第9話 / 灯
昭和二十年六月某日の夜。愈々、近衛師団多賀秀正参謀と陸軍省参謀による最後の秘密会合を迎えようとしていた。近衛師団司令部で日勤業務を勤め終え、会合に向けて出発準備をしている多賀少佐は思いつめたような表情で阿保中尉に声を掛けた。
「中尉。ありがとう。今日で打ち止めとなるが、会合は私にとっては少しばかしの気分転換にもなったのだ。戦況については口にしたくはないが、こうも贅沢を云ってはいられないからな。何遍も云うが、会合は今日が最後なのだ。今までありがとう。「春乃」の人にも礼をちゃんと云うつもりだ」
(最早旅館に酒が無ければ、肴もあるまい。ただ暗澹たる表情で何を話されるのだろうか)
阿保中尉は胸に痛みを覚えた。
宮城内より自動車を二十分程走らせると、旅館「春乃」の前に着いた。旅館前には既に若い幕僚数名が待っていた。欠乏する石油の消費を控えるように私的に自動車を走らせることは無かったが、最後だからと云い、阿保中尉は特別に手配をした。
道中に「今日は同席して呉れ」と一言呟くと、溜息をついた多賀少佐の様子を目にした阿保中尉は、今晩は重苦しい話合になるだろうという予想は容易にできた。
多賀少佐と阿保中尉は自動車を降りると、幕僚連に遅れたことを詫び、挙手の礼をした。
「止せ。無礼講だ」
陸軍省軍務局軍事課動員主任の島岡重節中佐(陸士四十五期)が笑って二人の手を下げさせた。
島岡中佐は阿保中尉と同じく仙台出身。なにより島岡中佐の職務上、軍務局と近衛師団司令部との連絡業務を担っていたので阿保中尉とも親しかった。
阿保は、普段から顔を出している畑岡健二少佐(陸士四十六期)、椎木二郎中佐(陸士四十五期)の他に、見慣れない一人の男の姿を認めた。
「井野だ。よろしく。多賀少佐、キミの話は畑岡たちから耳にしている。それから、阿保中尉。多賀君の優秀な部下だと耳にしているよ。会合後は疲労困憊の島岡たちの為に、よく師団司令部の貴賓室に寝床を用意して呉れているらしいじゃないか。気配りの精神、素晴らしいものだ。感心した」
「そのようなことはありません」
阿保中尉はすぐさまに自虐した。
「ええ。台湾の第十方面軍参謀でいらした井野中佐ですね。今晩は最初にして最後のお付き合い願いたいと思います。しかし、私も幸せ者ですね。信頼の置ける部下でありますから」
あの二・二六事件の斬り込み計画で事なきを得た平柳門下生、岩間正孝である。無事に井野磐楠男爵の令嬢と婚姻関係を結ぶに至り、井野男爵家の婿入りを果たした。陸軍砲工学校高等科を卒業後は、陸軍大学校へ進み、「恩賜の軍刀」組、所謂、成績優秀にて卒業。中央の陸軍省軍務局軍務課に在籍しエリート将校の道を歩んだ。台湾軍参謀の任を終え、前年の昭和十九年に再度、陸軍省軍務局軍事課に配属されたのであった。
畑岡健二少佐も井野と同様、砲兵畑出身。さらに椎木二郎中佐、畑岡健二少佐は井野と同じく東京帝國大学國史学科教授平柳澄の私塾青魂塾の塾生である。
多賀少佐の義父・東條英機予備役陸軍大将も亦、平柳の説く平柳史学に魅せられた一人である。士官学校での講義や國史教科書改訂を依頼し、平柳門弟を学校や軍学校の教官としての採用を斡旋した。東條の平柳への支持ぶりは目を見張る程であったのだ。
二・二六事件発生後に平柳澄が荒木貞夫将軍に撤兵説得の依頼した際に連れ添った文民の陸軍教授西山雅も平柳の門弟である。東條の影響力もあり、平柳の影響を受けた者たちが軍内に集っていたのだ。
井野中佐自ら右手を差しだし、多賀少佐と握手を終えると、一行は館内へ姿を消していった。
暗い部屋に胡坐をかくと、皆、視線を逸らし始めた。天井を見上げる者、窓から外を覗く者。先程までの和やかな雰囲気とは一転して、部屋中に静寂が拡がった。
最後の会合と銘打つ割には大変に重苦しさが場を制する。誰もが話を切り開こうとしないのだ。
畑岡少佐は外に目を遣る。
「あゝ暗いナ……」
見事なまでに街路灯が消え去っている街並みを目にした畑岡少佐は口を開く。絶望感を帯びた少佐の独り言が空間に弱弱しくも響く。何ら発展性のない独り言なのだ。場の雰囲気を指したか、それとも街の風景を指しているのかも判然としない。
「灯火管制により、生活の灯は制限され、それに空襲を受けたら光が灯る方が可笑しいだろうよ。俺たちまで暗くなってどうする」
島岡中佐は笑い飛ばした。どうやら島岡中佐は場の暗い雰囲気を吹き飛ばそうとしたのだ。
「冗談は少々にしよう。まず聴いてもらいたいのだが、今後の見立てはどうすべきかと考えた時、推進していた松代倉庫の件だ。俺個人としては大本営・政府機能を移す計画を立案したからには、ぜひとも実行してでも戦争完遂せねばならないと思う。いや、しなくてはならない。だからと云っても、勿論私は陛下の御身を第一に考えている。宮城から松代にお退きなられて、近日編成された東京防衛軍が殿を務めた暁には守勢から攻勢に転じる他ない。東京防衛軍総員は玉砕覚悟であるッ」
井野正孝中佐は暗闇の空間に熱い火を灯すかのように闘志を滾らせ、力を込めて云った。
前年の昭和十九年。井野中佐は当時の陸軍次官、富永恭次中将(陸士二十五期)に対し、敵が本土への上陸が迫りつつある戦況を受け、本土決戦を想定した日本の中枢機能の移動を意見具申した。富永次官の許可を得た井野は黒川貞明兵務局員(陸士四十五期)らと共に中枢機能の移転候補地を巡り、「松代」に選定した“自負”があった。
松代に選定した理由には幾つか挙げられた。湾に面する東京は敵の上陸による攻撃に脆弱性があるので、東京からは遥かに奥地たる山々に囲まれた頑丈な岩盤の地、そして國名の信州は皇國日本の別称「神州」に通ずると考え、井野中佐は計画の推進を図っていた経緯がある。
だからこそ井野中佐には本土決戦を踏まえた継戦には自信があったのだ。
しかも、本土決戦作戦主任参謀濱四郎陸軍中佐(陸士四十四期)が月内に編成を行った、飯村穣中将(陸士二十一期)を指揮官とする東京防衛軍の存在をも明らかにする程に井野中佐の執念深さが顕かとなっていた。




