第1話 お命狙われました!
まさか平々凡々な名もなき町人である自分が、首元に剣を当てられるなんて由々しき事態に遭遇するなんて、ついさっきまで予想だにしていなかった。
「……動かない方がいい。少しでも動くと命はないぞ」
ヴィクトリアへと剣を向けている者は、静かな声でそう言って、わずかに目を細めた。
ここはチュリシェ町からしばらく歩いたところにある森の中だった。鬱蒼と木々が生い茂り、昼なお暗い森であることから町の人々からは『シーズの黒き森』と呼ばれている。
森はじめじめと湿度が高く、ところどころに底なし沼があり、特に月のない夜に知らずに迷い込むと命がない、と言われている。
ヴィクトリアは森の主道から少し外れたところにあるスミレが咲き誇る広場の、中心にある大きな木の幹を背にして座り込んでいた。
そして、何者かがヴィクトリアの前に立ち、剣を突き立てているというわけだ。彼……たぶん声と体格からして彼で間違いないとは思うが、全身黒ずくめの格好をしていて、頭から首にかけては黒い布を巻いて顔を隠していた。
その布の隙間から覗いた瞳は怜悧なもので、人を殺すことになど少しの躊躇いもない、そんなふうに感じられた。
「あのぅ……」
ヴィクトリアは男のアイスブルーの瞳を見つめながら、おずおずと言う。
「どうやらあなたは私の命を奪おうとしているようですが」
「……そうだな」
やっぱりそうだったのだな、と苦しい思いになる。
もしかして人さらいかなと思ったが、それならば背後から襲って麻袋の中にでも詰め込んで封をして、馬車にでも転がして運んでいけばいい話だ。
最近、若い娘が狙われるそのような事件があったと聞いていたが、そうではなかった。
しかし、わざわざこんな場所までヴィクトリアを付けてきて、殺そうとしているのか分からなかった。
そう、町を出たときから背後になんとなく気配があるな、とは思っていたのだ。
ヴィクトリアは宿屋の主人に頼まれて、森の中まで野草を取りに来たのだった。特別な染め物に使う野草で、宿屋のお客が欲しがっているとのことだった。
背後が気になったが、きっとたまたま行く方向が同じである人がいるだけではと思ったし、もし自分を付けてきたのだとしたら『もしかして人気がなくなったところで飛び出して来て、告白でもされるのかも、きゃぴ★』くらい思っていた。その頃の呑気な自分を殴り飛ばしたい。
そうして森の入り口に来たときにはその気配は感じなくなっていたし、気のせいだと思ってそのままずんずん森の奥まで歩いてきたのだ。
「どうして私を? 見てのとおり名もないただのやせっぽっちの娘で、宿屋で下働きをしている身寄りのない者です。私を殺した後にお金を奪おうとしているのならそんな持ち合わせはないですし、金目のものも持っていません」
助けを求めようにもこんな場所を通りかかる人などいない。目の前の男も、それが分かってこの場所でヴィクトリアに襲いかかって来たのだろう。
もし殺されるにしても、どうして殺されなければならないのか理由が知りたい。
「別に金目当てではない」
「じゃ、じゃあもしかして私の身体目当て? いやぁぁ、なんて破廉恥な!」
「ねぇよ。てめえ、自分のツラを鏡で見たことがあるのか? しかもそんなガリガリの身体で……」
「あら、薄々分かってはいたけれどあんまりな言いようじゃない? それにしても金でも身体でもないとしたら、一体なに? 頭脳? 私の軍師としての才能を見抜いて……」
「お前、軍師なんてやっていたことあるのか?」
「そういう経験があっても悪くないと思わない?」
小悪魔のごとく肩をすくめていたずらっぽくそう言うと、男にチッと舌打ちをされた。
「……。そうだな、なにも知らずに殺されるのも納得がいかないだろう」
彼はヴィクトリアの気持ちを汲んでくれたらしい。剣をヴィクトリアに向けたまま語り始めた。
「お前には身寄りがないようだが」
「ええ、そうね。母親は私が八歳のときに流行病で死んだわ。あっけなかったわね。それから身寄りのない私はこのまま街角で物乞いとして暮らしていかなければならないかと危惧したのだけれど、幸いなことに宿屋の主人が哀れと思って私を下働きとして雇ってくれたわ。夢は商船を持っているお金持ちの男性と結婚して、惨めな貧乏暮らしから脱却して世界中船旅をして回ることよ」
夢を言ったのは、もしかしてそんな夢見る娘を殺すなんてできない、と思い直してくれるかなと期待してのことだったのだが、
「そうか」
男は興味なさそうに鼻を鳴らした。
「その身寄りというのが問題だ」
「……なに? もしかして私の父親が実は大金持ちで今更になって私を引き取りたいとか言っているだとか?」
そんな夢みたいなこと、と今度はヴィクトリアが鼻を鳴らした。
母はヴィクトリアの父についてほとんどなにも語らなかった。
だから、どんな人だろうとあれこれと考えるのは普通のことだろう。大金持ちの商人で、他に本妻が居て、母を妻にできなかったのだろうだとか、どこかの国の騎士で、使命があるために置いて任地に赴いてしまったのだろうか、だとか。
幼い頃はそんなことを夢見たものだったが、よくよく考えたらどんな金持ちの男でも身分ある騎士でも、身重の母を捨てた男がろくな奴であるはずがない。
「まあ、そんなところだ」
「え? そんなところなの?」
「そうして、そうなると都合が悪い人物がいるということだ。分かったな、それじゃあ」
そう言って男はヴィクトリアが動けないように首に当てていた剣を自分の方へと引き、そしてその剣を振り上げた。