第11話 / 尾張侯
帝都東京は既に大部分が焼野原と化すも、目黒三丁目には依然として格別な高貴さを漂わす洋館が見られた。館主は越前松平家の五男、尾張徳川家第十九代当主・徳川義親。
徳川義親侯爵は尾張家の莫大なる財産運用に長け、尾張徳川本家の帝都転進を図り、一家安定せしめた。虎狩りに興じる「豪」と、家令や政治家の助言を聞き入れ、「華族」をバランス感覚に富んだ運営する「柔」を兼ね、或る一面では野心家の気質も感ぜられる貴人であった。
昭和二十年七月二十八日。政治活動家の清田行之助は単身、尾張徳川邸を訪れていた。
清田は亜細亜主義者の大川周明博士と共に、尾張家御相談人である八代六郎男爵(海兵八期)を介し、徳川義親侯と交流を深めていった。昵懇の仲を十分に伺えられる話がある。政治団体を創設した清田が徳川侯に資金援助を申し出たことを契機に、徳川侯は清田の支援者的役割を有する程であるのだ。
徳川侯は親しき彼を客間に誘うと新聞各誌をぶっきらぼうに机に置いて、寝椅子に腰を下した。
「読みましたか貴君。今朝の新聞が伝えるには米英支共が我が帝國に文句を云ってきたようだネ」
「朝刊は一通り読みました。なんでもポツダムというところから「降伏せよ」と遠吠えしているようです。しかし、ソ連は不気味そのものですわな。此度の宣言には「蘇」の一文字すら確認できない訳でありまして、近いうちに彼奴等は勢いに乗じて首を突っ込んでくるやも知れません。我國の新聞は斯様に「笑止」だなんて謳っているのもおりますけれども。ちょいと現実的な観点から、敵サンが降伏勧告した意味を思案せねばなりません」
「キミの謂う通りだ。ソ連がいつ顔を覗かせるか判らないのが非常に気持ち悪いのだ。ソ連の態度は時機伺いで、虎視眈々と日本を狙っているのだろう。我國は四面楚歌に陥ったのも同然ではなかろうか」
「ソ連は米英との間で話は着いている可能性は十二分にあると私は見ます」
話題は専ら「ポツダム宣言」の一点であった。既に降伏したるドイツ國郊外州都・ポツダムに於いて米英蘇の三ヵ國首脳が一堂に会し、世界大戦終結後の戦後処理を講じた最中、帝國政府に向けて降伏勧告した。宣言に対し、帝國政府は返答しなかった。
置かれた新聞紙を手に取り、清田は笑みを浮かべた。
(まだ、こんなことを書いてやがるのか)
清田は各誌の威勢よい報道も虚飾でしかないことを知っていた。
「新聞を読む限り、政府の姿勢が顕かになっていない。敢えて小問題として扱っているのか、政府の反応が不透明だ。私個人としては敵軍を本土に誘い込み、大打撃を与え、敵國首脳の鼻を圧し折るべきだと考えている。我國の将来を考えるとこれが妥当であろう。つまり一撃講和だ。新聞は敵國連中をあざ嗤ったかのような報じ方だが、とてもじゃないが、楽観など到底できぬのは火を見るよりも明らかだ。勝ち戦では無い、敗戦必至の現状を大転換しないと日本はどうなるのだろうと……だ。清田君、私の話が通じるような者は貴君の知り合いに居らぬのかな。是非、呼んで呉れ給え」
「軍の中でも、特に本土決戦を熱心に研究している参謀辺りがよろしいと思います。しかし、意気軒昂とする感覚は十四、五年前の事を思い出しますナ。どうですか、殿も思いませんか。一國の命運を己の手で動かしてみるという感覚を」
清田は右手を握っては開き、握っては開き繰り返しながら云った。まるでアノ頃の感覚を確かめるようにだ。徳川侯は清田の様子と言葉を目にし耳にし、ぐっと唾を呑み込んだ。
「忘れる訳無いでしょう。我々は昭和六年に挫折したのですから。幻の軍事政権、宇垣内閣だ」
暫く客間には静寂が訪れた。二人の脳裏には革新運動の苦い経験が甦ってきていたのだった。
橋本欣五郎陸軍中佐ら陸軍参謀本部の有志が中心となって結成された秘密結社「桜会」が、最も夢見た昭和六年三月。桜会会員が一部陸軍高級将校をも巻き込み、國家革新を断行し、濱口雄幸内閣を排することを目論んでいた例の計画である。
――我々は、恐慌を齎し、國内を疲弊させた挙句、軍縮に走る腐敗した政党政治を排除し、統制社会を築かんと宇垣一成陸軍大臣を首班とする強固な軍事政権を期す――
桜会の革新運動に協力していた清田は大川博士と共に事を起すにはどうしても資金が必要であると考えに至った。参謀本部の機密費で工面すると表明した陸軍将校側に対し、清田と大川は民間側でも用意すべく、人を殺さないことを条件の下に「軍資金」を尾張侯爵家から頂戴していた。
しかし、蹶起賛同者内から計画実行を制止すべきとの声が挙がり、國家転覆未遂とされる「三月事件」と片付けられてしまった過去を二人は「挫折」として共有していた。
「清田君、返す返す苦いですね。惜しい」
徳川侯は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「殿、明日は知り合いの軍の者らを何人か連れて御伺い致す所存です」
「日中帯は多忙であろうから夕刻頃がよいではないか。できれば市ヶ谷台上の人がよいナ。意見を訊きたいのです」
市ヶ谷台は、徳川侯が受け継ぎし尾張徳川が藩屋敷を構えた所縁の地。昭和十六年、三宅坂より陸軍省が市ヶ谷台に移転していた。徳川侯の云う「市ヶ谷台上の人」とは、陸軍省勤めの陸軍将校の呼び名である。
野心再びの一貴人は「家臣」に陸軍省将校の招集を命じたのだ。




