第1話 / 門を叩く
日清・日露戦役で自信を得た帝國陸海軍は明治天皇崩御後、大正のデモクラシーの時流に呑み込まれ、國家は高度な武装を解いた。維新以来の栄光は一旦、閉ざされた。世は政党政治の隆盛を極め、武断政治が影を潜めた代わりに文治政治が形成された。
文民が主権を握る世に軍人は満足を得られなかった。大正年間は米・英に比べて不平等な条件であるワシントン海軍軍縮条約を締結し、二度もの陸軍軍縮が行われるなど、陸海軍は憂き目に遭っていたからである。
やがて昭和を迎えると、ロンドン海軍軍縮会議に批准するなどして、軍縮の傾向は一向に止むことを知らなかった。「ライオン宰相」こと濱口雄幸首相を頂点とする政党政治、党利党略が繰り広げられる議会に対し、國民や軍人は嫌気がさすようになっていった。
昭和六年(一九三一年)三月には、佐官級の若手・中堅将校や陸軍参謀本部の橋本欣五郎中佐(陸士二十三期)らが中心となって、創設した秘密結社「桜会」が政府転覆未遂「三月事件」を起こした。
尾張徳川義親侯爵から資金援助を受けていた民間右翼の亜細亜主義者・大川周明や清田行之助が当時の桜会の活動に共鳴していた。陸軍きっての実力者、陸軍大臣宇垣一成大将(陸士一期)を首班とする軍事政権を目指すべく、軍民一体の蹶起を企てていたことが露見されたのだった。
狂気の三月を尻目に、帝國陸軍の「華」である近衛師団歩兵第二連隊で軍務に服する松下正彦陸軍少尉(陸士四十二期)の心中には、内裏を衛る北面武士さながら君主を衛り奉ることによる極度の緊張感、そして揺るぎない武人としての誇りが並立していた。それでも松下少尉は帝都東京で勤務するなか、革新運動に影響され、桜会の運動に加わった。
「貴様もどうだ? 國を憂える気持ちはあるだろう。俺たちの羨望の眼差しを受けてやまない近衛部隊の人間が居ると頼もしい。國家を変えようという志を持とう」
先輩将校は松下を歓待した。桜会の会員として、もっと國家への帰属意識を持ち、日々の禁裏護衛の任につく信念を持つべきだと松下は信じて疑わなかった。
三月事件から一年を経たないうちに桜会は、荒木貞夫陸軍中将(陸士九期)を担いだ蹶起未遂事件「十月事件」への関与が発覚。松下は怒涛の蹶起に挑む姿勢に辟易した。殊に大川周明が「此度は錦旗を奉じた革命だ」と強く訴える様に、松下は余計に違和を感じた。
十月事件を機に、幸いにも桜会は消滅となり、松下は國家革新から足を洗った。
年が明けて、昭和七年(一九三二年)の或る日。近衛歩兵第一旅団長小畑敏四郎中将(陸士十六期)は、懇意にしている東京帝國大学文学部國史学科の一博士を呼び寄せ、旅団内で講演会が開かれることになった。
「大泉さんだとヨ。詳しいことは知らんが、政治家や軍人とは友好関係らしく繋がりがあるようだ。松下、貴様は知っているか?」
「いや、俺は学問の近況には疎いからよく分らないけれど。さすがは天下の東京帝大だな」
「そうか。貴様も知らないのか。閣下が好んで呼ぶくらいだから余程の陸軍贔屓の学者先生かもしれない」
講演開始前の数分間、松下は声を潜めつつ、学者が何と云うのか、何を我々に話すというのか、と同僚将校らと語らった。
「只今より我が旅団に駆けつけて下さった大泉先生の特別講演を始めさせていただく。では、先生、宜しくお願い致します」
「ええ、小畑さんの御紹介に預かりました大泉澄であります。将校の皆さま、何卒宜しく」
登壇したのは羽織袴姿の眼鏡を掛けた男であった。如何にも堅物の学者らしい風体であった。
「私は東京帝國大学で……」
大泉は自身について述べ始めた。素性は國史学の権威で、政軍の両界から一目置かれている学者であった。日本中世史を専門研究としながらも日本の淵源に関する研究を進めていたのだった。
小畑中将だけではなく、政界には近衛文麿公爵や木戸幸一侯爵、軍部関係には有馬良橘海軍大将(海兵十二期)、東條英機少将(陸士十七期)といった支持者が知られている。その関係から大泉は各地の軍施設に特別講義として招かれていったのである。
大泉の講演に対し、暫くは松下少尉は特に何も思うことは無かった。話の内容より眠気に不安を抱き始めた。
しかし、講演が進むにつれて大泉が、なぜ日本の淵源が大切か、なぜ先人は國體を護り現世に至るまで継承してきたのかについて語り始めると、松下の眠気はすっかり覚めてしまった。
「以上であります。この場を提供頂きました小畑先生、明日の日本を担う若武者である貴公たちに感謝申し上げます。そして、なにより益々の御活躍をお祈りしております」
壇を下りる博士の姿を、松下は惜しむかのように目に焼きつけようとした。
(もっと聴きたいものだなア)
「なんだか古めかしい話し言葉で頭に入りにくかった。日本主義者であることは分ったのだが、講演中に小畑閣下を見たか? 閣下は何とも満足げな表情だったぞ」
「大袈裟な感じは否めないが、立派なセンセイなのだろう」
講演室から退く最中に将校がアアでもない、コウでもないと口々に云う。
「人それぞれなのだから、伝わり方は一概には云えないが、先生の話は俺にはしっくりと胸に伝わる。なんだか道が開けた様に思うナ」
と松下は云うと、周りの将校らは「そうか? かったるかったぞ」なんて云う。
(革新だ、革命だのではない。中世の楠公の如く、國體を護持せねばならない。それこそが赤子に課せられた使命である)
松下少尉は大泉博士の説く歴史観に全く魅せられてしまった。
それからの松下といえば勤務後に足繁く神保町に通っては、大泉澄の著書を買っては読み込み、買っては読み込み繰り返した。
明くる昭和八年(一九三三年)。松下少尉は大泉博士の知遇を得ると、大泉博士主宰の私塾青魂塾への入門を果たし、大泉による皇國史学の勉学を修めるに至ったのである。