1. 事案かと思うじゃない
桔梗には気になる青年がいる。高校からの帰り道。土手の斜面に寝転がっている青年。きまって水曜日で、見かける時はいつも仰向けに寝転がってる。同年代に見えるが、いつも私服だ。近場に私服の高校はないから、サボりなのか、通っていないのか。初めは不良かな、くらいにしか思っていなかった。その日によって服が汚れていたり顔が腫れていたりするので、近寄ってはいけない人だと思った。ああいうのが将来半グレとかいうやつになるのかなと思ったりもした。
いつしか遠目からでも寝転がっているのがその青年だと判るようになり、その日も何食わぬ顔で土手の上を通り過ぎようとしていた。けれど顔を腫らしているだけではないことが見て取れるようになると、足が止まった。赤いのだ。顔と、胸元が。赤く、濡れている。桔梗の全身から血の気が引いた。青年はぐったりとしていてぴくりとも動かない。まさか、と思う。思考がばらばらに散って、足が竦む。死んでいるのか、いや死ぬほどの出血量でもないのではと、同じ場所で思考が巡る。こういう時は意識の確認だと思った瞬間、足が動いた。土手を駆け下り、青年の傍らに跪く。
「ちょ、あ、ねぇ! 死んでる!? 大丈夫!? あ、きききゅあ救急車、救急車呼ぶ!? 警察が先!? 救急車!? どどどどっちだっけ! 人工呼吸!? 押さえる!?」
近くで見ると目元の血の跡は拭ったように形が乱れていて、出どころは頭のようだった。どうしたらいいのか判らない。手が無軌道に宙を舞う。
「生きてる」
煩わしそうに顔を顰めた青年が、目を開けた。
「生きてる!?」
桔梗は恐れ戦いて身を引き、復唱した。倦んだような覇気のない目をしているが、意識はしっかりして見えた。
「頭から血出てるけど! 生きてる!? これから死ぬの!?」
「死なねぇわ」
「でも血! いっぱい血!」
「うるっせぇな。頭はちょっと切っただけで大量に出んだよ。ほっとけ」
青年は背を向け片腕を枕にした。
「え、えええええ」
起きあがろうという意志がまるで見えないのが却って問題ないと示して見えて、桔梗は驚愕と拍子抜けの狭間に置かれた。反応のない背中は明確な拒絶だ。死なないなら良かったという安堵と、自己申告は当てになるのかという疑念が湧く。桔梗は迷ったが、相手は推定半グレ予備軍だ。本人も関わるなと言うのだから、このまま去っても問題はないだろう。放り出していた鞄を持って立ち上がり、土手を登る。振り返り見た青年は、同じ体勢のまま動いていない。こっそり救急車だけでも呼んでおこうかとも思ったが、暫く悩んでやめた。
次の水曜日には土手に青年の姿はなく、不安が募った。だからその次の水曜日。寝転がるその姿を見た桔梗の安堵は深かった。救急車を呼ぶ必要はなかったのだと。憂いが晴れたからか、急に腹立たしさが芽生えた。心配したのに、否、心配は勝手にしたのだから彼には責任はないが、ないが。人一人見殺しにしたのではと不安に苛まれたのは確実に彼の所為だ。一言物申したい。
桔梗は土手を下り、青年の横に立った。今日の青年の顔は綺麗だった。
「あのさ」
青年は億劫そうに薄目を開ける。
「ああいうの、紛らわしいから。ちゃんと手当てしてからここに寝転びなよ」
青年は不快そうに眉を寄せた。そうすると目つきの悪い顔に凄みがが出て、桔梗は怯んだ。
「お前が」
「わ」
土手を駆け上がった風が髪と制服のスカートを煽って、桔梗は咄嗟にスカートを押さえた。丈は膝丈、相手は地面。見えたかとそっと青年を窺うと、青年は溜息をついてごろりと転がり背を向けた。
「お前が勝手に勘違いしたんだろ」
煩わしいとばかりの態度だが、向けられた背は拒絶だけではないように見えた。気遣いが含まれている気がして、桔梗は瞬く。乱れた髪を耳にかけ、その場に膝をついた。スカートの後ろを踵で挟み込み前は鞄で押さえ、風対策をする。言い返しても怒りを向けられない気がしたのだ。
「あれは勘違いしない方がおかしいから。びっくりするし、心ある人間なら通報するのは当たり前だからね」
怒りは向けられなかった。あるのは沈黙である。
「あのあと、私が救急車を呼ばなかったことで死んだんじゃないかと思って、怖かったんだから」
「お前の所為にはなんねぇよ。通りかかっただけだろ」
「なるでしょ。あれ、ほら、ええと、なんだっけ、要救護……? じゃない、義務……救護義務とかっていう違反。あれになるでしょ」
「……交通事故のヤツじゃねぇの」
「……そうだっけ。……でも! 違反になんなくても、見ちゃったんだから私の所為かもって、怖くなるでしょ!」
「見なかったことにすればいいだろ」
「それができない人間もいるの」
「知らねぇよ頑張れよ」
「頑張る頑張んないじゃなくない!?」
「……」
「え、今笑った?」
一貫して鬱陶しげな態度だった相手が漏らした微かな呼気の揺らぎに驚いて、桔梗の腹立たしさが一瞬削がれた。青年は答えない。桔梗はそれ程凶暴な人物でもないのではないかと思った。態度が悪いながらも見ず知らずの人間の、言わば言いがかりに近いようなものに付き合っているのだ。少なくとも短気ではない。
「……私ここ、通学路なの。いやでも目撃しちゃうの。勘違いされたくなかったら、気をつけてよね」
反応はない。だが兎に角、言いたいことは伝えたのだ。これ以上長居する理由はない。桔梗は膝を払って立ち上がった。
それからも何度も寝転がっている姿を見かけたが、流血はしていないから通報せずに済んでいる。だが偶に顔を腫らしているようだった。手当をしている様子はない。桔梗は青年の、倦んだような目を思い出した。もしかして彼は半グレ予備軍ではなく、助けが必要な境遇にいるのではと思い始めた。小さな子供ではないのだから、とは思う。でも小さな頃からそういう境遇だったら、大きくなってからも自分で声をあげられないという話も聞く。違った場合は失礼だし、恥ずかしい。だがもしそうであるなら、助けは早いほうが良い。桔梗は躊躇いを捨てて、土手を下りた。思いついてしまったら、最悪の事態が起きた時にあの時通報していればと罪悪感に苛まれるのは桔梗なのだ。それならまだ、恥ずかしい思いをした方がましだ。
「こんにちは」
桔梗は三度目にして、ごく普通の挨拶をした。青年は薄目を開けると直ぐに背を向けた。
「ここ、座ってもいい?」
暫く待っても反応がないので、桔梗は干渉はしないという意思表示と受け取った。よく考えたら、過去二度に渡って許可など得ていない。今更だろうと、少し距離を置いた隣に腰を下ろす。
「あのさ」
だがいざ訊こうと思うと、どういう言葉が適切か判らない。言い淀み、青年の背中を見る。風が前髪を揺らして、生え際に治りかけの傷があるのが見えた。
「痛い?」
答えはない。
「……ねぇ。もしかして。もしかしてなんだけど。違ってたらごめんなんだけど、……親から、虐待、…受けてる、とか……? 」
「ねぇわ」
不快極まった声がした。直球過ぎたと、桔梗は慌てる。
「あっ、だっ、ごめんね!? 言いにくいよね、知らない人に、そんな、でもっ、恥ずかしいことじゃないっていうか、助けてくれる施設、あるじゃない? あれはもっと小さい子じゃないとダメなのかな、なんか、役に立たない話とかもあるけど、でも、ほら、一人で抜け出せないならやっぱり、誰か大人の」
「喧嘩」
苛立った声が遮った。桔梗の纏まらない言葉の羅列は止まった。だが、知られたくないことを知られた苛立ちという可能性もあって、引き下がるべきか、迷う。それから女の自分が訊くのはまずかったのでは、ということにも思い当たる。男のプライドとか、そういう何かで話せないことだってあるだろうと。桔梗とて、親しくもない人間に弱いところを見せようとは思わない。
「ご、ごめん、ただの通行人が踏み込む話じゃ、なかったね」
青年は気怠く深い、溜息をついた。
「マジで。喧嘩だから。似たような歳の奴らとの、つまんねえ喧嘩だから。またどっかに通報しようとすんなよ。迷惑」
「え。……結構な頻度で、喧嘩、してない?」
「行くとこ行きゃ血の気の余ってる奴がいんだよ」
やっぱり半グレの方、と出かけた言葉を桔梗は呑み込んだ。きっと桔梗のように平穏に育ったただの女子高生が首を突っ込んでいいことではない。自分から突撃した手前、どう話を切り上げたものか悩んだ。気まずさで沈黙が重く感じる。
「……この辺にはいねえよ。だから俺はここでのんびりしてる」
桔梗は目を瞠ってまじまじと青年の背中を見た。ちらともこちらを見ない。声だって全く友好的な調子ではない。だが内容は安心していいと示すものだ。間違いなく、そこにあるのは桔梗への気遣い。素行は悪いのかもしれないが、無分別に凶暴なわけではないのだろうという認識は深まる。少なくとも、女には手をあげないのではないかと思った。
「ねぇ。なんでそんなに喧嘩してるの?」
だから気になって、つい口に出た。返事はなかった。