1話目 猫
「東南アジアに位置するケバナフ共和国。
美しい自然が現存するなか、都市部の観光資源開発も進み、毎年多くの観光客で賑わうことで知られる。
そして何より、この国では毎月素数日に、殺人が合法化される。
これは日本人の僕がその国で目にした出来事そして人々、特に僕の友人であった森尾龍己について記したエッセイである」
ピピピピ、と目覚まし時計が叫び出した。
それと同時に、聴き慣れた妙齢の女声が耳に刺さる。まだ眠っていたかったが仕方ない。額と片耳を抑えて、どうにか狭いベッドから這い出た。床には乱れた洋服や食器、メモ帳、PC、酒缶などが転がっていた。慎重にゆっくり進んでもどうせ踏みつけてしまうので、ずかずかと充電器やスチール缶を踏み潰してドアまで進む。
徐々に意識が浮上し、マダムの声がだんだんはっきりと聞こえてきた。
「くらかみ、くん! ちょっと来てくれる? まだ寝てるの? 起きてちょうだい」
「あー」
はーい、と声を張りながら部屋を出て階段を降りる。
家主の彼女の機嫌を損ねると後々面倒が起きることは分かりきっていた。というか、もう起きている。先週から彼女の倉上に対する扱いが乱雑になってきているのは明らかで、色々な雑用を彼に押し付けるようになったのだ。住人はとことんこき使うつもりらしい。
部屋を出て階段を降りれば、慌てた様子のマダムが自分を迎えに来た。
「ラジオが聞こえなくなったのよ」
「またですか」
マダムは倉上の部屋の下階に住んでいる。彼が勝手にマダムと呼んでいるのではなく、彼女自身がマダムと名乗ったから実際それに倣っているだけに過ぎない。
彼女は本名を決して名乗らず、レディでもマダムでも適当な名前で呼んでほしい、と最初に告げた。警戒されていたのかもしれないし、単にそれがマダムのポリシーなのかもしれない。彼は彼女に引っぱられるままにマダムの部屋の奥に向かった。表面の塗装がこそげたラジカセがある。
「もう古い奴ですもんね。駄目なんじゃないですか」
「一応でいいから、見てちょうだいよ」
「見ますけども」
「ピールちゃんが倒しちゃったのよね」
「ピールちゃん?」
「猫ちゃんよ」
「ああ」
マダムはいわゆる愛猫家で、飼い猫を放し飼いにしていた。
彼女は猫の歩みを決して止めない。部屋の雑貨や家具が倒れても、猫が一通り動き回るまで待ち、その後に片付けるという徹底ぶりだった。倉上はその方がむしろ猫にとって危ないのではないか、と心配しているのだが、マダムは現在ピールちゃんではなくラジカセを真剣に見つめている。変わった女性だ。
仕方ないので、倉上はそっと彼女のラジカセに近づいた。
ラジカセを見る、といいつつ僕は工具などに手は伸ばさない。機械を両手で振ってガチガチ鳴らしたり手で小突いてみたりと適当な処置しか行わない。実際のところ修理などできないのだ。
「ラジオが聞けないと困るのよ、何故かわかる?」
「なんでですか?」
「明日よ。ほら、明日は5月29日でしょう?」
「あ」
なるほど、と倉上は大きく頷いた。
「解放日ですね」
「そうなの、だからラジオが聞けないと暇で仕方ないのよ」
相槌を打ちながら、軽快な拍子でラジカセを叩く。もう軽くこつこつと打つだけでなく、勢い付いたチョップで的確に衝撃を与えていた。
そこで、突然民謡が流れる。
大音量の音楽、倉上は思わず飛び上がってしまう。慌ててラジカセを置く。楽しげな打楽器の音が耳に刺さって、鋭く痛んだ。
耳を押さえる彼に見向きもせず、マダムは胸を撫で下ろしていた。
「あら、直ったわね」
「音量でかいですよこれ」
「ごめんなさい、ごめんなさい。今下げるわね」
マダムはおっとりした微笑のまま、ラジカセに近づいてダイヤルを回した。やはり耳が遠くなるほどのお歳なのだろうか、などと倉上は無礼なことを考えてみる。
「あら、失礼なくらかみ君には、追加でお使いに行ってもらおうかしら」
「え? 口に出てました?」
「あらら、本当に失礼なこと考えてたのねえ」
マダムは居間の方に戻って、何かメモ紙を引っ張り出してきた。
単語が5、6個ほど並んだそれをそっと彼の手に握らせる。
「明日は家に篭りっきりだから、惣菜と魚とパン。あと洗剤も頼むわね。市場で買ってきてちょうだい」
「…………お金は?」
「後で払うわ。お昼ご飯も買ってね」
それだけ言い残して彼女は奥に引っ込んでしまった。
お昼ご飯も買ってね、というのは、昼までに買って戻れ、という意味だ。この4日間で、倉上は家主の機嫌の機微や発言の意図をおおよそ読み取れるようになってしまった。意味を察することができると大分楽だが、たまにちょっと怖い心地にもなる。
彼は外の湿気と熱気を想像しながら、窓辺を眺める。
マダムから布袋を受け取って、ゆっくり部屋の外へ出た。
一歩出ただけでも、そこには日本には無い、独特の香り漂う空気が充満している。
痺れるほどにまっすぐな日差しと、昨夜の雨の匂い、彩り鮮やかな建築物と、中古車の音、耳慣れぬ言語がひしめきあう声。
倉上はそこで何度目かの実感を得た。
(どうやら僕は本当に、ケバナフに来てしまったらしい)
ケバナフ共和国。
日本の南西に位置する立憲共和政国家。フィリピンとボルネオ島の中間にぽつんと見える小さな島国。海産物とそれを生かした料理が有名で、特に海老料理が評判だ。面積は小さいが、その風土や文化の特色から他アジア諸国と比べて一際強い存在感を放っている、
首都の近代化が進む中、自然豊かなリゾートとしての魅力もあり、年間800万人以上の外国人が訪れる観光大国。それでありながら近代以降、その国の伝統的なしきたりは長年物議を醸しており、世界中から注目と顰蹙を集める謎多き国でもある。
何が人々をケバナフに惹きつけるのか、それはやはり「解放日」の存在だろう。
毎月素数日。1、2、3、5、7、11、13、17、19、23、29、31日は「解放日」と呼ばれ、当日中ケバナフ国内では終日、殺人行為が合法化される。全ての犯罪が解禁されるわけではなく、あくまでも殺人のみが黙認されるその特殊行事は、他地域の国々と比べてもここにしか存在しない。まるでパニックホラー映画のようだ、と数十年前に大々的に報道され、世界中にその恐ろしい文化がケバナフの名と共に知らしめられることとなった。
この暴力的なルールは、世界各地のあらゆる人の関心を奪った。
平和を訴える人間、殺人体験を求める人間、そして熱狂的な「解放日」の雰囲気に酔いしれに来る人間。そういった人々がわざわざケバナフ本島に足を運び、殺したり殺されたりする。
倉上小休止は上記のどれでもなかったが、自分の意思で移住を決意した1人だった。
安全な外界からわざわざ殺伐とした島へやって来て、何故か生き延びることができると思い込んでいる若者はそう珍しくなく、ただその一例に過ぎない。
入国して数日で部屋を見つけて、良い(人に見える)家主にも恵まれ、働き先も確保している。倉上の海外生活は手ぶらでのこのこやって来たとは信じられない程上手く行っていた。ケバナフ共和国なる国はどれだけ野蛮な世界なのか、と意気込んでやって来てみたものの、案外気の良い人が多くなんとなく勢い任せにでも交流をはかれば相手をしてくれることが分かった。何だ、意外と穏やかな国だ、なんなら日本よりも過ごしやすいかもしれない、と高を括っていた部分もある。
そこまで順調に進んできたために、これが倉上の初めて経験した苦労であった。
家から出て数十分、既に徒労感は限界に達している。
まず両手に袋を提げて腕が傷み始めていること、次に、マダムからの注文の多さに辟易していること。そして最後に言葉の壁の厚みをひしひし感じ入る羽目になったことが原因だ。
細身で死んだ目をした日本人成人男性もとい、倉上小休止は頭を斜めに傾けて、聞き返す。
「すみません? もう1回言ってもらえますか、よく聞こえない」
鶏肉屋の男は早口でまくしたてているが、何を言っているのかさっぱりだった。
ケブ語はこの国のケブ族民だけが喋る濁音まみれの言葉で、外国人には単語の判別が難しい。倉上も来国する前に軽く本を読んで勉強はしたが、ほとんど聞き分けられないものだ。
現地の人々で賑わう市場では、公用語の英語よりもケブ語を使う人の方が多いらしい。マダムから道を教えてもらったおかげで迷わずそこにたどり着けたのは良いが、そこでの買い物も一苦労だった。
テントや軒先で老人が、子供が、男女が皆好き好きに話していた。倉上は漠然とした孤独感を感じたが、別に日本語が通じたからといって孤独であることには変わらないだろうな、とも思った。来て早々に1人でお使いさせるにはなかなか厳しい場所だ。マダムはそれを知っていて無茶振りをしたに違いなかった。
辺りに人は密集しているのもあって、相手の男の声はさらに聞こえ辛い。身振り手振りだけで何とか買い物はできたのに、もう帰ろうとした瞬間にこれだ。
何度か聞き返しているが、それでも全く駄目だった。「英語で話せませんか?」ともちかけてみたが、その声も相手に伝わってはいないようだった。砂嵐の中にいるのと似ている。もう少し風当たりを和らげることはできないか、と試行錯誤していた。
「『日本人なの?』って聞いてるんだよ」
ふらっと、道端にじっとしゃがんでいた気配が動いた。
小さなジュース売りの屋台に座っていた少女が、声をかけてきたのだ。肉屋の隣にあったそこから、様子を見にきたらしい。
肉屋の男と面識があるようで、二、三言葉を交わすと、肉屋の男は黙り込み、代わりに少女が話しかけてきた。聞き慣れた英語の響きに、倉上は安心する。素朴な少女が、今は後光差す救世主の御姿に見えた。
「ああ、うん。日本人だよ」と、力ない声で答えると、少女は頷いた。
「そうなんだ。名前は?」
「倉上小休止」
「くらかみ、ね。覚えたよ。私はサトゥ」
「よろしくサトゥ」
倉上の下の名前は、よく「本名なのか」と聞き返されることが多いのだが、さすがに異国にまで来るとそういうことも無いらしい。奇抜な名前を付けられたことで長年苦労してきた彼からすると、とてもありがたかった。
サトゥは鶏肉屋の店主の元を振り返る。倉上の言葉を翻訳して伝えているようだ。
「『観光で来たの?』って」
「いや。しばらく定住する」
「へえーどこに?」
「あの、南にある。屋根が赤い家の二階を貸してもらった」
「ああ」
あそこね! とサトゥは頷いた。
マダムが2階の部屋を貸していることは有名だったらしい。今もまだ空き部屋があり、彼女は度々住人を募っているとのことだった。そのちょうど良いタイミングで、倉上はマダムの元に行き着くことができたのだろう。幸運なことだ。
「くらかみ、ジュース飲む?」
サトゥの屋台は、子供の基地のような可愛らしいものだった。
小綺麗な観光客向けのジューススタンドではなく、もっと小さくて、木箱に洗面器と傘が乗っかっただけに見える。
彼女は洗面器の中に腕を突っ込んだ。中には氷とジュースの入ったビニール袋が詰められており、彼女はその袋の1つをひょいと摘んでプラスチックのストローを刺した。
聞けば、家で作ったジュースを袋に注いで販売しているという。口を結んだり冷やしたりするのも瓶やプラ容器の方が楽だろうに、袋に移すなんて変わった文化だな、と感心していた。
もう肉屋の主人は僕に対する興味を失っているようで、そそくさと店の中に戻った。しかし、代わってサトゥが僕に関心を示した。いや、単にこれがジュースを買わせる手腕だったのかもしれない。だが、まあそれでも良いだろう。
「スイカ味、3ドルね」と彼女は手を差し出してきた。これが妥当な値段なのかどうか判別はつかない。支払いしながら、倉上は問いかけてみる。
「君、いくつ?」
「17」
「へえ。サトゥはここら辺の人?」
「うんそう」
サトゥはケバナフ人にしては肌が白い子供だった。
西洋人の血が流れているのかもしれない。しかし、金髪は生まれ持ったものではなさそうだった。まつげや眉毛は黒い。大きな瞳が緋色に輝くのが印象的である。
「日本人が、よくここまで来たね。もっと都市部に住めば良かったのに」
「職場はそっちだけど、まあ、ここでも別に不便はしてないよ。今のところは」
「ここに来てどれくらい?」
「先週の木曜からだから、4日かな」
「わっほんとに来たばっかりだ!」
目を丸くしてサトゥは笑う。
そして、頬に手を当ててじっと倉上を見据えた。値踏みするような視線に彼はたじろぐ。
「じゃあ、明日が初めての解放日だね」
彼女は酷く冷静にそう言い放ったが、その発言を聞いて倉上は内心震え上がった。
解放日。
その単語にビクリ、と体が先に反応する。この国独自の風習、素数日にだけ許可される違法行為。殺人が許される日が来るのだ。
それを誤魔化すように、静かにジュースを啜る。スイカの瑞々しい甘味が喉を潤した。
のどかにジュースが飲める今があるのに、これから殺人が起きえる未来が来るだなんて不思議な話だ、と倉上はどこか冷めた頭で独りごちる。
「明日に向けて、何かコツとかある?」
「んーとにかく、まず知らない人には気をつけてね。なるべく友達や家族と一緒に居るのが良いよ」
「気をつけろ、か」と倉上は明後日の方向を見つめた。
しかしながら、倉上はまだ緊張感を得られずにいた。この市場の空気を肌で感じると、どうも明日がその日だとは思えないのだ。
辺りには人が大勢居るが、その誰もが呑気に商いを行なっていて、暖かなやかましさで満ち満ちている。
振り向けば、10にも満たない子供が数人で棒付き飴を持って走っていた。
倉上にとっての初めての海外生活なので日本以外の国と比較することはできないが、小道もアスファルトの道路も存外に綺麗なものだった。少なくとも、彼が覚悟していたほどの下品さはなく、土汚れや雑草や少量のごみなどの自然な汚さだけが残っている。
ケバナフはその異常な文化に反して、どこか常にのびやかな雰囲気が漂っている国だった。
植民地時代から伝統的に行われているこの「解放日」の風習は世界各国及び国連から非難され続けているが、暗黙の規定のように市民の間で保持されている。そこには外部の手をもってしても解体できない、繊細な秩序が存在していて、「解放日」はケバナフ国民の仲間意識のようなもので保たれている。興味深いものだ。
実際他アジア諸国と比べて犯罪件数が飛び抜けて多いことはなく、むしろ治安はかなり良い方だと評する人もいる。だからこそ産業の中で観光業が一際輝いているのだろう。危険を冒しても、というか危険を楽しむためにわざわざ解放日に入国して、街を楽しむ人すら数多く存在するのだから。
「サトゥは明日、どう過ごすんだ?」
何気ない口調で、倉上は純粋な興味をぶつけてみる。
サトゥはうーん、と大袈裟なくらい首を傾けた。
彼女の動きはどこか漫画的で、女性らしさよりも子供らしさが強かった。大きめのシャツを着用していたので、小柄な体躯が強調されていたのもあったのかもしれない。
「お昼を食べに行くよ」
「外に出るのか?」と彼は声を上げる。
「うん」とサトゥは頷いた。
「危ないことをするんだな」
「別に、出ようが出まいが変わらないよ。私の家はぼろぼろで、門も扉も守っちゃくれないし」
「そうは言っても、流石に」
「友達と一緒だから大丈夫。後は市場の皆と飲みに行くよ。ていうか、今日も日付超えるまでは飲むしね」
いつのまにか、彼女は自分用のジュースを取り出して飲んでいる。暑いね、とシャツの襟をはためかせる仕草は健康的な若者そのもので、ぞっとした。
友達、そして市場の皆もそうだということは、彼女だけ特別肝が座っているということではないのだろう。横を見ればぺちゃくちゃお喋りしている女人数名も見えて、あの娘たちも明日のうのうとお茶する気なのか、と恐ろしい想像が頭をよぎる。
散歩して、仕事して、ご飯を食べて、そういった生活は彼らにとって明日も地続きにあるものらしい。解放日であろうと構わず友人とお昼を食べたい、という欲求は国民性の1つなのだろうか。その強かさに心が震える。
倉上は感動半分、呆然半分に呟いた。
「この国の人はだいぶ、おかしな感覚で生きてるんだなあ」
「他の国の大人はみーんなそう言うよ」
「解放日が来るの、怖くないの?」
「流石に慣れるよ」
にこにこと笑う彼女は正常に見えた。かと言って倉上は自分の方が異常だとも思えない。顔を顰めて、彼女の笑顔を眺めた。
「もし暇なら、くらかみさんも来て良いよ。この市場で机広げて飲んでるから」
「いや、俺は今晩部屋でじっとしてるよ」
「えええ、日本の話聞かせてよ。とーきょー、ふくおか、すもうとり、すし…………」
「意外と詳しいんだな。悪いけど遠慮しとく。初めてだし、色々不安はあるから」
「ああそっか。でもいつか来てね。明後日でも良いし、待ってるよ」
「うん、ジュースありがとう」
ビニール袋を握りつぶして、ジュースを飲み干す。赤く透けたジュースが体に染み込んだ。
スタンドの横のごみ箱に袋を投げ捨て、踵を返す。
「じゃ、サトゥも気をつけてね」
「うん…………あ、待って待って言い忘れてた」
背中越しに手を振って帰ろうとした彼を、彼女が呼び止める。
「何だ」
「くらかみさんには、耳寄りな情報を教えてあげよう」
内緒だよ、とサトゥは人差し指を立てる。
「くらかみさん。もりおたつみ、には気をつけてね」
「え?」
「『もりおたつみ』!」
突然はっきりとした発音で日本人名が飛んできたので、倉上は驚いた。
もりおたつみ。
男性とも女性ともとれる名前だ。特別奇抜な響きじゃない。
「それって誰なの」
「私の知り合い。何もしなければ大丈夫だけど、なるべく会わないようにしてね」と彼女はニタリと口角を上げた。
「…………会ったらどうなる」
「そこまでは言わない。でも彼が働くのは『解放日』のときだけだから」
彼、ということは男だ。しかも今の情報からすると、不穏な雰囲気しかない男だ。
「殺人鬼」口から自然と言葉が出た。
「うん、まあ。半分正解だね」
おどけて拍手をするサトゥを倉上はじっと見つめている。あっさりとした口調でありながら、揶揄っている様子は微塵もなかった。本当に、心から有益な情報を分け与えているつもりらしい。倉上は必死にその名前を反芻する。「もりおたつみ、もりおたつみ」
「もし会ったら」
「え?」
「もし会ったらどうすれば良い。どうすれば死なずに済むかな」
「そんな簡単には殺されないよ。『もりおたくみ』もケバナフ人だし、話は通じる奴だから。でも、より確実に命拾いするためなら、彼に優しくしてあげた方が良い」
「優しく?」
「そう、やさしーく。飴や塩をあげるのでも良いし、労ってあげるだけでも良い」
「それで良いのか」
これは流石に冗談だと思って、倉上は失笑した。しかし、サトゥは今までで1番真剣な顔を浮かべて、ゆっくり口を開いた。ケブ語訛りの英語が、電波の雑音のように鼓膜に擦り付けられる。
「ケバナフ人はね、優しい人は殺さないよ。それが他の国の人との違いだからね」
宣言のようだった。
一瞬、市場がしんと水を打ったかのように静まり返った気がした。倉上は動揺して周囲を見渡す。しかし、何事もなかったかのように皆々自由に騒ぎ動き回っている、先程と変わらぬ市場がそこにあった。
気のせいか、と倉上は肩を落とす。
しかしサトゥに視線を戻したときには、彼女が消えていた。倉上は目を大きく開いたまま、しばし静止していた。足元に何かが落ちている。布袋だ。倉上はそこでやっと、自分が驚きのあまり荷物を落としてしまっていたことに気づく。中を確認してみると、財布の中身が増えていた。2ケバナフ・ドル分の硬貨が入っている。
あのジュースの値段は、やっぱりちょっと高いものだったのか。
ねえ、マダム。
もりおたつみ、という男を知ってますか。
「知らないわねえ」
甘辛い味付けの鶏肉の煮込みを口に運びながら、彼女は首を振る。
今夜は2人で夕食を摂ろう、と言い出したのは倉上の方だった。明日に備えて聞いていきたいことがある、というと彼女はにこやかに了承した。マダム、という呼称にふさわしく彼女のマナーは洗練されていた。口に入れたものを嚥下してから話し始める。
「その人、貴方の友達なの?」
「いいや、全く知らない。名前だけさっき聞いたんだ」
倉上はスプーンを使って香草や野菜と共に炊いた米を食す。
ここのお米は日本のものよりちょっと水気と粘り気が足りないために、いまだに違和感を覚えていた。
テーブルの上に猫が飛び乗ってきた。マダムは「ピールちゃん」と呼びかけるが、白猫は素知らぬ顔で自由気ままに歩き回る。白猫の目は果実のような彩度の高い橙色で、倉上はオレンジの実を連想していた。
「『気をつけろ』と言われた。きっと危険な人物なんだ」
「そうなのかしらねえ」
ナイフで肉を切り分けているマダムは、どこか他人事のように黙り込む。マダムもそうだが、この国の人々は本当に、殺人が限定的に解禁されるような危険な国で暮らしているのだろうか。自分の方が不安になってくる。
しかし、実際に生活してみるとこれくらい図太くなるのだな、という納得があったのも事実だった。彼らも月に何度も神経をすり減らす訳にはいかないだろう。
倉上はというと、奇妙な安心感に包まれながらも、どこかでそわそわしていた。明日が待ちどおしいような、一生来てほしく無いような、そんなふわふわした心持ちだ。
この家に暴漢が侵襲して、マダムと自分を殺しに来たらどうするか。そうなったらもう倉上が立ち向かって時間稼ぎでもするか、2人で隠れるしかない。と言っても、扉の前に鉄格子をはめているところを無理矢理侵入できる犯人なら、抵抗したところでもう意味は無いのかもしれないが。
彼がそんな妄想をしていたことをマダムに伝えてみると、彼女は心底愉快だという風に笑った。
「そんなこと考えても無駄よ。それに、くらかみ君は外から敵がやって来ると思ってるみたいだけど、私が明日、貴方を殺したらどうするの?」
微笑み混じりにマダムは倉上を見つめた。
えっ、と苦笑を漏らす。
マダムが倉上を殺す、というのは非常に考え辛かった。理由は単純明快で、物理的な障壁がある。腕や脚の肉が付いているマダムは特段非力とは言えないが、それでも年齢と体格の差から成人男性の筋力には大きく劣ることは分かる。まだ逆、つまり倉上が彼女を襲う方が可能性は高いが、そんなことをしても彼は帰る当てを無くすだけでそれも何の益も無い。そしてそれをマダムも重々理解しているだろうから、倉上と彼女の間にそういう類の疑念はなかった。
あと、サトゥの発言を思い出したのもある。「ケバナフ人は優しい人は殺さない」というあれが本当なら、倉上はマダムには流石に殺されないだろう、と思っていた。彼女にはそれなりに優しくしていた自覚がある。
だからこそ、冗談めいた口調で彼は彼女の発言を流す。
「僕、恨まれるようなことしました?」
「そうねえ、私のラジカセを叩いたわ」
「恩知らずですねえ、直したんですよ」
「あと年寄り扱いされたわね」
「それは…………ごめんなさい。謝ります。でも殺すことないじゃないですか」
頭を下げて謝罪する。
頭の上でマダムが口元を押さえているのが伝わった。ついでにピールちゃんも「なあ」と鳴いていた。
「でしょう? 殺される程の恨みを買ってないなら、別段気にしなくても良いのよ。どんと構えてるしかないの。全く知らない人から襲われてもそんなのどうにもならない」
「そんなもんですか」
「そういうものよ」
ケバナフ国民のこの落ち着きは、温室育ちの日本人倉上には到底理解できないところにある。
この言いようだと、マダムは誰からも強い恨みを買っていないという自信があるのだな。自分はどうだろうか。少なくとも、この土地には誰もいないと思いたい。倉上は沈黙した。
(確かに「もりおたつみ」が急襲してきたとしても、僕はここに篭る以外の選択肢はない。)
「でもね貴方は、明日外に出てみても良いかもしれないわね」
「は」
鶏肉が喉に詰まった。
慌てて首元を叩き、水で流し込む。マダムは自分が元凶であることを棚に上げて、「大丈夫?」と顔を覗き込んできた。
「なんでそんな急に、恐ろしいことを」
「そんな怖いことじゃないのよ。実際、ほとんどの人はいつも通り出勤して登校して、いつも通り過ごすんだから」
「そうは言っても、マダムも家に居るんでしょう? 僕だけ追い出すのはちょっと薄情じゃないですか」
「私はほら、年寄りだから」ここで気づいたのだが、彼女は都合の良い時だけ自分の年齢を上手く使う。
「くらかみ君は、明日出てみるべきだと思うけどねえ」
「なんでそこまで押すんですか」
マダムはそこで僕の表情をじっと見据えた。
市場の少女のような、値踏みの目だ、と僕は思わず顔に力を入れて構える。
「だって、貴方はこの国に向いてる人だと思うから」
褒められた訳ではなく、ただ淡々と診断結果を告げられたような気分だった。その言葉は思ったより深く胸の内に突き刺さる。たった4日の間に、マダムは僕の何を見てそう思ったのだろう、と言う冷静な自分も居たが身体は楽観的なもので、ばくばくと血が湧き上がる気配が心臓からやって来て神経に熱が走った。僕は彼女の次の言葉を待って、そっと口をつぐんだ。
「貴方、どうしてこの国まで来たの?」
倉上は予想していたなかった方向から被弾して驚く。
「日本は良い国だって聞くわ。私の友達も日本に旅行しに行ったけど、とっても楽しかったと言ってた。綺麗で雰囲気穏やかで犯罪が少ないって」
「ケバナフよりも雰囲気が穏やかな国なんていっぱいありますけどね」
「それはそうね」
で、どうしてなの? とマダムは微かに首を傾げた。
フォークとナイフを置き、倉上は顔を伏せる。迷っていた。どの程度話すべきか、英語で話すならどの表現が適切なのか、まず自分はその理由を本当に分かっているのか?
薄紙で口のソースを拭った後、迷いに迷った末に倉上は口を開いた。
「…………解放的な暮らしがしたいんです」
「あら」
「日本は良い国ですが、窮屈でした。少なくとも僕には」
「窮屈ね。私のさっきの友人、ケブ族の女なのだけどね。彼女も同じことを言ってたわ」
「…………」
口に残った魚の揚げ物を咀嚼していた倉上は、縮こまった子供のようにそっとマダムの顔を伺う。それを見て、楽しそうにマダムは口元を押さえた。
「貴方をここに招き入れて良かったわ」
彼女はそれ以上その話題を広げず、無責任な言葉だけを残して、滑らかに食事の時間に戻ってしまった。倉上もそれから何も話すことはなく、彼らは沈黙と共に食後酒まで胃袋に収めた。
結局、会話もないその日は夕食を早めに終えて早く就寝することになった。
テレビを観るのも止めて、倉上は2時前にベッドに入る。
こんなに早く就寝するのは小学生以来だった。彼はいそいそとベッドの中に入りこみ、窓の外の景色を眺める。暗い空に星を探せば、ちらほらと白い点が見える。
倉上はその日、夢を見た。
というのは嘘だ。彼は元々眠りが深く夢を見られない方の人間なので、この日も普段通り何も夢見ることはできなかった。
でも夢を見る場面から回想に入る、というベタな演出の1つとして、ここから彼の経歴について書いておこうと思う。
────人間誰しも最低1作は名作を作り上げることができる、という誰かの名言通り、倉上小休止という男性作家は若干19歳にしてヒット作を世に生み出した。
問題は、その劇的な出来事がすでに風化し、大衆が新たな名作を彼に期待したことにある。
倉上小休止の人生の転機は4年前の冬であった。
彼は個人的に、自身のコンビニバイトでの出来事とそれに対する所感なんかを小さなイラストと素朴な文体で記して、細々とネットに公開していたのだ。幼少期から絵本や漫画、小説などを好んでいた倉上は、自分のありふれた生活をどれだけ生々しくかつ面白おかしく描写できるか、ということを追求していて、それだけがフリーターの傍らで続けている唯一の趣味でもあった。そして、長年続けていたその創作活動がたまたま出版社の目に留まり、エッセイ本として全国書店に並ぶことになったのだ。
後に出版物関連の3つの賞を受賞するこれは、それなりの注目を浴びて、倉上自身も一躍時の人となった。レポ漫画家とエッセイストの中間のような肩書きを得て、倉上は少しだけ安心した。ようやく自分が好きなことだけで金を稼ぐことができるやもしれない。そんな甘い夢を見ていたが、その想定の甘さを後々実感することになる。
「バイトの話はもう厳しそうですね」
担当は、他に描けるものは無いんですか? と詰め寄ってきた。
倉上は乾いた笑いを浮かべた。
「でも、他に描けるものも無いですよ。姉や父母との話とか……は特別面白いことは」
「今から、何かやってみましょうよ」
「今からですか?」
「違うアルバイトをやってみましょうよ。僕でよければ探します。特殊な、ニッチな種類のものやってみるのはどうですか」
元気満々に拳を握る担当の男性は、いつでもやる気に満ち溢れていた。倉上は彼のことを信頼していたが、彼のそういう熱い部分は苦手だった。
静かに頷いて、席を立つ。
「そうですね、新しいことを始めてみます」
「ありがとうございます、また何か連絡してください」
「はい」
会社から出るときに、倉上はやっと縄から逃れられたような気がした。そこでやっと現在の環境に疲労していたことに気づいた。
打ち合わせが終わったその直後、一人暮らしのアパート109号室に戻って弁当なんかを黙々と食して寝る。布団にくるまりながら、じっと丸まって目を閉じていた。
そこで考えに考えを重ねた末に、倉上は日本から逃げた。
逃避先にケバナフを選んだのは、それでも面白い知見を得たい、という作家としての意地だったのかもしれない。もしくは自暴自棄になった結果だろう。
倉上は打ち合わせから1ヶ月と経たぬまま、スマホを変え、ビザを取得し、飛行機でケバナフに飛んだ。
大学卒業後、何も考えずフリーターを続けていたとは思えないほどの行動力で、彼は何の伝手もないまま足を踏み入れたこともない異国に向かっていった。そしてその地で交渉して部屋を借りて、日本人観光客向けのレストランで働き始めているのだから凄い話だ。
そうして、彼は殺人が許される国でのうのうと生活を始めた。彼は勿論誰かに騙されたわけではなく、あらゆる脅威の危険性の恐ろしさを重々承知した上で、この国を選んだのだ。だからこそ、これから彼に何が起きようが悲劇とは言わない。
のうのう生きてきて、今日初めての素数日が来るのだ。
倉上の経歴の話はこれで終わり、話はここから最も重要な場面に入る。
時間を早送りして、彼が夜中に目覚めるところから再開しよう。
「なーお」
「うおっ」
目を覚ますと、視界は黒一色だった。
不自然な首元の重圧に、急いでベッドから飛び起きる。
暴漢か、と青ざめながら、急いで影から離れた。
だが、影は僕が想像していたものよりもっと小さく丸い。猫の、ピールの影だった。橙色の双眸は獣のように輝いている。
下の階から倉上の部屋まで階段を通って来たのか。
「ピール、どいてくれ。全く心臓が持たない」
今は何時か、おそらく日は跨いでいるはずだ。しぱしぱと瞬きをして、暗闇に目を鳴らせば、汚い自分の部屋が視界に浮上していく。そしてピールの容貌も。倉上は彼女に向かって大きく腕を伸ばす。
大人の猫は、両腕で持ち上げてみると結構重いのだということを彼は初めて知った。
猫は大きく抵抗することもないが、従順でもない。倉上は懸命に彼女を床に降ろそうとするが、彼女はしなやかな足使いですぐにベッドに登って来る。この激しい攻防は6分も続いた。
その後、彼女はベッドだけでは飽き足らず、彼の部屋中の様々なところを歩き回った。テーブルの上、本棚。箪笥の上から窓辺へと、曲芸師のように飛び回った。
白猫の遊戯は美しいものだが、自分はとにかく静かに眠りたくて仕方ない。
倉上はこの猫を暴漢だと勘違いした自分のことを恥じていたが、それ以上に我が物顔で僕の部屋を闊歩するピールの姿に呆れていく。全く平和なものだ。
「ピール、頼むから。あんまり部屋を歩き回らないでくれ。ものが動いてると眠れないんだ」
「んなーお」
「んなーお、じゃなくて」
英語と日本語、どちらの方が猫には伝わるのだろうか、と寝ぼけた頭で考えてみる。
ピールは細い体で窓にもたれかかっていた。
鉄格子がはめてある窓は半分だけ開いている。ああ、と倉上はまた生気の無い表情になった。こんな日に窓を開けたくはなかったが、閉めっぱなしにすると暑さで死んでしまいそうだったから、仕方なしに開けたのだ。よりによって、今日に。
柔らかな影が伸びて、曲がった。
粘土のような柔軟な動きに目を奪われる。ピールは静かに、少しだけ毛をさらさらと言わせて鉄格子を潜っていった。猫の骨は一体どうなっているんだ、と倉上は混乱しそうになる。彼女は彼女の頭蓋よりも狭い幅の隙間から、ぬるりと脱出してしまった。
「なーお」
気づいた時には、彼女は窓の外に居る。
「おい!」
ぴょん、と窓から影が落ちた。
突如として、背筋が薄寒くなる。
猫が落ちてしまった。いや、外に出てしまった、という事実をこれだけ怖がったのはこれが最初で最後だ。
駄目元で時計を見やる。時刻は「00:38」を指していた。
解放日だ。
突然目も鼻も、感覚全てが冴え渡ったような気持ちになる。
唾を飲み込む。汗ばんだのは湿気と気温のせいだけじゃないだろう。
慌てて窓を覗き込む。
迂闊に頭部を出すようなことはせず、ゆっくりと視界ぎりぎりで見える範囲で外の様子を伺う。
暗闇の中に、薄く雨が降っていた。小降りだが、だんだんと強くなっているように見えた。
ただ、その向こう。
雨足の向こう、ずるずると何かが聞こえる。
何かを引きずっているその音が、倉上の耳に強く強く刺さった。
続く