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帝國の命運  作者: 藤原秀光
二・二六事件異聞篇
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第4話 / 白雪

 記録的な大雪が観測された昭和十二年(一九三三年)の二月二十三日以来、三日の時を経て猶も白雪(はくせつ)は寒気と幻想的空間を演出していた。帝都の街路は白粉を拵え、人々は白い吐息を漏らしながら、二十六日も変わらず、普段通りの生活を送ろうとしていた。


「参ったなこりゃ。全くだ」


 ここ数日は降雪に、低気温にうんざり気味の道往く人たちは、異口同音に云う。通勤通学の道中の歩行は難儀であった。岩間正孝もその一人であった。防寒外套を纏った岩間は寒さで身を縮めながら砲工学校高等科へ向かった。


 岩間は眼前に拡がる雪景色に故郷・美濃國を重ねた。岩間は関ヶ原の出身だ。


(雪などなんてことない、全く都会人とやらは降雪に斯くも四苦八苦してやがる)


 周囲の人たちをやや蔑むと、足を雪にとられそうになり、失笑した。


(情けないものだ。すっかり自分は都会に染まってしまったのだろう)


 岩間は幸いにも転倒することなく、無事に砲工学校に着くと、すぐさま脚に染みつきつつある水気を振り払い、着席した。いつもは授業前の教室内は指導官への愚痴、政治への不満話で盛り上がりをみせ、騒がしさで充満している。しかし、今日に限っては学生の口数は明らかに減っていたことに岩間は気づいた。


 岩間の肌にはツンとした冷気がやけに感ぜられた。それから窓を見遣ると、上空には鉛色の綿飴が重く垂れ込んでいた。二月は殊に寒気が強まるのだが、なぜだか屋内だのに寒風が吹き抜けているように感ぜられていた。


「教官殿が右往左往していたのを見なかったか? 何と云うか、妙だ。なんでも道中に機関銃を持った兵隊を目にしたという者が教室内に何人かいるらしい。非常事態に陥ったのではないかと、それからの教室は陰鬱な感じだ」


 田村兼五郎が岩間の机に近寄った。田村は、岩間と共に砲工学校普通科を卒業後、同校の高等科へ進んでいた。


「雪中行軍の特別演習じゃないか? 東京でこれほどまでに雪が降るのは珍しいから、東京の連隊かどっかが演習でもしているのだろう。例えば満洲の市街戦を想起してだな……。というのは冗談だが、雰囲気が張り詰めているような気がするよ。いつになく静かだな」


 そのうちに教官が入室し、普段通りに朝礼を終えると口を一文字に結んで、喋るのを止めてしまった。天気の様相と同じで辛気臭く、教官の頭にカビでも生えたのかと岩間は思った。


「今この瞬間から教室乃至(ないし)校舎から出ることの無い様に。絶対である。静かに待つように」


 と云って、教官将校は学生を置いて廊下へ消え去った。


 学生将校はポカンと口を開けた。前年夏に起きた、維新派の相沢三郎中佐(陸士二十二期)が人事に関して慷慨した末に、軍務局長永田鉄山少将を殺害した「相沢事件」のように、教官室内で殺人事件でも起きたのではないか、と口にする者も居て、教室中は騒然としていた。


「武装した部隊は俺も見たぞ。おかしい。蜂起でもしたのではないか?」


「そうだ。砲工学校に派閥だの人事だのの類の話は関係ないだろう。相沢事件のようなことは有り得ない。俺はコイツの云う通り、部隊が蹶起したとみたね」


 学生たちは各々、推測を述べ始めた。


 岩間は窓を開けて外を眺めた。上空いまだ鉛色が大勢を占めており、地上は三日前の雪がその白色ぶりを誇示していた。なにも起きてない。


(きっと校長閣下か何者かが急病を患ったのだろう)


 岩間は詮索しなかった。寧ろ、それくらいであって欲しいと願った。


 十分程して、教官が再度教室に現れた。興奮気味の様子であった。やはり何らかの異常が校舎内、若しくは校舎外で起きたことを教室内の学生は確信した。


「落ち着いて聴いて呉れ。本朝、東京内で在京部隊の蜂起が確認された。詳細は話せない。本日に限っては教練、授業は中止である。よいか、中止だ。暫くは外出禁止だ。教室、校舎外に出てはならん」


 必死に教官は訴えた。なにか声を振り絞っているように聞こえた。教官ですら、動揺している。若い学生は堂々と聞き流すことなぞ無理であった。思わず声を上げる者もいた。これは仕方の無い事であった。学生の想像を遥かに超えた事象が起きたのである。


 五・一五事件から四年後、こうして帝都内を震撼させる事件が起きてしまったのだ。


 前年夏の相沢事件の流れからすると、荒木、真崎将軍に近しい昭和維新運動一派の将校が企てたのではないか、と岩間は考えを巡らせた。


 若い学生が感化されては困る、或いは、若い学生を護らねばという学校当局の判断なのか、猶も学生は陰鬱な雰囲気が漂う教室に拘束され続けた。一体全体どうなのだろう。学生は下を向くしかなかった。


 果たして、まだ國家らしい國家は健全に機能しているのか。いや、健全に機能していたらこのような異常事態に陥るはずがない。もしかしたら我々学生将校が最後の希望、それとも取り残された最後の標的となったのか。考えれば考える程、学生は暗澹たる思いをせざるを得なかった。


「岡田内閣の主要閣僚及び渡辺教育統監閣下らが襲撃された模様である。蹶起したる一部部隊は若手将校が率いているようだ」


 時が経つと、教官が言葉を選びながら件について述べた。教官の眼は真っ赤に腫れているように見えた。この場にいる者にとっては何もかもが嘘のように感ぜられた。居ても立っても居られないもどかしさ。やるせなさ。不気味さ。得体の知れない恐怖感。各々の心中は何とも苦々しい思いで一杯一杯であった。


(この雪は我々に夢幻(むげん)を演じさせようというのか……)


 岩間は平常心を保とうと、気を紛らわそうと下唇を噛んだ。

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