1-2 報われない努力
それから僕は、丸二晩かけて「魔王の花嫁」に関する人の記憶や書物の記述を漁った。
当の本人でありながらリイが持つ情報量は少なすぎるし、リイの好みそうな内容に偏っている。
伝えたのはあの叔父だ。
これはもう碌でもない裏があるに決まっていて、リイ個人に特別な思い入れがない僕でも見過ごすことはできなかった。
惨憺たる有り様の僕は、店の隅っこのテーブルに突っ伏し、まぶたの隙間から小さなステージを眺めている。
丁度、僅か数小節だけ、リイがさらりと弾いてみせたところだ。
そのリイは、教え子にリュートを返しながら、馴染みの客がぱらぱらと送る拍手にふわりと笑顔を返した。
オーバーワークでへとへとになった僕の気も知らずに。
ここは、領主館にも程近い裏通りにある居酒屋である。
古くてこじんまりした店は昼間から営業しており、安くて美味い定食を求める客でいつも賑わっている。
店主夫妻とリイの亡き祖父は旧知の仲だ。その縁でリイも親しくしていたが、亭主の方は昨年亡くなり、今は女将が一人で切り盛りしていた。
叔父に虐げられた十歳のリイ。
両親の形見を叔父の魔手から守るため、あの一年間、リイはこの店にリュートを預けていた。
暗黒の一年が過ぎて、恩を感じたリイは店でリュートを弾いた。
それが思わぬ反響を呼んだ。
リュートはただでさえ耳にする機会の少ない楽器だ。その上、奏者は愛らしい女の子。腕の方も上々。
こんな店にリュートの音は似合わないと遠慮していた店主夫妻は、どんどん増える客足に驚いた。
そのうち、夜にも聴きたいという声が集まったのだが、如何せんリイは大店の孫娘、昼下がりの僅かな時間しか店に出られない。
困った店主夫妻は、とうとう親戚の娘を連れてきた。音楽に明るい娘にリュートを習わせようと考えたのだ。
――あの娘も聴ける程度にはなったけど……まあ、リイとは比べるまでもないか。
僕は、真剣に右手の指先を見つめる娘からリイに視線を戻した。
同じように真剣ではあるものの、目元はほんのりとほころんでいる。
音楽が好きで、音楽を愛する人が好きだと、真っ直ぐ口にするリイの顔は今もあどけない。
何の楽器でも一日休めば取り戻すのに三日かかると言うが、それが一年だ。
リイは、とても努力した。
昔のように弾けるまで、基礎学校と家事の合間、限られた自由時間を全てつぎ込んで弾き続けた。
叔父の振る舞いを責めず、我が身を憐れまず、強いられた努力を惜しまず。常に笑顔を忘れない少女はそうやって大人になった。
「指はそのうち動くようになるから心配しないで。それよりフレーズを歌ってみて。雪が溶けて春が来るのよ、楽しみじゃない?」
暗い葬送曲ばかり響いていたこの街も、時と共に多少は雰囲気が変わった。
リイが教えているのは、丘の上でしか弾けなかった『春の歌』だ。
指はそのうち動くと、言葉どおり今では難なく弾けるようになったその曲の、主題のワンフレーズをリイが歌う。
リイは、歌声までも伸びやかだ。
その良さを認める度量が、最北の地にも備わりつつある。
客のほとんどが食事の手を止め、練習風景に見入っていた。
公開レッスンを提案したのはリイだ。ついでに、屋敷の倉庫から楽器を持ち出して、古いけれど使えるからどうぞと与えたのもリイ。
人前で弾くことが目的なら最初から人前で練習すべきという理屈は、初心者にはハードルの高い理想論だと思うが、その甲斐あって成長を見守る客の目は優しい。
客を味方に付けた娘は、これからもやっていけるだろう。
「やっぱり楽譜があった方が……」
「何度も言うけど、リュートの楽譜は見にくいのよ。最終的には暗譜するんだし、体で覚えた方が絶対に早いから。それに、歌えなきゃ弾けないもの。ね?」
指が動けば良いというものではないと、やんわり諭すリイは結構なスパルタ教師だ。
上手いと素敵は違う。
根底にあるのは、いつか聞いたその言葉なのだろう。
――でもね、リイ。誰でも自分と同じことができると思うのは、ちょっと傲慢だね。
音楽への興味だけを残して欲を捨て去ったリイは、時折、人の常識から外れてしまうことがある。
教え子の眼差しは暗い。
あなたとは違うと、一緒にしてくれるなと言っている。
そのことに、リイは気付かない。
「春になると何が楽しみ? お花を摘んで、花冠を作ったりしなかった?」
あの曲を弾く時、リイはいつも丘の上の景色を思い浮かべるそうだ。
そこまでの域に達していない娘にしてみれば、次の音符を頭に並べるだけで精一杯だろう。
リイには分からない妬みや苦悩が、リイとその他大勢の間に亀裂を作る。
「ほらほら、今日はもうおしまいだよ。リエナは? 今夜の晩飯はあるのかい?」
微妙な空気を察知したのか、二人の間に女将が割って入った。
いつもながら見事なタイミングである。
さすがは客商売、さすがは年の功。
真意を隠す笑顔が恐ろしく自然だから、庇われたことにさえリイは気付かないのだ。
「残り物で良ければ何か持ってお帰りよ」
「いつもすみません……」
屋敷に帰れば満足に食事も与えられないリイは、恥ずかしそうに女将の好意に甘えた。
その瞬間、リュートを手に立ち上がった娘が顔を伏せる。
仄暗い嗤いを、僕は見逃さない。
だからどうするわけでもないが、少なくともこの娘にリイを越える演奏はできないと確信する。
リイは、心根までも美しい。