ラクガキノートのスケッチ
♢ 一
気が付くと勇者は或る海岸で倒れていました。
その海はルビーの様に赤くラピスラズリの様な夜空には野原が浮かんでいます。
「やっと会えたね」
懐かしい声の方を見ると、すぐ傍にタマゴの姿が在りました。
勇者は何も言わずに友を強く抱き寄せました。
「やっとボクは思い出したんだよ、ここがボクの居た場所なんだ」
耳元でタマゴが優しくそう言うと、勇者はやっと辺りを見渡しました。
「ここは、何処なんだい?」
「ここは、此処でも在り、其処でも在り、何処でも在るんだよ」
勇者は友の言っている意味がよく解りませんでした。
それでも、何処かに在る此処はとても居心地がよく感じました。
「そうだ、君に会わせたい方が居るんだ」
タマゴはそう言ってコロコロと、海とは反対のチカチカと様々に色を変える林の方へと転がって行きました。
勇者がその歩みに合わせて林の中を歩くと、その途中に泉が在りました。
その水は泡立ち細かな霧となり光を屈折させ七色に輝いています。
そうして暫く歩くと、ぽっかりと開けた草地に扉の無い小屋が在りました。
タマゴはそのまま扉のない玄関を通って小屋の中に入って行きました。勇者もその小屋に近づくと、壁には『ハレとケ観察所』と書かれた立て札が掛かっていました。
中に入ってみると、観察所とは名ばかりの古びたアトリエの様でした。
辺りには何かの画材道具の様な物が、散らばっては消えて、散らばっては消えてを繰り返しています。
「この方が会わせたかった、ラクガキ観察官さんだよ」
タマゴがそう言って初めて、勇者はそこに誰かが居る事に気が付きました。
明かりの無い小屋の中で窓の外から射し込んだ月の光だけが、ラクガキ観察官と呼ばれる彼を照らしています。
彼は窓の傍で木製の椅子に腰掛けながら、スケッチブックを抱えて何かの絵を描いていました。
しかし、その絵は描いたそばから真っ白に消えて、また描かれては消えて、を繰り返していました。
「彼は何を描いているのだろう」
「彼はボク達の絵を描いているんだよ」
♢ ニ
ボク達という存在に意味は無い。存在とは、ただの現象だから。
存在という現象に意味は無い。現象とは理由はあっても意味は無いから。
無意味で無価値なボク達は不可逆に色褪せていく。
出会いと別れ、生まれては死んでを繰り返す。
それでもボクは君と出会えた事が幸せに感じるんだよ。
君もそう思うでしょ?
「君は永遠になったらボクの事を忘れてしまうかい?」
「忘れるものか。僕達は永遠に大切な友達だ」
そう言って勇者はタマゴを優しく抱きかかえました。
「彼の絵の中の僕達は幸せかな?素敵な絵になっていると良いけど」
「素敵な絵になるかどうかは、ボク達次第さ」
勇者達は小屋を後にしました。そして外に出ると、夜空には七色を宿したダイヤモンドの様な巨大な彗星が在りました。
「やっとここが何処なのか解ったぞ。ここは僕の心の中なんだね」
「そうだよ。外在でもあり内在でもあるここは、君の心が生み出した心象風景なんだ」
勇者はやっと、どうして自分の絵が実際にそこには無い物を描くのかを知りました。
勇者の絵は、心で見て感じた物を絵に描く心象スケッチだったのです。
何処かで誰かが描いた心象スケッチは、何処かの誰かを幸せにしました。
そして、モノクロームな原始と終末に色を与えて出会いを大切にしてしまうのでした。
「僕達は別れなければいけないのかい?僕は君とずっと一緒に居たいのに」
「大切な出会いは別れを辛くするけれど、ボク達はきっとまた何処かで出会えるよ」
どれぐらい時間が経ったのか、勇者達はまた海岸の辺りまで戻っていました。ルビーの様なその海は知らん顔で波を寄せては返しています。
その時、大地が鳴いて大きく揺れました。
「もうお別れみたいだね」
「僕は君と出会えた事を忘れないから」
喜びや悲しみに彩られた大切な記憶は色褪せていきます。
それでも風は吹きました。
出会いは何者でもない勇者を大切にしました。
大切は海や空や友を本当の宝物の様にして存在を慈愛で満たしました。
「君は僕だったんだね」
「そうだよ。だからボクを大切にしてね」
そうして勇者達は砂浜に絵を描いて遊びました。
その時、海の向こうから空まで届く程巨大な津波がやって来ました。
その津波は大切な皆を飲み込んでいきました。
大切な空も、大切な大地も、大切な誰かも、全てが溶けていきました。
全てが溶け合ったその時、終末は原始と出会いました。
♢ 三
勇者は緩やかな風に波打つ草花の海の中で目を覚ましました。
夜空には遮る雲一つない満月が浮かんでいました。
「僕は夢を見ていたのだろうか」
そこはモラル川の近くの草花が広がる小さな平地でした。
勇者は身体を起こすと、すぐ傍のスケッチブックに気が付きました。
夢現でスケッチブックを開くと、中には薄紫色の花冠を被ったタマゴの絵が描かれていました。
勇者は嬉しくて堪らなくなって、スケッチブックと色鉛筆の入った筆箱を持って街の方へと駆け出しました。
そうして勇者はその夜、街で皆と一緒にラクガキファイトを観戦しました。
その時、夜空に浮かぶ星々が瞬いてキラキラと皆に笑いかけました。