2-2 未来永劫
「リイはさあ……」
僕には、投げようとしては引っ込めてを繰り返し、ずっと抱えたままの質問がある。
大した内容ではない。
そう分かっているのに、なぜか躊躇われて今日まで来てしまった。
「なあに?」
話題が変わってほっとした顔を隠しもせず、リイは嬉しそうに僕を見た。
きつく編み込まれた黒髪には天使の輪っかが浮かんでいる。
――こんな街でさえなかったら。
神の愛し子と誉めそやされて、教会や貴族連中からさぞかし大事にされたことだろう。
神の教えより土着信仰が勝るロンバルトには、「魔王の花嫁」以外の選択肢がない。
可哀想で残念なこの結末を、リイ本人はどう思っているのだろうか。
「あのさ……」
「どうしたの?」
死を望まれたことは、多分、さほど大きな衝撃ではないのだ。
先日の様子では、誰もが恐れる死の宣告を淡々と受け入れていた。死にたくないなんて、土壇場になっても言ってくれそうにはなかった。
「……いや、やっぱり止めとくよ」
その先のたった一言が出ない。
僕を引き止める、僕の中の何か。その腕を簡単に振り払ってはいけないように思えて、いつまでたっても最後の一歩が踏み出せずにいた。
――無理に聞かなくても……いいか。
取り敢えず僕は、今、僕たちの間に流れる気まずい沈黙を何とかしなければ。
けれど、安易に笑って誤魔化そうとしたせいか、全くと言って良いほどリイは納得しなかった。
「言いかけて止めるなんてらしくないわね。怒ったりしないから言ってみて?」
「リイを怒らせたことなんてあったかな?」
「ほら、その調子よ」
――本当だよ、こんな小娘を恐れるなんて僕らしくない。
そうこうしている間にも刻限は迫る。
リイを連れ去る足音が聞こえた気がして、ぶるりと震えが走った。
――なんだ、この感覚は?
次に、得体の知れない冷気が足元から這い上がった。
何を撒き散らしてくれたのか、慣れ親しんだ体が地の底から引っ張られるように重くて怠い。
ひどく重量感のある黒い塊が、僕を飲み込もうとしている。
――これこそ深く考えちゃ駄目なやつだ!
正体を突き止めようと動き出す頭を、言い淀んだ質問の続きへと強制的に切り替えた。
「「魔王の花嫁」になる前に、この街を出ようとは思わないの?」
だって「魔王の花嫁」なんだよと、ことさらにキーワードを強調して。
「この街を?」
僕は、『春の歌』一曲分、固唾を飲んで答えを待った。
見つめる先で、微笑みの形のまま時を止めたリイの、優しい口元がじわりと歪む。
じわりと、せせら笑うように。
「……連れて行ける場所なんてある?」
吐き出されたのは、僕の知らないリイの声。
雑音混じりの不協和音。
丘を埋め尽くす草花までもが息を止めて見守る中、二人の間を生温い風が通り抜けた。
一瞬の幻に覗いた闇は、押し流されてもなお僕の爪先を染めようとする。
だから僕も、ほんの少しだけ真実を教えた。
「……できるよ、僕なら」
こんな姿形をしていても僕は旅人で、戻る場所がないわけでもない。本当は、リイ一人くらいどうとでもなった。
でもリイには、僕が絶対に動かないという確信がある。リイ自身、僕に対して何も期待していない。
そんな状況で。
動かないのは、動いたところで意味がないからだ。
僕と一緒に逃げ出した後、リイはありのままの音を紡げるだろうか。いかな僕でも心の中までは守れない。
リイの音楽をこよなく愛する僕には、どちらの結末も同じように思えた。
見殺しにするのは、ただそれだけの理由なのだ。
「それは、いいの。心配してくれてありがとう」
お決まりの台詞で終わらされても、強く出られない僕は口を噤む。
リイが浮かべる仮面のような微笑みを、見ていることしかできなかった。
小さな後ろ姿が春爛漫の草原に消える。
この後はいつものレッスンだよと、リュートを抱いて誘ってくれたのに、つまらない僕はつまらない理由を付けて断ってしまった。
しかも、取り残されて緩んだ体は、そんな必要もないのにわざわざ深い溜め息をつく。
どすんと大地に身を投げれば、下敷きにされた白い花々から悲鳴が上がった。
鼻孔を掠めた草いきれの香りで、かりかりした気持ちが僅かに慰められる。
――僕ともあろう者が。
混乱、不安、焦燥。
言葉を当てはめるならその辺りが妥当だろうか。
初めて湧いた不思議な感覚は、切迫感こそ消えたものの、ぼんやりとした輪郭が体の奥でくすぶっている。
最近のリイは、家事や店の手伝いから解放されて、自分の時間を好きなだけ好きなように使っている。
人生を謳歌せよ。
死を突きつけておきながら、罪悪感から逃れるための叔父の差配だ。
そんなことでは許されないと、怒ったのはやはり僕だけ。ひたすらにリュートを奏でるリイは、既に、有象無象を超越したところにいた。
音楽は、神を慰め魔を鎮めるためのもの。
――それならなぜ、お前は、救いの手を差し伸べない?
寝転んだまま、水色の空に問いかけた。
愛し子が絶える瞬間を傍観していられるその神経が、僕には本当に理解できない。
――未来永劫、理解なんてできない。