初夏に踏み出す。
これは決して、愚痴ではない。
四十半ばにもなると、めったなことでは褒められない。
仕事でも家庭でもピカピカの十数年生。
もう「受け取る側」ではなくて「与える側」の世代になったのだ。
などと諭されてもこれっぽっちも嬉しくなんてない! とだけは断言できる。
貰えるものは何でもほしい。
特にそれが自己への賞賛であったりすると、なおさら嬉しい。
お前は子供か! と言われれば返す言葉もないが。
さすがにこの歳になって、あからさまに否定されることは少なくなった。
しかし、否定されないまでも「よくできた」なんて言われることがめっきり減った。
未明の街でそんなことをひし感じながら、ふらりふらり家路をたどる。
「褒めてほしいの? 本当にそれだけ?」
青さを残しつつ、しっとりとした女性の声がささやく。
やや低めでハスキーなのが、また、蠱惑的でもある。
誰だ?
なんて野暮なことは言わないでおこう。
声の主を探したところで、誰もいはしないのだから。
「あなたは自慢したいだけなんでしょ?」
決してなじる風ではない、静かで確信に満ちた声。
導かれるままに答える。
「そうだ、その通り。けれど成功とか出世とかそういった類のものじゃ、ない」
大々的に認めてほしいのではなくて、もっと単純な、そう、言うなれば……
吐き出す声はいまだ静かな寝息を立てている住宅街に吸い込まれる。
「ただ君の心のどこかに俺がいるのなら、それでいい」
たった一時だけでいい。ちっぽけな染みでいい。
願うのは、ただそれだけなんだ。
午前四時。星の少ない夜空だった。
春の初め、あれほど可憐に舞った「彼女」もすでに葉桜となり、暗がりに混じり込んでいる。
サワサワサワサワ
柔らかな衣擦れが未明の風に残る硬さを打ち消し、マンションの壁に初夏を運ぶ。
「それがあなたの言う、生きている証し、なのね」
その声はしとやかに、そして、低くかすれたままに紡がれた。
身体の真ん中を通り抜け中空に消え行く残響を、追いかけるようにして空を見上げた。
星の少ない夜空だった。
けれども胸の内にかすかな瞬きを感じた。
これまでと、これからと。
生きた証しを、生きる灯しに。
私は、いや、僕は、いや、俺は、
この光を胸にまだ戦える、と。
空気は再び静まりかえる。
俺は君のことを決して忘れはしない。
踏み出した靴底に、
痛んで傷ついた、桜の花びらよ--