死の魔法
♢ 一
もう真上に在るはずの太陽は気怠い雲に覆われすっかり見えなくなっています。
その頃、集落では勇者の力で生みだした紙と鉛筆を使い皆でスケッチをして遊んでいました。
「なぁ蛙よ、僕は本当にこんなに凛々しい目をしているのかい?」
「はい勇者様。貴方の目はそれはもう凛然と輝いております」
「なぁ兎よ、僕は本当にこんなに艶の有る髪をしているのかい?」
「はい勇者様。貴方の髪は絹の様に美しい髪をしております」
「なぁ猿よ、僕は本当にこんなに長い足をしているのかい?」
「はい勇者様。貴方の足はスラッと美しく、それでいて頑丈な足をしております」
集落のラクガキ達は皆でこぞって勇者を絵のモチーフにしていました
しかし勇者は皆が自分を喜ばそうと描いた絵があまり好きになれませんでした。
「どうだろう、もっと自由に好きなように描いてみると良いんじゃないかな」
「うーむ、どうもワシらには少し難しいのかもしれません。もし宜しければ、勇者様の素敵な絵で手本を見せてはもらえませんか?」
蛙の願いを聞いて、勇者は得意気に真っ白な紙に鉛筆を持った手を伸ばしました。
「……あれ?」
しかし、その手はピクリとも動きませんでした。
勇者は自分が何の絵を描きたいのか、どんな風に描いたら良いのか、すっかり思い出せなくなっていました。
「すまない。また今度にしてくれ」
そう言って勇者は一人で昨晩建てた自分の家へと戻っていきました。
二階建ての石造りの家の玄関の扉を開けて、朝に皆がこしらえてくれた芋粥を火にかけながら勇者は寂寥感を抱いていました。
「皆が僕を崇めてくれる。皆が僕の絵を褒めてくれる。なのにどうして僕の心は満たされないのだろう」
温かくなった芋粥を木皿に移して、ズズズッと口にしました。
その時勇者は何処かへ居なくなった友の事を思い出していました。
♢ ニ
「おや、眠ってしまったのか」
辺りが暗くなった頃、勇者はひんやりと静まり返った居間で目を覚ましました。
「何だか、また独りぼっちになってしまったな」
始めから孤独に慣れていたはずの勇者は、友を失ってから味わう孤独の方が辛く感じました。しかし、だからといって集落の皆と会う気にもなれませんでした。
玄関を開けて外に出ると夜風が勇者を冷たく撫でました。
勇者は寂しくなって、夜空を見上げるとハッとしました。その空には、キラキラと満天に星々が浮かんでいたのです。
そして勇者は涙を流しました。
「どうして、何も感じないのだろう」
勇者はどんな時でも自分の心の拠り所であったはずの月や星々を何とも思わなくなっていたのです。もう何もかもが嫌になって、勇者は金色の酒が湧く井戸へ駆け出しました。
しかし井戸に着いて中を覗くと、もうそこには無色透明な水しか在りませんでした。
「……ああっ、ああっ」
満月の様に丸い水面に映る勇者の像を月光が照らしました。
ユラユラと揺れるその勇者は、すっかり色褪せていたのです。
もう堪らなくなって、勇者は森の方へと駆け出しました。月明りが落とした影が、色褪せた勇者との境界を曖昧にしています。
「おや、勇者様。そんなに急いでどうされたのですか」
その声で我に返ると、夜鷹が寝床にしている落葉松のところまで来ていました。
「嗚呼夜鷹よ、僕の友は一体何処へ行ってしまったのだろう。彼が居ない間に僕の心と体はすっかり色褪せてしまった……」
そう言って涙を流す勇者を見て、夜鷹も哀しくなって嘴を開きました。
「やはり、常世の存在である貴方が現世に生きるという事が、どういう事なのかご存知でなかったのですね」
勇者はカラカラに乾いた喉を懸命に使って言いました。
「夜鷹よ、現世に生きるとは、どういう事なんだい?」
「死があるという事です」
「死があるとはどういう事だい?」
「終りがあるという事。永遠ではないという事です」
「そうすると、死んだら何もかも終わってしまうのかい?」
「いいえ。確かに、自分という存在は不在になってしまいます。しかしその心は、残された思い出や物や作品に宿って誰かの心の中に在り続けるのです」
「夜鷹よありがとう、よく解ったよ。それでも何故だろう、僕は死ぬのがとても怖いんだ」
「死に恐怖を感じるのは皆同じです。しかし、客人の貴方はこのまま私達と共に褪せて死ぬ必要はないのです。きっと何処かに帰る道が在るはずです」
そうして現世の時の中で褪せていく勇者達の上で、月や星々はキラキラとただそこで笑っているのでした。
「何処にその道は在るのだろう」
そして普段よりも遠くまで続いて見える森の小道の先に、ぼんやりと五輪塔が在りました。
闇の中にぼんやりと浮かぶそれを、勇者は幻燈の様に感じました。
「本当にその何処かは在るのだろうか」
「貴方はその何処か遠い海の彼方からいらっしゃったのです」
そう言って、夜鷹はゆっくりと森の向うを眺めました。
そして勇者がいくら待ってみても、夜鷹の眼差しはずっと森の向うのままです。
一緒に来てほしい想いをこらえて勇者は、その五輪塔の先に在る海へ向かって一人で小道を歩き始めました。
五輪塔の傍を通り過ぎる頃、後ろから夜鷹の鳴き声が聞こえた気がしました。
♢ 三
どうして死んでしまうのだろう。ずっと皆と一緒に居たいのに。
どうして皆争うのだろう。傷つけたあの人は誰かの大切な人なのに。
虚しく褪せる時の中で、僕達は与えもせず多くを求め過ぎた。
死ぬ事を見て見ぬ振りしている間に大切な事を忘れていたんだ。
もっと君を大切にしてやれば良かった。
もっと僕を大切にしてやれば良かった。
勇者は目前に広がる海に向かって虹色の鉛筆を振りました。
すると、その浅瀬に一艘の舟が現れました。
その舟に乗り込みながら、勇者は虹色の鉛筆がすっかり色褪せてしまった事に気が付きました。
「さて、この舟は何処まで行けるのかな」
櫓を漕ぎ始めると、青くて冷たい夜風が吹きました。
勇者はその風を何だか心地よく感じていました。
何処までも続く夜の海は、月や星を映して空との境界を曖昧にしています。
怖い様な優しい様な、冷たい様な温かい様な、不思議な感覚を抱きながら何処かに向かって舟を進めました。
どれだけ進んだのか、それとも戻っているのか、勇者は自分が今何処に居るのかも判らなくなったその時、巨大な渦が現れました。
その渦は全ての禍を集めているようでした。
「ここが僕の終わりなんだね。苦しいのかな、とっても怖いな」
勇者はその渦の流れに身を任せて、海に飲み込まれていきました。
たくさんの水を飲み込んで、たくさんの苦しみを味わいました。
苦しみも過ぎて、薄れていく意識の中で目を開けると渦も無くなって穏やかな海面がチラチラと月や星の明かりを吸って勇者や海の底を照らしていました。
「嗚呼そうだ、最後に皆に美味しい物を食べさせてあげればよかったなぁ」
月や星が浮かぶ空を海が幻燈の様にしました。
勇者はその夜空の海に静かに溶けていきました。