第15話 / 内閣総辞職の説 (昭和二十年八月九日)
この世に生を享けたる者は昔話を思い返したとしても残酷にも時は巻き戻せやしない。考え事に耽っていた白木中佐は無力にも廊下を歩き始めた。選りすぐりの秀才が導き出した「日本必敗」という答えを國家が受け止めようとしなかった無勉強の災いが今まさに白木中佐の目の前で起きようとしているのだった。
「綜合計画局白木中佐、入ります」
「何の要件だ」
「池田局長の命で参りました」
「池田の命だって? なんだネ」
「閣僚は対ソ参戦に際し、我が内閣はソ連の動向を見誤ったことの責任を果たすべく総辞職すべきである、抑々戦争には勝機は見込めないではないか、そして統帥部に関する話題でありまして、作戦の見通しを軍部に訊くしかないといった雰囲気が醸成されつつあります。勿論、現在は最高戦争指導会議中のことなので、最高戦争指導会議出席者は「不在」である上での意見に留まりますが……」
「内閣、統帥部への不信感か。閣僚が自ら内閣への不信を吐露するとはなア」
「一つ、私事の意見を述べますと、一種の責任逃れの如し意思表明と取れるように思います。逼迫している状況なので、落ち着けられないことは百も承知ではありますが、内閣総辞職などしては将に國が四散してしまうでしょう」
「君の考えはそうなのか。まア内閣総辞職なんてしている暇は無いのだ。今、内閣解体してどうなる? 政権に空白が生みだされ、その隙を狙われたら誰がどうする? ここは一つ協力体制でないとどうにもならんだろうナ。さアご苦労。戻っていいぞ」
「はッ。失礼いたします」
白木中佐が陸軍省を去って暫く、吉積軍務局長は困った表情で両腕を組んで考え込んだ。この期に及んで、弱気や自己反省に陥る閣僚の雰囲気をみるに、中枢に於いても厭戦気分が兆し始めているというのだ。
(松下辺りが適当であろうか)
吉積軍務局長は局長室を出ると松下中佐を呼んだ。軍務局長は、松下は陸軍大臣の身内であるのだから陸軍大臣への意思疎通を図るには適任であろうと判断した。
「あまり大声では云えない話ではあるのだが、君に頼みがある。実は先ほど、池田中将の命を受けた白木中佐がこちらに来たのだ。どうやら閣僚はソ連宣戦を受けて、内閣総辞職すべきだの、今後の作戦は直接、軍部から説明するようだのという思いに至っているらしい。宮内省、それに只今、会議中の阿藤大臣と梅津参謀総長の両閣下に以上のことを通達して呉れよ」
「内閣総辞職とは本当なのですか? しかも、最高戦争指導会議出席者抜きの閣僚たちの総意なのでしょうか? なんと……解りました。今すぐに向かいます」
松下正彦中佐は宮内省、最高戦争指導会議へと駆けて行った。
「御話合いのところ失礼いたします。陸軍大臣、参謀総長に用がございます」
一礼し、松下は重苦しき空気が漂う議場へと一歩、一歩、寝静まる子供たちを起さないように慎重に歩を進めた。松下は、暗い表情をしていた六巨頭を前に緊張していた。戦争の舵取りを任された人々の集いたる議場は謂わば艦橋であった。
阿藤陸相と梅津参謀総長は並んで座していた。松下は二人の間に割って、口元を手で押さえ、小声で終始、閣僚の意見を伝達した。梅津と阿藤は互いに耳を傾けた。
「……ですから、ご参考までに」
無言のまま聞き終えた陸相は「うん……ご苦労さん。吉積に宜しく云っておいて呉れよ」と小声で返した。
「失礼いたしました」
議場を後にした松下は「ふう」と溜息を吐いた。これからどうなるのだろうかという不気味な思いと「重役」を無事、果たし終えたことへの安堵感からである。さすがに義兄に陸軍総帥がいる身でも各部のボスが集う最高戦争指導会議に顔を出すのには勇気が必要であった。
青魂塾の平柳博士の下には海軍軍令部から連絡が入っていた。ソ連の宣戦布告並びにソ満國境に於いて戦闘開始されたことを大泉博士は知らされた。畑岡少佐から告げられた「新型兵器」の衝撃に続き、ツァーリを戴く白いマントを羽織ったロシア人が、今度は赤いマントを身に纏い、両手には鎌と鎚を携え、今、本土を目指そうとしている事実を耳にした。そうして平柳は頭を抱える暇も無く、徳永栄海軍中将(海兵四十一期)の来訪を受けた。
「既に敵側が我が方に通達しておりますポツダム宣言ですが、政府は受諾へ方向転換の可能性があるのを考えた方がよろしいでしょうなア。楽観できない現状です」
「受諾? 唯々諾々と敵の降伏勧告を丸呑みしますと國體は敵國の手から守れるのでしょうかね。ここまで帝都が焼夷弾で焼き尽くされては……それにソ連の急変をみるに、とてもではありませんが、相手側には我が國體を受容する意思は無いように思うのです。國體不変という前提抜きには受諾は成立しないような気がします。どうも甘言の感じもしなくもない」
「先の帝都一帯への空襲でありますが、英國に於かれましても独軍によるロンドン空襲を受けた事実があります。どの國でありましても、首都であろうと郊外であろうと関係なく攻撃対象になってしまう。だからこそ、ここまでやられたからには何としてでも一矢報いるべきという姿勢を持たなければいけない。しかし、陸海軍の連携なくして國體護持は成らん。平柳先生、我々は帝國軍人として如何なる戦況になろうとも天皇陛下の大命の儘に。受諾の可能性と云っても、飽くまで政府の方針ですからネ。どうなろうとも先ずは國體第一にあたる所存」
「そうですか。徳永さんがそう仰いますと私もいかなる形でもよろしいのですが、何とか皇國に応えたいものです」
油断ならぬ状況を改めて認識し、徳永将軍との相談を終えた平柳は書斎に身を移し、阿藤陸相、井野、松下中佐、畑岡少佐ら一門に手紙を認めた。事態急変に際し、平柳は師としての想いを込め終えると、ただただ沈思黙考の人となった。




