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帝國の命運  作者: 藤原秀光
私塾入門篇
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第2話 / 誘い

 陸軍砲工学校普通科の一教室で青年将校明田寛二少尉(陸士四十五期)は、声高らかに同期の「桜」に向けて(ひろ)く呼びかけた。


「よいか! 砲工学生諸君。俺の話を訊いて()れ」


 と云うと、明田は教壇に立ちあがった。


「明田、何や宗教の勧誘か? 止めとけ、止めとけ」


「うるさいやい。昼休憩くらい静かにせい」


 壇上の身に罵詈雑言が矢継ぎ早に浴びせられた。


「まアいいじゃないか。訊いてみる価値はあるだろう。そう腐すなよ」


 岩間正孝陸軍少尉(陸士四十五期)は、(わら)って罵る同期生を(たしな)めると腕組をし、深く椅子に腰かけた。


「見よ、貧しき東北の農村生活の実態を。見よ、膨張のソヴィエットを。諸君らは國内外の状況を何とも思わんのか。思わんのならば諸君はそれまでだ。暗雲垂れ込む日本を今一度、輝かせたいと思う者はおらんのか。是非とも此の本を読んでみろ。今に君らは國を憂いてやまぬ、憂國の士とならん」


 明田は手にした一冊の本を頭上に掲げる。


 挑発気味に、それも胡散臭さを帯びた台詞をツラツラと述べた明田は教室中を見渡した。先程までの罵詈雑言は打ち消され、まるで水を打ったように静まり返った。


 ニヤリと明田の頬に膨らみを齎した。


()く気になってくれたようだな? よし。ただ、貴様等には耳を傾けているだけの身になってほしくはないのだ。この國の大義は何だ? 皇國の光を輝かさんと云う大義に燃ゆる同志であって欲しいのだ。我が皇國を覆う雲、それは失政により亡國へ導かんとす、陛下を取り囲む重臣だ。それは我が列島を虎視眈々と狙い定めているソヴィエットだ。それは……」


 何かに憑依されたかのように、明田の熱のこもった言説に多くの青年は唾を呑み込み、注視した。皆々は明田の弁舌には圧倒されていた。


 すると、誰かが「明治維新を二度、起こすべし。皇運に報いるには第二維新の他に非ず」と、声を発すると室内中の青年尉官は一斉に立ち上がった。


「おい、明田。貴様、その書に何が書かれていやがる」


「読ませろ。貴様だけ急に頭良くなった風な口の利き方しやがったな? 維新を起すならば俺もぜひ共に行動したい」


 獲物を狙う数多のハイエナが崖下から必死に這い上がろうとするかの如く、学生らは壇上の明田に群がろうとした。明田は彼らに冷静を促そうともせず、熱狂的な雰囲気(ムード)を断ち切ろうとはしなかった。


「俺たちで國を考え、日々の軍務に意識を持とう。実は、此の本は北一輝先生が書いた『日本改造法案大綱』だ! 此の本には今後、日本がどのように進むべきかが示されているのだ。國が歩むべく正しき道を研究しようじゃないか。この場に居る貴様等は同志だ」


 維新を夢見る一部青年将校の思想の拠り所である國家社会主義者・北一輝に明田は全く染まっていたのだった。


(彼奴等は単純も単純よ。しかし、明田という男は人を惹きつけることに関しては余程の能力があることは確かだ。弁舌だナ)


 雰囲気に同化せず、群衆を見やる岩間は冷静にやり過ごした。


 放課後、帰途につく岩間は明田に話し掛けられたので、下宿先まで共にすることに決めた。


「どうだった? 我ながら同調者を十人程、得ることができたのには驚いてしまったなア。皆、軍服の下には暑苦しいほどの救國精神を堅持していたのがよく分って安心した」


「お前はさすがだ。生来の底抜けの明るさが相まって、貴様は全く弁が立つ男よ。芝居臭さが抜けなかったがナ」


「そうか。この砲工学校外には俺なんかより大いに勉強している同志が大勢居るのだ。岩間、これからの軍人は選挙権を与えられない代わりに、ウンと勉強して政治をアッと云わせるくらいでないとお先真っ暗だ。なにしろ俺たちは見ただろうよ、現実を」


 荒木貞夫、真崎甚三郎(陸士九期)両陸軍大将の下には、青年将校が多く集まっていた。一部青年将校は両将軍に國家維新の期待を寄せていたのであった。國を誤った道へ導こうとする政治家・官僚らの國家を刷新し、より強固な天皇親政の実現を目指していたのだ。


 明田が維新派の一員であることを岩間は理解していた。だからと云って、別に明田を糾弾することも無く、逆も然りで明田の政治活動を称賛することも無かった。ただ、明田の口から放たれた「選挙権」という言葉は岩間の胸の奥深くに突き刺さったのだった。


 実家の困窮した経済状況から岩間正孝は軍人の道を選んだが、軍人とは対極的な「政治家」を夢みていた時期があった。陸軍軍人である父と同じ道を歩むことより、一國の成長を支える政治家に成ることが岩間少年の夢であった。


 長く永い時を経て、やっとこさ一人前の政治家に成るより、すぐさま身命を國家に捧げ、俸給を貰った方が実家に利すると苦悩の末に判断し、結局兵隊の道を進んだ。政治家だろうが、軍人だろうが、命を以て國家に忠誠を誓うことは、岩間にとって相違なかった。


 しかし、明治天皇が下賜された軍人勅諭では「政論ニ惑ワズ政治ニ拘ワラズ」と、現役軍人は政治に関与・干渉してはならないことが(あきら)かにされていた。


 当時の岩間には政治に関与する希望を捨てきれずにいた為、軍部大臣現役武官制を例に、ならば陸軍大臣にまで上り詰めることを一度は考えたが、どうも釈然としなかった。「所詮は軍の政治面代表であって、如何に國家予算を引き出すかという点に執着するに過ぎない」と、頭を悩ませた。


 抑々(そもそも)大正年間に廃止となった軍部大臣現役武官制度に期待は持てやしなかった。しかも軍部が積極的な政治発言を繰り返す「今」と違い、当時は政党政治は正常運営されていたのだから尚更だったのだ。


「おい。岩間、ボーッとしとるぞ。どうした」


 歩を止め、岩間は無言で俯き始めた。急な異変を感じた明田は岩間の右肩を揺さぶった。


「あゝ悪い。ちょいと頭が痛くなってだな、悪寒がする。体調が悪いみたいだ。先を急がせてもらう。また明日だ」


 と岩間は云うと、右肩に置かれた明田の手を払った。


 明田は女に振られたかのように哀しい表情を浮かばせていた。グングンと前進していく同期は、明田の視界では捉えることができない程に次第に遠のいていった。


 下宿の私室に戻るなり岩間は横になった。


「俺の夢か……」


 シミが散見される天井に向けて、一言ぼやいた。変に弱った気分を立て直そうと、自身は天皇の股肱之臣(ここうのしん)であることを念じた。


(一体、俺は何をよそ見している)


 岩間は政治や政治家だのの類は兵隊の本分ではないのだと言い聞かせた。


 明田の云わんとしたことを聴きそびれてしまったのがどうも岩間は気になって仕方がなかった。明田の云う「なにしろ俺たちは見ただろうよ、現実を」とは何だろうか。新たな壁が岩間の頭中に(そび)え立ったのだ。


 東北の生活が云々の、明田の意を汲んでみると少尉任官されて間もなく、彼らが隊附将校となった経験のことを示めしているとしか思えなかった。


 荒木将軍が好んで称する「皇軍」という軍組織の末端には、労働者階級や農村部出身の者が多く在籍していた。資本がどうの、財閥がどうの、と謳う高度な日本経済とは別次元に住まう、貧窮に喘いでいた者たちであった。


 岩間は部隊兵と起居を共にすることで、彼らの苦労ぶりを肌で感じていた積もりだった。それに何となく、日本國内の格差が拡がりつつあることは分っていた。東北地方の農村部では娘を売りに出すということがあったり、農村部出身者は戦地で早く死ぬよう家族から恩給を望まれたり、何とも忌まわしき実情があるのも耳に挟んでいた。


 しかし、明田らが目指すような、國内の格差是正し、工業・農業共に興し、真の天皇の國家として目覚める為には「維新」が果たして必要なのか。


 岩間は暫く逡巡し、時流と國家との間に生じつつあるズレを()る為に、決意を固めた。


(ここは一つ輩共に潜ってみるか)


 それからの毎放課後は、同志尉官の部屋に集まっては『日本改造法案大綱』を熟読し研究討論に参加してみた。不況を分析している一説には唸らされるような箇所もあったが、どうも岩間の心には引っ掛からなかった。


 空想的で、それも御託を並べておられては、どうも赤旗(せっき)的教義の匂いが鼻を突き刺しては岩間の身を離れなかった。


「苦しいナ。俺には理解できる頭脳が無いものでネ」


 あるとき、維新派で陸軍砲工学校同期生の田村兼五郎に対して、岩間は自虐して笑ってみせた。なんとも乾いた笑いであった。岩間が離脱を匂わせていることを田村は感じ取った。


「貴様の云わんとしていることは分っているぞ。同じ学び舎で学んだ同期である縁は永遠に変わることは無い。人間だ。思想、思考の違いはある。無理するな」


 岩間は明田にも申し訳なさを感じつつも一派から早々に退場していったのである。

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