第3話 / 思想の亡者
陸軍砲工学校の休校日。晴れ晴れとした天気の下、岩間は出かけることはせず、修学の疲れを癒す為、下宿の自室に引きこもっていた。せっかくの天気だろうから昼食にでもと思うこともなく、この日は出前のそばをとっていた。
(たまにはいいだろう)
出前の蕎麦を平らげると岩間は畳上で大の字となった。荒木・真崎将軍の下に集う維新一派から距離を置いて数箇月を経とうとしていた。
「岩間、居るか?」
部屋扉の向こう側から呼び声を確認すると、どうやら陸軍士官学校四十五期の同期生、中原勇であった。
「中原、入れよ」
昼寝を妨げられたのに嫌な表情を何一つせず、岩間は同期生を自室に招き入れた。苦楽を共にした仲が故である。
「突然で悪いナ」
入室の許しを得た中原は胡坐をかくと「貴様が北一輝研究から手を引いたって話を耳にしたのだ。どういうことだろうか?」と、切り出した。
「オイオイ。いきなり何ちゅう話をするのだ、お前は」
岩間は怯んだ。なんとも嫌な予感が過る。数十秒前の中原の入室を許した自分を悔いた。
(中原も若しや北一輝に魅せられた一派かもしれん。だとすると中原に革新一派に戻れと呼び出されるかもしれない……)
岩間は茶でも淹れてやろうとしたが、手を止め、即刻退室願おうとした。
「その話なら田村にした筈だが? あの界隈からは見ての通り退いたサ」
「え? 田村って兼五郎のことか」
岩間には、ワザとらしく中原がお道化ているように見えた。
「中原。連れ戻しに来たのならば帰って呉れてもいいのだぞ」
岩間は語気を強めた。すかさず、中原は維新一派であると疑われていることに気付き、弁明に走った。
「連れ戻しにも何も、俺は北一輝派でも何でもないからな。勘違いは止して呉れよ。どうも俺も貴様のように水が合わなかった」
中原は首を横に数回振り、「違う、違う」と苦笑を浮かべた。
「そうか……。ならば茶でも呑むか」
中原の言葉を信じた岩間は一言告げ、台所に向かい茶を淹れ始めた。
中原は「ありがとう」と云って、岩間から受け取った熱々の茶を啜り始めると「近頃、軍閥のような蟠りが俺たち世代の間でも醸成されつつあると思わないか?」と話を振った。
「いきなり軍閥って、まさか支那大陸のように戦乱を巻き起こすなんてことにはならんだろう。軍閥割拠時代の支那に関する本でも読んだのか? 日本にはまだ幸いにして斯様な壮大な軍閥物語は無いゼ?」
不安気に切り出した中原勇に対し、岩間は冷やかすと同時に中原の言葉から「焦り」を感じ取った。
「岩間、今の状況を考えてくれよ。「軍閥」だなんてのは、云いすぎたかもしれんが、上のおじいさん世代たちは藩閥人事で凝り固まっている。これは維新以来の問題で、仕方なしと思う。でもな、若い世代にも似たような現象が起きていると俺は考える。今じゃ、維新を再度すべきだの、軍が主導となり國家の強力化を図るべきだのと佐官、尉官級の者たちが云い合いをしているだろう? 岩間は何とも思わないか? 収拾がつかず、武力闘争にまで発展しやしないかって俺は危機感で一杯だ。近年、ソヴィエト強大化の國際情勢やら不況が齎す社会不安でみんな血走ってやがる。指針を失っているのだ。今の日本は全く路頭に迷っている」
「俺だって思うところはある。北さんや荒木さんたちに群がる者たちは國に責があると断定しているので、それを打破すべきのような危うい考えだからお前もその群れから抜けたのだろう? 特に危うさを感じたのが北先生の本なのだよ。北さんの理論の実態は赤色革命ではないか。信奉している連中は気づいてないのか、気づかないフリをしているのか見当がつかない。彼らは「昭和維新」と声高に叫んでいるが、既成の國家機構に鉄槌を下すなんて連中が嫌うソヴィエトのやり方だろうに。なんでも理詰めで、どいつもこいつも政治化してしまっている」
中原の言動に間違いなし。確実にこの男は昭和維新運動に賛同している側の人間ではないことを岩間は確信した。
貧窮に喘ぐ國内の民衆、君主を否定し労働者國家を立ち上げた隣國ソヴィエトの存在感。確かに異常の認識ならざる現下、武士たる軍人が立たずして何になる。現状を鑑みると、武人は政治化ならざるを得ない部分があった。
憤りを感ずる者々の気持ちは分からなくもない、と岩間の心中には同情に似た思いはあった。自らも軍人であるので、当事者故の思いである。他人事ではない。
昭和維新派の将校は物事を近視眼的に捉えてしまう未熟な政治観。シベリヤ出兵の際、ロシヤを生身で感じ取った経験を有す荒木将軍の熱弁に虜になり、標的目標はソヴィエト。貧富の是正を目指し、攻撃目標は財閥と経済を悪化させる國の政治家・官僚共といった特権階級。
総ては國民を救う為、國の惨状にお嘆きに暮れる主君の為――――――。
陸軍中枢部は軍務局長永田鉄山少将(陸士十六期)に代表される欧州大戦の影響を受けた陸軍大学校出身のエリート幕僚。軍隊の近代化並びに國家を軍隊が統制し、強固な経済・軍事力を以て、欧州大戦で呈された國家総力戦への対応を可能とする國家構想を描いていた。
思想の根拠は陸大卒が主の永田派と陸大卒ではない者が主の維新派では、観ている領域の違いはあるものの、両派の目指すところ、つまり軍事政権の樹立であるに相違なかった。頼りない文民統制ではない。武士が再度、國家の手綱を握る政治を目指していた。
中原は永田派や荒木派以外の道を岩間に提案した。
「三月事件や十月事件といった改造運動も軒並み失敗に終わっていることを鑑みると、我が國體には國家改造運動は馴染まないからではないだろうか。つまり、そうだ。思想的にもう一度、明治維新に帰ろうと思わないか? 陸軍士官学校歴史科教授の内野秀夫先生は帝大の青魂塾主宰者である大泉さんの門下生だっただろう。最近、陸海両軍でも入門を果たしている者が居るらしいぞ。そこで我々も歴史観を鍛えよう。実は会う手筈は整っている。この前、内野先生に懇願したから」
中原の目には改造理論に心酔する者には思想があるようで、無いように見えている。近代國家の始まり、明治維新に救いを求めようとしていた。彼も亦、変化の激しき世相に不安を抱き、心の拠り所としての思想を求めようとしている一人だったのだ。
(昭和維新運動の勧誘じゃなく、胸を撫で下ろしたが、結局は私塾の勧誘だった訳だなんてなア)
突然の話の飛躍ぶりに岩間は面を食らった。中原の来訪の目的が私塾入門の勧誘だとは思わなかったからだ。
「國體に沿わないという考えは一理あるけれども維新思想に帰るって、なんて曖昧な……」
熱意を以て、呼び掛ける中原の云う事を岩間は真に受けようとはしなかった。
それでも「田村にだって呼び掛けている。それと筒田や薄木、遠藤とかにも呼び掛けているのだ」と同期を誘っているからと、中原は口を閉ざすことを知らなかった。
(参ったな、こりゃ。熱いのは目の前にある茶だけでいいのだ)
中原の思いの熱さに岩間は「フウ」と息を吐くと天井を仰いだ。
「どうよ。このままではいけないと思う。そこは憂國の情というものをだな……」
「分った。中原、お前の熱意は充分に伝わった。そうも焦るな。俺もどうも國家改造の思想は体が受け容れようとしなかった。そこまで云うなら、内野教授の説く歴史観を識ってやろうじゃないか」
「ありがとう、ありがとう」
中原は握っていた湯飲み茶碗を円卓に置くと、右手を誇らしげに掲げた。まるで岩間とのボードゲームにでも勝ったかのようであった。岩間はやや引き気味に笑みを浮かべた。
当日、帝都電鉄に揺られた薄木誠三郎、遠藤英二、田村兼五郎、筒田義男、堺忠彦、そして中原勇と岩間正孝の青年将校七名は松陰神社前駅で降りた。車内で、岩間は田村に対し、昭和維新派から退いたことを問い詰めたが、やはり思想に違和を感じたところで中原の熱い勧誘に負けて、来たことを明かされた。
内野秀夫と会うなり、大泉澄の弟子入りは甘くない旨を一同は受けたが、会う場所を松陰神社に指定された理由も明かされた。
「諸君にはなぜこの場所に集まってきていただいたのか。ここ松陰神社は吉田さんが祀られているのは百も承知でしょう。吉田松陰の下には所謂、明治の元勲であるだとか数々の勇士が育った。大泉先生の下で、君たちも研鑽を積み、大きく羽ばたいてもらいたいという意味です。先生の私塾青魂塾は松下村塾に倣う訳ではないが、日本の将来を是非とも支えて欲しい。期待しています」
青年らに相応の覚悟が必要とされたのである。