挟んでその甲に涙を押し付ける。
「そんだけ傷ついてきたってことだろ。そう簡単に癒えたりなんかしねぇよ。ガキん時のことなんてさ。きっとずっと残るんだろ。悟るのとはきっと、別の話だ」
正宗の言葉は押し付けがましくなくて、するりと桔梗の胸に滑り込んだ。
「……私の気持ちなんて、訊こうともしなかった。解ってたのに」
桔梗が言い捨てた気持ちも、彼らは重く受け止めてはいないだろう。固まっていたのは、言葉が響いたからではない。リストカットという外聞の悪い単語に戦いただけだ。「うちの子がそんなことをするなんて」という顔だった。得体の知れないものを見る目だった。彼らの中で、桔梗は生きていない。解っていても悲しい。今更そう感じることが悔しい。まだ期待が残っていたかのようで、腹立たしくて仕方がない。だが悲しくてもいいのだと言われた気がして、桔梗は素直に呟いていた。正宗は何も言わなかった。ただ背中を撫でる手が温かい。
暫くそうして涙を出し切ると、桔梗は身を起こした。
「ありがと、落ち着いた」
正宗は緩く笑った桔梗の目元を一度だけ撫でると、言い難いように口を開く。
「なあ。お前は嫌だろうけど。絶縁だけはやめとけよ」
「……なんで」
「……離婚することになったらお前、誰頼るんだよ。子供できて直ぐの時なんか最悪だろ」
「それ今必要な話!?」
桔梗は愕然とした。正宗は真剣な顔をしている。
「大事なことだろ。DVシェルターとかあるけどよ、泊まれんの二週間くらいらしいって情報もあるし、民間だと金かかるし。やっぱり身内の助けがあると違うだろ。世間体気にすんなら、俺のこと徹底的に排除してくれそうだしよ」
「そんな信頼の仕方ある!? ていうか何そんなことまで調べてんの!? 正宗さんがクズになんなきゃいいだけの話でしょ!」
「それはそうなんだけどよ。万一ってことがあんだろ。俺はお前を痛めつけたくねぇんだよ」
「今そんな優しさは発揮しなくていい! 不安なのはわかるよ。でも私は覚悟決めたんだから、正宗さんも覚悟決めてよ」
「決めてるよ」
「正宗さんのそれは、万一の時は離婚する覚悟でしょ!」
桔梗は歯痒いように拳を握る。正宗は何か間違っているのかと問いたげに眉を顰めた。
「私が正宗さんと結婚するってことは、クズになんないように頑張る正宗さんに付き合うってことだよ! 正宗さんは頑張ってくれると思ったから、頷いたの! 結婚して子供を健全に育てあげておじいちゃんおばあちゃんになるまで、骨になるまで頑張れたら、正宗さんのお父さんに、ついでに私の両親に、ざまあみろって言ってやるの!」
正宗は死角から頭を殴られでもしたかのような顔で瞠目した。
「ざまぁみろ! 私はあんた達に勝った!」
桔梗は空に向けて言い放つ。
「……もう言ってんじゃねぇか」
気が抜けたように、可笑しいように正宗は呼気を抜いた。
「そうだね! 私は勝つ気でいるからね! 正宗さんはまだ勝ってないけど! 気持ちで負けてるけど!」
何を笑っているのかと、桔梗は眦を吊り上げて拳をぐいぐいと正宗の胸元に押し付ける。
「わかった、俺が悪かったよ」
正宗は押されたふりで一歩下がった。喉を擽っていた笑いを収めると、苦いように、困ったように眉を下げる。
「頑張らねぇ理由はねぇんだ。頑張んのは覚悟するもんじゃなくて、なんつうか、……前提条件っつうか……当たり前のことだからよ。意識してなかった」
「うわなにそれおとこまえ」
桔梗は思わず両手で口元を覆った。
「……お前が俺を男前にしてくれてんだよ」
正宗はふいと顔を逸らした。不貞腐れたように不機嫌な顔は、照れている時の顔だ。擦れ違うように進めた歩は、森本家を背にしている。桔梗はその背中を頼もしいような、くすぐったいような気持ちで見ていた。
「なんだよ。俺んち来んだろ」
立ち止まり、半身で桔梗を待つ正宗の顔は険しい。目付きは鋭く、纏う空気は完全に因縁をつけるその筋の人だ。耳は赤いが。
「うん。今日から泊まっていい?」
桔梗は破顔した。駆け寄り、正宗の隣に並ぶ。
この人は自分の子供が出来た時、産まれた時、どんな顔をするだろう。手を上げるようにならないか、不安がないわけではない。ただ、桔梗も似たようなものなのだ。自分の子供を愛せるだろうか、放置しないだろうか。そういう不安がある。適切な愛情を貰えずに育った人間だから。それでも。きっと現実から目を背けずに一緒に対処法を探していける。そういう人を、桔梗は見つけたのだ。
「絶縁は保留だけどな」
「向こうがなんかしなきゃ現状維持だよ」
この話だけは、今はまだ平行線。