第8話 / 灰塵
日米開戦から三年の時を経た昭和二十年(一九四五年)六月半ばを迎えようとしていた。小笠原兵団の孤軍奮闘も虚しく硫黄島は同年四月に陥落。遂には第三十二軍が防衛の沖縄も六月に陥落。敵の侵攻は留まることを知らなかった。帝國は逃げ場のない、窮地に追い込まれたのだ。
本土に迎えし敵と一戦を交える“本土決戦”を憂慮した近衛師団の青年参謀・多賀秀正少佐(陸士五十二期)は、自発的に陸軍省中枢の人間との接触を図り、いつなにが起きても「連携」できるよう、不定期ながら私設会合を複数回開いていた。
多賀は義父に東條英機元首相(陸士十七期)をもち、陸軍大学校五十八期として卒業後、すぐさま禁闕守護に徹する近衛師団に補された将来有望の士であった。
宮城北の丸に位置する近衛師団司令部の一室で多賀少佐は阿保恭蔵中尉に対し「いつも」の事を依頼した。「また頼む」という多賀少佐の一言で、阿保中尉はすぐさま陸軍省参謀らとの会合の設営だということを承知していた。
「はッ。承知であります」
と阿保中尉は云うとすぐさま手帳を取り出し、「陸軍省参謀との話し合い」と殴り書く。
陸軍省内、又は近衛師団司令部内で双方の将校が顔を合わすと、なんとも気が抜けない感があるのか、多賀少佐は信頼している部下の阿保中尉に陸軍省中堅・若手将校との会合に適当な場を設営するよう依頼していた。
阿保中尉は焼野原と化しつつある帝都内をうろつき、阿保の同郷・宮城県出身者が営む旅館「春乃」を探し当てて以来、いつも会合は旅館「春乃」の一室で催されていたのだ。
当の阿保中尉は、終始、本人は将校の送迎に徹しようとしていた。円タクを手配したり、場合によっては自動車を走らせ上野の旅館に送り届けると、一旦、近衛師団司令部に戻る。そして、会合の終わる頃を見計らって、迎えの自動車を走らせる。
そのなかでも阿保中尉は秘密会合での衝撃的な話を一つ、多賀少佐を介して耳にしたことが忘れられずにいた。
「参ったよ。今日の話はあまりにも驚く外なかった」
或る時の会合を終え、車内に乗り込んだ多賀少佐が助手席に身を委ねると溜息を洩らす。無気力の様子であった。
「如何されたのですか?」と阿保中尉が自動車のエンジンを掛けずに、問う。
「口外厳禁。いいか?」
口外厳禁は百も承知。会合での話自体秘匿されるべきで、阿保中尉は会合関係者以外に内容を漏らしたことがない。念を押されるほどの話であるからこそ、阿保中尉は余計に気になり仕方がなかった。
「この間、海軍が台湾沖近辺で米國艦隊航空機と交戦した話だ」
多賀の声を潜めるかのような弱弱しい口調に阿保は戸惑った。
(珍しく戦勝話に華を咲かせたのだろうか……それでも、なぜだろう。暗い表情だ)
昭和十九年(一九四四年)十月中旬。アメリカ海軍第三艦隊による台湾への空襲が敢行された。海軍第二航空艦隊は第七六二海軍航空隊を投入し迎撃を図り、両軍航空機による航空戦が繰り広げられた。数日に亙る戦闘の末、前線から報告される戦果は第三艦隊に大打撃を与えたとの情報で、大本営も疑うことなく、大戦果を挙げたと報じた。
報告に接した者々は歓喜で沸きに沸いた。当時の多賀と阿保も亦、同様に第三艦隊に損害を与えた報告に胸を躍らせたのだ。
しかし当会合に於いて、多賀の信じていた台湾沖航空線の大戦果報告が全くの虚報でしかない事実を陸軍省参謀から突き付けられた。
「参謀さん方の話によると、どうも甚だしき誤報だったのだ。陸では対空砲は敵機に当たらず、空では優秀なる操縦士も多数失ってしまったようだ……。戦果誤認にしても顔を覆いたくなるほどだよ。全く海軍も酷いよナ。今更そのような話を耳にするとは思いもしなかった」
阿保中尉は多賀少佐の話を聞き、声を失う。防空機能が果たされていない事実に嘘偽りを塗りたくる組織に呆れつつも、自らもその組織末端に在籍する一人である。頭の痛い話だ。統帥部へのやるせなさも心中に募らせる。
(あゝなんということだ……。滔々と偽りを述べるようになってはオシマイだ)
ハンドルに両手を置いた阿保はやや項垂れた。そして俯いたまま、助手席を見遣る。助手席のなんと寂し気な横顔。感傷に浸る多賀から悲哀を感ぜられた。
私的だからこその生々しい情報意見が交わされた会合は次回を以て、終了と云う―――。
送迎の反復行動を遂に終えるのだから阿保は一抹の寂しさを憶えた。なにせ道中の街の風景が、会合を重ねるごとに見事に炭色に染まっていく。あの華の都が、敵機が容赦なく落とす爆弾により焦土と化していったのだ―――。
それも東京だけに限った訳ではない。日本はどこもかしこも爆弾、焼夷弾を落とされ続け、以前に増して空襲は激化の一途を辿っていた。
阿保中尉が東京勤務し始めの情景を思い浮かべる。
(五年前だろうか)
昭和十五年(一九四〇年)。日本史上に残る記念の一年となる筈だった。紀元二六〇〇年を迎え、奉祝雰囲気に浮かれ、東洋初五輪開催が計画された年だ。誰しも日本には輝しき未来が約束されているかのように思えていた。
たかが五年、されど五年。この間、華やかなる街並みと雰囲気は全く失せてしまったのである。