第一話
青く澄んだ空。太陽の輝きに目が眩んでしまう。
あぁ、今日はなんていい日なんだろう。
最高の自殺日和だ。
教室から漏れる耳障りな声でさえ良く思える。
こんな僕には目もくれず、みんなは白い文字とのにらめっこに夢中か。
残念。
けれども、もう何も思い残すことは無い。
何も失うものも無い。
右足を前へ、空を踏む。
これで何もかも解放される。
目を閉じようとしたそのとき。
目の前で昇る細くて白い煙。
鼻の奥まで刺激されるツンとした匂い。
慌てて振り返ると、一人の男性が近くのフェンスに寄りかかっていた。
驚くことに彼は、僕のこの行為を余所に呑気に煙草を吸っていたのだ。
そして、振り返った僕と目が合って、一言。
「そこ、危ないよ。」
と軽く注意喚起をしてきた。
彼は僕に死んで欲しいのだろうか。
見るからに、ここの教師みたいだが。
「…止めないんですか?」
と困惑して考えもせず言葉に出してしまった。
明らかに自殺しようとする人が放つ言葉ではない。
だが、彼の不可解な言動の理由が知りたかった。
「生きるのも死ぬのも個人の自由だろ。干渉なんてしないよ。」
と彼は僕を肯定してくれた。
初めて僕を肯定してくれる人と出会えた。
しかも、彼のその端正な顔立ちはどんな芸術作品よりも美しく、見とれてしまうほどだった。
けれども、残念ながら、あと少しでお別れだ。
「ありがとうございます。」
と彼から目を離し、前を向いて、一歩を踏み出そうと試みる。
足を前に出すことがこれ程までに難しいことだとは、今までの僕は思わなかっただろう。
「一つだけ質問していいかな?自殺について興味があるんだ。」
僕より先に落ちていく煙草の灰を凝視するその目には輝きを感じられない。
「良いですよ。」
と湧き上がる恐怖を抑えつけて、冷静さを装う。
「どうしたら、死の恐怖を克服できるのだろうか?」
と自問するように僕に問いかけてきた。
隣りで彼が、ため息混じりに白い煙を吐く。
その煙が空に向かって消えていった。
「死は美しいです。」
と僕は抽象的に、そして何より端的に答えてあげた。
目を閉じて両手を軽く広げる。
向かい風が優しく僕を撫でてくれる。
全身で前に傾くのを感じる。
これで全てが終わる。
右斜め後ろに引っ張る力を加えられる。
また重力が僕の身体に沿って働く。
目を開くと、彼が僕の右腕を掴んでいた。
「やっぱり、君は死なせない。」
と静かに言われた。
「何故ですか?」
ただ不思議という感情が出てくるだけだった。
干渉しないという言葉は嘘なのだろうか。
「私が満足しないから。」
とこの教師は僕の解答に赤チェックを付けたみたいだが、
「僕はこれしか解答できませんよ。」
と再び返答した。
「ちょっと来て。」
と腕を引かれ、フェンスの内側に招き入れられる。
一歩前へ進むのに、こちらの方が圧倒的に楽だ。
死の恐怖による緊張が解けた。
それと同時に、成し遂げられなかったという心残りがついてくる。
「僕はいつになったら、死ねるのだろうか。」という疑問も。
「第一問。死が美しい理由を二十文字以上、二十五文字以内に簡潔に述べよ。但し、句読点も一字と数える。」
国語の記述問題もどきを出題された。しかも、文字数制限付き。
「…僕は死ぬことを一種の芸術作品だと考えているから。」
指折りで数えて二十四文字。
これには自分でも驚いた。
「模範解答できたじゃん。花丸あげます。」
と頭を撫でられるが、
「こんな嬉しくない花丸は初めてですよ。」
と心の底を見られた恥ずかしさで素直に喜べなかった。
「第二問目。私が君の手を離さないで掴んでいるのは何故でしょうか?」
この問題を出題されてから、やっと彼が僕の手をずっと離さず掴んでいる事実を実感した。
目視で確認すると、彼の白くて細長い指が目に入る。
彼の美しさは僕の完全なる理想だ。
何故、今まで彼の事を知らなかったのだろうか。
なんて思いながら、適当に答えを言った。
「もっと満足する解答が欲しいから?」
と首を傾げながら、彼の顔をまじまじと見つめる。
「ふふっ、残念。不正解。」
と笑った顔も愛らしく、その顔を見れただけで、問題に間違えた事などどうでも良かった。
けれども、彼の考えを知りたいという好奇心から
「正解は?」
と聞いてみた。
「正解はもちろん、君に私の死を美しく飾って欲しいから。」
彼が死ぬ。
その事実は受け取りたくなかった。
「え?」
僕は眉をしかめた。
今までの浮ついた気持ちが、一気に底へと叩き落とされた。
美人薄命という言葉が頭の中を駆け巡る。
「君の作品になって死ねるのなら、死の恐怖を乗り越えられる気がするからね。」
僕の作品?彼が僕の作品になるのか。
確かに彼は僕の理想だ。
だが、生きている。動いている。
僕の作品とは違うところだ。
けれども、彼が死んでしまうのなら、僕が彼の死を美しくするのなら、それは僕の作品になってしまうのだろう。
「失礼ですが、何かの病気なんですか?」
治せる病気なら、治したい。
余命が伸びるなら、伸ばしたい。
どんな手を使っても、彼には長く生きて欲しい。
何故か、そう思えた。
「うん、病気だよ。病名は言えないけど、いずれ死ぬ。」
死ぬ。
その言葉が前よりも重く、僕にのしかかってくる。
「…そうなんですか。貴方が死んでしまう前に、貴方に出会えて良かったです。」
僕は貴方のその美しさに一目惚れしてしまったので。
「ふふっ、それはこっちの台詞だよ。砂糖 馨くん。」
と掴んでいる手を僕から離した。
「僕の名前。…僕の事、知ってたんですね。じゃあ、全て意図的にですか?僕の自殺を止めることも。」
僕に美しく死を飾るように頼む事も。
「いや、全て偶然だよ。もしかしたら運命なのかもしれない。けれども、私の都合を優先させたのは申し訳なかったね。」
運命が僕らを引き合わせた。
あぁ、なんて神様は意地悪なんだろうか。
彼の事を知らず死ねていたら、どれだけ楽だったろうか。
彼が僕を引き止めなかったら、どれだけ楽だったろうか。
「まあ、自己中心的なのは人間らしいです。それで、貴方の名前は?」
過去は嘆いても意味が無い。今、この人に出会えた事を感謝する。
「塩 蜜柑。妹は塩 檸檬。面白いでしょ?」
と見え見えの作り笑い。
彼はこの名前が気に入ってないご様子。
けれども、塩と砂糖。やはり運命なのだろうか。
僕達は今日、此処で出会うことを決められているような気がしてならない。
「良い名前ですね。」
蜜柑は僕の大好物だから。
この人を好きになるって決められてるみたいだ。
「そんな感想、初めて言われた。」
と彼は少し目を丸くした。
「みかちゃんって呼んでもいいですか?」
「うん、良いよ。」
とあっさりと渾名で呼ぶことを許可してくれた。
みかちゃん。響きが凄く可愛い。
「みかちゃん、僕の恋人になってください。」
彼が死なないのなら、彼が病気でないのなら、僕はこの想いを今、伝えなかっただろう。
彼にはタイムリミットがある。
その事実が衝動に駆られるように僕を動かした。
僕が男性しか愛せないのを違和感と感じるのよりも前に。
「え、恋人?…嫌だね。これから死ぬっていうのに。」
彼は違和感とは思っていないという様子で接してくれている。
きっと彼は個性を大切にする人だ。
そんなところも好きだ。
今、彼を恋人にしたら、将来、酷く悲しむのは僕だ。
もしかしたら彼も悲しむのかもしれない。
それをわかった上で、この話をしている。
「だから、恋人になって欲しいんですよ。一緒に死亡フラグ作りでもしましょう。」
なんて作りたくもない死亡フラグの話を適当に持ち出して、恋人になって欲しいと彼に訴えかける。
本当なら、一緒に死ぬ前の思い出作りと言いたいところだが、彼には拒まれるだろう。
「ドラマ仕立てなのか?その作品は。」
その言葉は彼は僕を見ていないということの表れだった。
彼は今、自分の死が美しく飾られて、芸術作品として死ぬ事に興味が向いている。
「というより、より良い作品を作る為、貴方の事を深く知りたいんです。」
この言葉に嘘は無い。
死を美しく飾るには、その人の人生が必要だろう。
けれどもこの発言には、個人的にこの人を深く知りたいという欲求が表立っていた。
僕は将来よりも今を大切にしたい性格だ。
「ふーん。なら、良いか。」
と軽く発せられた言葉だが、僕には十分重く響いた。
「やった。ありがとうございます。」
これで僕の心も救われる。心が満たされる。
「連絡先でも交換する?」
と軽く微笑みながら、優しく聞いてきた。
「はい。でも、彼女とかいないんですか?みかちゃん、凄くモテそうだから。」
彼に彼女という存在が居たら、僕は酷く嫉妬してしまうだろう。
彼から愛される存在になりたい。そう切望しているから。
「いないよ。私が死んでしまったとき、不幸せにさせてしまうかもしれないから。」
と言う彼は僕よりも大人だと感じた。
当たり前だが、そう実感した。
「その点において、僕なら安心ですね。」
何が安心なのだろうか。
自分で言っておきながら、自分で批判する。
僕は彼が死ぬのを望んではいない。
だが、彼が安心できるよう、「恋人ごっこしよう」と言う表面の自分を作った。
この自分の目標は、作品創作だけだろう。
「そうだね。じゃあ、次は放課後。また会おうか。」
表面の自分を認識した彼に、本当の自分を見せられなくなった。
自分をもっと知って欲しいのに、出来なくなってしまったのだろうか。
自分を知って欲しいと思うのは罪だろうか。
「はい。」