第6話 / 打ち明け
岡田啓介首相(海兵十五期)、高橋是清蔵相、齋藤實内府(海兵六期)、牧野伸顕伯爵、鈴木貫太郎侍従長(海兵十四期)、教育統監渡辺錠太郎陸軍大将(陸士八期)が討たれたことを報じる号外が日本中を賑わせ、國家の喪失を余儀なくされた二十六日。斯様な日本震撼の日から一夜明けた二十七日の夕刻のことである。
「電話だよ。大泉さんという方みたい」
昨日の出来事を忘却しようと努めるかのように岩間は、自室でカール・フォン・クラウゼヴィッツ将軍の『戦争論』を読み耽っていた。下宿主に呼ばれると、受話器を手渡された。
「岩間さん。無事でありましたか?」
「あゝ先生、ドウモ。未曾有の出来事で、昨日は砲工学校の方も異様な雰囲気でありました。今日は勿論、休校ですよ。青魂塾の方はどうですか」
「御無事のようで、安心いたしました。塾生らも困惑している様子です。しかし、なんたることでありましょう。陛下の軍隊が本義を理解せずして、愚挙に出たるとは。叛逆の徒のほかありません。未だ帝都を一部占拠したる有様。なぜ斯くも軍の統制を欠いているのか。流血革命をせよというのか」
軍を論う師の声に、岩間は苦渋の表情を浮かべた。岩間は当事者ではないのに、大泉に連帯責任の如く叱責されているかのようであった。それに「愚挙」と片付ける言葉に、大泉特有の革命アレルギーが顕れていた。
「陛下の真意は蹶起を望まれているとは思いません。早急なる対処を望まれるお気持ちは分ります。私とて、蹶起を鎮める力なぞ持ちわせていない無力な尉官でありますが、今はただただ解決に向かうことを祈るしかありません」
「そうですか。実は田村さんにも連絡をしていますが、塾の方へ御足労願いたいのです。今晩の八時頃に来塾いただけないでしょうか?」
(寒気の激しき夜に出かけるなんて)
岩間は返す言葉に戸惑った。しかし、何時に無くトーンが低い大泉の声に不安を抱いた為か、岩間は暫くして「分りました。参りましょう」と応諾し、受話器を降ろした。
夜を迎えると、岩間は予定時刻に間に合うように不安を抱きながらも夜道の雪を踏み続けた。あれだけの事件が起きているのだから夜道は尚更、出歩く人がいなかった。まるで砂漠を孤独に歩き続ける旅人のようだった。
塾を前にすると、岩間は白い吐息を闇夜に浮かび上がらせ、一旦呼吸を整えた。
(塾は変わらずか)
塾と云っても、もともとは駒込曙町の平塚明(のち女性解放運動家)の生家で、大泉澄が平塚家より借りていた。落ち着くと岩間は門内へと歩を進めた。
「御免下さい。御免下さい」
岩間は右手で数回、戸を叩く。灯の奥から黒いシルエットが現れ、戸が開かれた。
「夜分に済みません。さあ、上がってください。田村さんは先に居られます」
大泉澄自ら出迎えると、すぐさま書斎に岩間を招き入れた。
「寒かったでしょう。お座りなさい」
岩間は座敷に腰を下すと姿勢を正した。
「君たちに累が及ばず、何はともあれでした。此度の事件発生から二日目を経ようとしております。「陛下の軍隊」たる我が國軍の一部軍隊は、陛下の勅命によって動いた訳ではなく、身勝手な軍事行動に至った挙句、陛下の信任を受けたる主要閣僚共々を殺めるなど、叛乱の他に何て表せましょうか。如何なる理由であっても、武力行使は一切認めることなぞできません。そして、逆賊的行為者をのさばらせる政府、軍当局の無力ぶり、無為無策は全く以て話になりません。この大事に至っては無責任な國に対して、とても心配になります」
大泉は感情的に、事を起した蹶起部隊や事件対処すべき政軍の姿勢を批判した。
「天子の坐します日本では易姓革命のような事は起きない、いや、起きてはならないのです。目下、占拠したる将兵は皇國の行く道を正そうという蹶起趣意があっても、勅命なくして理に適う筈がありましょうか。即ち、彼らの行為は國體に背反しているのです。陛下の命を受けた閣僚の方々の命を奪うとはなんたる仕業だ。明日になっても、猶も当局が姿勢を顕かにしないのであれば、臣子奉公の精神を以て、我々は官邸に籠城する叛乱軍指導者と面会し、撤兵説得にあたります。若し、退かないのであれば、天誅する所存であります」
「「我々」とはつまり」
思いを打ち明けられた岩間は大泉の言を遮った。一先ず、岩間にとって整理しておきたいところであった。
「青魂塾生一同です」
大泉の力強く答える様子から、生半可な気持ちでは無いことを岩間と田村は知った。軍人を前に、正直、軽々しく「天誅する」など云って欲しくなかったが、大泉の姿勢は本気そのものであった。
「今晩、お二人を呼んだことにも訳があるのです。私は同門同志の貴方達に是非、加わっていただきたいと思う。我々だけでは相手にしてもらえないでしょう。軍人である二人には、案内役でよろしいのです。どうか、この際は我々と一緒に死んで頂けないでしょうか」
打ち明けられた岩間と田村は互いに視線を合わせた。
(ここまで云うなら、協力しかないだろう……)
師の協力要請を二人は承諾した。
「そうですか。何とも心強いです。ならば、別命無ければ明晩の六時に此処に集まりいただきたいのです」
大泉は嬉々として、岩間と田村に茶を差し出した。彼らは謙遜しながら湯飲み茶碗を受け取り、啜った。彼ら二人の、先程までの酷く冷やされた外気にあたった感覚が漸く溶かれていった。