落下地点、虹彩。1
「……ぃっ、たた……」
落ちた時にだろうか、強く打ち付けた肩のあたりを軽く揉む。
―――あれ?
死んで、ない……?
かなりな距離を、自由落下した筈、なのに?
思わず自分の足を確認する。そして驚くほど深い緑の苔むした地面が目に入って、驚いて顔を上げた。
―――?!
一瞬呼吸が止まる。
凄く太い、木の根が見えた。
そ、そりゃ確かに田舎者だけど、こんなマンガや映画で見る様な立派な木の根は見たことがない。
吃驚して辺りを見回して、更に俺の思考は凍り付いた。
「……何処だ、此処……!」
鬱蒼とした森、というのがよく似合う、深い森林の真っ只中。
―――屋久島?
屋久島もテレビでしか見たことはないけど、一番イメージに近い気がした。
でも、屋久島よりも緑が濃く、手の加わって居ない原生林、みたいだ。
「嘘だろ……おい……」
今まで俺は、確かに日本の本州に居たんだぞ……!?
なんでこんな、こんな場所に居るんだ!
携帯、携帯のGPS……っ。
通じるかは判らないけど―――あれ? 無い……?
携帯どころか、鞄も、スラックスにチェーンで止めていた財布も、無い。
無一文って、こと……か?
こんな、どこだかも分からない場所で、本当に体一つ?
あまりの出来事に目の前が白くなる思いだ。
本当に身一つらしく、ポケットに入れていた家の鍵もない。
「……たか?」
「……」
誰かの話し声がする。
聞こえてきたのが日本語なのに安心して、俺はようやく立ち上がった。
少なくとも此処は日本で、家に帰る事も出来る。
それが判っただけましだ。
「……ああ、見つけた」
がさり、と木の葉が揺れて、ひとりのお兄さんが姿を現した―――俺の僅かな希望を砕いて。
何色、っていうんだろう?
緑って言うには少し青みがかっていて、茶色じゃないんだけど、そんな渋みのある色。
原色系じゃない淡い色の、髪と瞳。
そんな人、日本には居ない。いるはずがない。
あんな微妙な色合いは、染めても出せないだろう、きっと。
サークレット、だったか? 額に幾つかそんな飾りをつけたその人は、俺を見てふわり、と笑った。
う、わぁ……
美人だ。
いや、男にそんな表現はどうかとも思うけど、お兄さんは非常に美人だ。
優しそうな、柔らかな雰囲気で、ファンタジーみたいな格好の違和感も、俺から拭い去ってしまった。
そしてお兄さんは、俺に告げる。
「ようこそ、虹彩へ。異界からの少年」
ゆっくりと、一度まばたき。
えーと、何ていった?
「大丈夫―――では無いだろうね。先ずは説明をしたいから、私の家に来て欲しいのだけれど」
「……っと、あなたは?」
「私は十重。重華―――君の様な異界からの客人を迎える役目を負っている10人の一人だ」
あーまた言ったよ!
異界!
異界って異世界だよな!? 凄く当たり前みたいに異界からの客人とか言われてるんだけどっ。
でも―――俺みたいな、って事は、俺以外にも居る、のかな……?
「ねぇ、先ずは家に来てよ。悪い事はしないからね♪」
「うわっ」
足元で声がして、驚いてみると、鴇色の生き物がジャレついていた。
背中に1本白い線が入っているその生き物は、長い耳にしなやかな足をしている。
目は猫みたいだ。
ああ、兎と猫の間、なら近いかもしれない。尻尾はふさふさだけど。
「こら、篤亜」
「は~い……」
足にすりついていたそのふわふわの感触は十重の言葉に俺から離れた。
少し残念だな……
「けれど、本当に一度家に来てくれないか? 君をどこかに突き出すとか、君にマイナスな事はしないと誓おう」
「……」
嘘を言っている雰囲気は……ない。
どちらにしても、此処に頼る相手もいないのだ。一度十重と話せば、この混乱する気持ちも落ち着くかもしれない。
「判った。ついてくよ」
「良かった」
十重は花が開くように笑って、先に立って歩き出す。
その背を追いながら、俺は何度か判らないため息を零した。
見渡せば見渡すほど深い深い森の中で、気が遠くなりそうな空気の濃さだ。
森林浴、と思えば、いい、のかなー。
余りにも許容範囲をオーバーした出来事が畳みかけてきて、俺は深く考えることを半ば放棄し始めていた。
俺みたいな森林初心者には全く同じにしか見えないが、十重たちは迷い無く進んでいく。
暫く歩いていると、木々の向こうに簡素だがしっかりした家が見えてくる。
「……あれか?」
「そうだよ~っ、十重と僕の2人で住んでるの」
ぽつりと漏らした呟きに、篤亜の返事が返った。
なかなかに広そうな家なのに、2人きりで住んでるのか……1人と1匹、ていうか。
「広いだけで何も無いんだけれどね―――どうぞ」
苦笑混じりに言って、十重が扉を開けてくれた。
「お邪魔しま……す」
広いだけ、と言ったけど、小綺麗で優しい内装だ。
何気なく置いてある机や椅子とかも、自然の木目調が生かされてて落ち着ける。
「お茶でも煎れてくるから、篤亜、客間に案内しておいてくれ」
「了解♪ ついて来て、こっちこっち!」
はたはたと尻尾を振りながら、篤亜が2階への階段を軽やかに登る。
その後を追って部屋に入った。
世界地図みたいなものが壁に掛けられていて、それに近付くと篤亜はちょいちょい、と走ってきた。
「それがこのセカイ、虹彩だよ」
「……虹彩」
「君達がセカイっていうみたいに、僕らは此処を虹彩って呼ぶの」
「へぇ……何で?」
「何でって聞かれてもな~……君達は何でセカイをセカイって呼ぶか判る?」
「ぇっ、と」
多分、世の中全部って意味だと思うけど……
何となく漠然とは判るけど、キチンとした説明は出来そうに無かった。
俺が無知なだけかな……?
「うん、そんな感じ。此処は虹彩」
「……そっか」
綺麗な名前だと思う。
虹のいろどり、か……
「あ、そう言えば何で篤亜たちは日本語話してるんだ?」
「別にニホンゴっていうのを話してるワケじゃないんだけど……えーと、えーとっ」
必死に言葉を探すような風に首を傾げる篤亜。
と、其処へお茶の入ったポットらしきものを持って十重が入ってきた。
「待たせて済まないね」
「いや……構わないよ」
真ん中に置いてあった机にお茶を準備してくれるので、大人しく椅子に座る。
カップに注がれたお茶は、オレンジみたいな爽やかな香りがした。
「さて、篤亜は何処まで私の仕事を取ったのかな?」
「取ってないもん、十重、直ぐに来ちゃうから」
「えっと……其処の地図が此処だっていうのと、世界を虹彩って呼んでる、っていうのを聞いた」
そう言うと、なるほど、と少し考え込む。
「君の名前を聞いても?」
「あ……ごめん、俺は祝詞弥栄」
「弥栄……いやさか、ますます栄える、か。良い名前だ」
そんな風に褒められると、少し気恥ずかしいな。
勿論俺はこの名前、好きだけど。
「まず、君が一番驚く違いから話そうかな」
「うっ、うん」
ごくり。
そんな前置きされると怖いんですけどっ。
「虹彩には女というものが存在しない」
「……は?」
何の冗談―――なんですか?
女が居なかったらどうやって子供作るんだよ。
「君達でいう男しか居ないんだ。―――私も、概念でしか知らない。異界には女というものが存在している、ってね」
「居ないって……じゃあ、子供は?」
「授胞殿という神殿に行くんだ。そこで、認められれば、子供が与えられる」
「与えられる……って? 誰が産むんだ? っていうか、認められるって、一体何に……」
「何に、だろうね。私にも分からない。ただ、この虹彩には説明のできない何かが存在していて、いろいろなところで私たちの生活を支えて下さっている。子供は、認められれば、揺り籠というものに宿り、決められた日数を経て、その二人の元に与えられるんだ」
「……ふぇ~……」
確かにそれなら、女の人が居なくても世界が滅びることはないのかもしれない。認められる、というのがいまいちよくわからないが。
「で、他に俺が驚きそうなことは?」
「精霊と魔属、かな」
「精霊って……火水風土ー、みたいな?」
「そう。他にも氷や雷、光、闇とか、種類はあるけれど。そして、それらから力を借りられるのが精霊師」
「……へぇ。魔法使いみたい」
何気なく言ったのだが、僅かに十重の顔が曇る。
何か失言だった、のだろうか?
「魔法、は、魔属が使うんだ」
「……魔属?」
「魔に属する者。残忍で冷酷。生ける全てに敵対する、命の敵」
「うわ……ごめん」
「いいよ、私も説明の途中だから」
そう言ってふわりと笑った。
つまり今オレは、知らないとは言え精霊師っていう職業を敵と同類に言ったのか……
失言、失言。
しっかり覚えとこう。
って、しっかり覚えてどうするんだ、俺!?
それより帰る方法の方が大事だろ!
「あ、あのさ……」
「うん?」
「俺―――帰れるのか?」
帰ったところで、もう向こうに俺の家族は居なくて、18年間で出来た人間関係も壊れ気味なんだけど。
それでも、全くの異世界に居ると恋しくなる。
恐る恐るの質問に、僅かな沈黙が落ちた。
「……結論なら、帰れる」
「ホントに!?」
帰れると聞いて、一気に明るくなる俺。我ながら現金だ。
しかし、テーブルを歩いて近付いてきた篤亜が、言いにくそうに続ける。
「帰れはするけど……あんまり積極的に帰りたがる人はいないよ」
「……な……んで?」
「時間の流れが違うんだって。こっちでは1年しか経ってないのに、30年経ってたりするの」
「……」
「具体的に虹彩の何年が君の世界の何年、とは決まっていないらしいけれどね」
説明を聞いて、俺は大きく息を吸い込んだ。
帰っても、もう俺の居場所はないかも知れない―――そう考えると、尚更ひとりぼっちな気がする。
……寂しい。
「……じゃあさ、今すぐ帰る、とかは?」
「すぐには帰れないんだ……残念だけれど」




