スキルスタート
「むぅごぁああぁあぁぁぁ。」
それは、人の声帯から発せられた音の様には思えなかった。声や叫びというよりは、音と表現が近い音。上手く説明できないが、そう感じた。しかし、生きているように炎は動き回り、苦しむかのようにのたうち回る。
その正体を知るために俊一は近づく必要なんてなかった。なぜなら、
「ひひゃひゃひゃひゃ。こりゃーいい。ヒトの丸焼きの完成だぜ!」
誰もいないと勘違いしている人影が、教えてくれたのだから。
低く酒焼けしたしゃがれた声で高々と天を仰いでいる。
目の前で燃えている炎の燃料は人間。その明かりにつられて俊一は走っていた。そう思った瞬間、俊一の胃袋がひっくり返るような感覚に襲われる。中のものが食堂を通り、全てを押し返す。幸い、胃袋の中に食べ物は入っていなかったようだが、少量の胃液を俊一はその場に吐き出してしまう。
「おぇぇええぇ。」
ピチャ。
その場に漂っている焦げ臭いにおいが人間の肉が焼いたものだと想像して、目の前の動く炎を前に吐き気をも要さない人間は、恐らく正常じゃないだろう。そう考えると俊一は十分に正常な人間の反応が出来たといえるだろう。しかし、この場においては異常でも何でも物音を立てない方がよかったと思えるだろう。
「ああ“ぁ。」
静かな深夜の路地裏。物音を立てるのは、炎が燃え上がる音としゃがれた笑い声だけの世界に、水分を持つモノが地面に落ちる音は遺物すぎる。
その音に反応した男が、俊一の方向に目線を飛ばす。
目が合う。
直ぐに頭を引っ込めることが出来れば、そんなことは無かったのだろうか? いや、そんなことは無いだろう。音とほぼ同時に振り向いた彼が俊一を発見できない可能性は、皆無だったのかもしれない。
逆光の中でも男の顔が歪んでいくのがよくわかる。その表情は、殺人を見られたことに対する恐怖や絶望ではない。新しいおもちゃを貰った時のような笑顔を、しかし、狂ったように引きあがる笑顔がそこにあるのがよくわかった。
「なんだ、まだいたのか。どおりで震えが止まらないわけだ。」
そう言いながらこちらを振り向く男の顔は、暗がりの中の唯一の光源を背にしている影響で俊一からは男の顔を認識することは出来ないが、男からは半分突き出した俊一の頭がよく見えていることだろう。
ヤバい。
そう感じたときにすぐに逃げることが出来るのは、漫画の主人公やホラー映画で真っ先に死ぬ人間くらいなものだろう。もしくは、何かしらの訓練を積んでいなければ頭の理解が追い付かない状況に陥った時、瞬時に行動に移せる者はごく僅かであると思う。
俊一は、どちらかといえば、後者。訓練を積んでいた者なのだろう。若くして俊一を生んだ働き盛りの両親は、俊一の幼少期の世話を元自衛官の母型の祖父に任せていた。ずっと息子が欲しかった祖父は喜んでその役を買い。俊一の少年時代は、一般的な者とは少し異なっていた。
といっても、特殊な訓練と積んだわけでは無い。毎朝の走り込みに、少々の格闘術を学んだくらいで、その点では一般的であるのかもしれない。
反射的に危機を感じ取った俊一は、未だにこみ上ってくる吐き気を耐えながら一心不乱に走り出した。足音など気にしていられない。一分1メートルでも遠くに逃げる必要があった。
幸いというべきか、未だに続いている走り込みのお陰で、吐いた直後でも体力は持ってくれそうだ。一方、お酒やたばこをあの男が吸ってかどうかは不明だが、明かに俊一の走力に男はついて来れていないようで、数回曲がり角を曲がると男の足音も聞こええなくなってきた。
しかし、一向に左との震えは止まる気配を見せない。まるでバイブレーションの止まらない携帯を手に括り付けているように、異常に規則正しい震えが俊一の左手には残っていた。
だから少し焦っていたのかもしれない。生きたまま人間を焼いていた光景、その匂い、狂った笑い声がまだ耳に残っている。止まらない左手の震えのことを考えると、格闘術をいくら学んだところで一般的な恐怖というものはなくならないのだろう。
足音が聞こえなくなっても俊一の速度は落ちることが無く曲がり角に差し掛かった時、
ドン。
腹部と胸部に衝撃が走る。走り続けていた俊一の足は止まり、崩れた体をアスファルトにぶつける。
なにかとぶつかった。それは壁ではなく、俊一とさして硬度の変わらない人間であることに俊一が気付いたときには、最悪の想像が頭をよぎった。
曲がり角の向こう側から足音が聞こえてくる。何かに追われているのか、こちらを追ってきているのか、こんな早朝から仕事に遅刻しそうなのかは不明だが、左手に走る震えから察するに、同類の誰かがこちらに近づいてきていることは確かだろう。
「イッツゥ・・・・。」
しかし、逃走中に足を捻ってしまい、痛みで目の前の曲がり角から足音が聞こえているのだとは理解できない。こちらに気付かない事を祈りながらゆっくりと右足を庇いながらゆっくりと歩く。
壁に手をつきながら壁伝いに歩いていた者に、勢いよく曲って来た男性が衝突する。
「キャッ。」
思わず口から悲鳴が漏れてしまう。
そんな状況ではない事は頭で理解しても、無意識は未だに日常を忘れられないようだ。
ああ、終わった。
そんな言葉が頭をよぎる。目の前の光景を確認しようとも思わない。出会い頭に衝突したとはいえ、こちらは足を怪我しているので、直ぐには起き上がることは出来ない。体制を立て直すことも難しいし、もう戦うだけの気力は残っていない。
「すみません。大丈夫ですか?」
そんな予想に反して、聞こえて来たのは少年のこちらを心配する柔らかい声と、差し伸べられた右手だった。
左手に感じる震えから、まだ近くに同類がいることは確かなのかもしれないが、彼に頼めば逃げることも可能かもしれない。
「あ、ありがとう。」
恐らく年上。二十歳くらいに見えるが、差し伸べられた彼の右手を握る。しかし、挫いてしまった右足に力が入らない。立つことは難しいかもしれない。やはり、この少年に助力を乞う必要があるかもしれない。しかし、普通に助けてほしいと言ったとして、果たして状況が飲み込める一般人が何人いるだろうか。そんなのこと考える余裕もないまま。
「た、助けてください。」
切に願う。
走り続けていた俊一が衝突したのは、幸いにも硬い壁でもなく、あの男でもなかった。バランスを崩して倒れた修一は、すぐさま状況を確認するために視線だけは起きあげる。そこには、同年代と思われる一人の少女が倒れこんでいた。俊一とぶつかった時の衝撃が激しかったのか、その顔は険しく歪んでいた。
「すみません。大丈夫ですか?」
反射的に謝りながら起き上がり、俊一は右手を差し出す。
「あ、ありがとう。」
右手を受け取った少女は立ち上がろうとするが、ケガをしてしまったようで立ち上がることは出来ない。それに、俊一の握っている彼女の左手もまた震えていた。彼女もまた、俊一と同じように普通ではない経験をしたのだろうか。
痛みを堪えるために歪んでいるが、目の前の少女の顔立ちはかなり整っていた。毛先を金色の染めていて、地毛だと思われる部分もかなり明るい色をしている。先程も言ったように同い年の様で、俊一は見覚えのない制服を着ている。そこまでなら普通の女子高生とぶつかっただけなのだが、彼女は普通ではなかった。
まず、片足しかロファーを履いていないのだ。ケガをしている右足の靴下は、泥で汚れている。次に、ブレザーやスカートの汚れが目立つし、何より鋭利なもので切り付けられたように脚やストッキング、袖などは切り裂けていた。
顔や太ももからは新しい傷口から流血しているのが、一瞬の間に分かるほどいたいたしかった。
「た、助けてください。」
だから、次に彼女がそういう事は何となく想像できた。彼女は何かしらの事件に巻き込まれている。それは、彼女に対して明らかに害意を持った存在が。
しかし、俊一も既に異常な事件に巻き込まれている。人間を生きたまま燃やす存在に追われているのだから、彼女を巻き込むことになるだろう。しかし、
「え? あっ、うん。走れます?」
こんな状況で助けようと思うのは、修一の祖父の教育のたまものだろう。
「ごめんなさい。足を挫いてしまって。」
「・・・・乗って。」
「へ?」
俊一は、座っている少女の前に屈んで背を向ける。人一人背負った状態で逃げ切れるかどうかは分からない。最低でも二人は危険な存在がいるのだ。地形の理解も出来ていないのでどこかで出くわす可能性だって低くない。しかし、このまま彼女を置いて逃げることは、元自衛官の祖父に育てられた俊一には決してできない。
戸惑いながらもそれしか自身に逃げるすべはないと感じた少女は、俊一の背に乗る。背中に柔らかいものを感じる余裕はないのか、彼女が体を浮かせているのかは俊一には分からないが、煩悩に思考を奪われなかったことは幸運かもしれない。
「悪いけど、オレも追われてるんだ。人を嬉々として燃やす奴だから適当に逃げるけど、君を追ってる奴はどんな奴なんだ。」
意外と軽かった少女を背負いながら俊一は走りながら少女に質問する。俊一と少女を追っている人が同じであれば願ったりかなったりだ。この速度でも十分にあの男を振り切ることは可能だろう。
「多分、ストーカー。太った三〇代のおっさんよ。」
「そうか。じゃあ、オレが逃げているやつとは別っぽいな。」
いい予想はたいていが外れるものだ。そんな事を思いながら、彼女が逃げてきた方向とは出来るだけ違う方向。もちろん、あの男からも離れるように俊一は走り続ける。
「あなたを追っている人は、人間を焼いてたの?」
「ああ、それを見て笑ってた。異常者だよ。」
衝撃的過ぎたのか、俊一の左手は以前震えているのがよくわかる。我ながら大抵のことでは動揺しないように育っていたと思ったが、実際、目の前で燃えている人間を見たら、こんなにも震えは止まらないのだと思い知らされる。彼女も俊一の肩に着いている左手は震えている。
「そこ、連れてって。」
「は? 正気かよ? その男が戻ってるかもしれないんだぞ?」
「お願い。」
少し声色が変わった気がする。もしかしたら、元々この少女は二人で逃げていたのか? しかし、そのもう一人が、あの火だるまになった者なのだとしたら、命がある可能性なんて皆無だろう。
「・・・・・分かったよ。」
しかし、もしそうだとしたら、なおのこと彼女をその場に連れて行った方がいいのかもしれない。友人の最後は、家族の次に確認したいモノだろう。それに、あの男も殺害現場に戻ってくる前に見られた時点で逃走を考えることだろう。そう考えると下手に走り回るよりは、現場に戻る方が安全なのかもしれない。
未だに続く震えを引き起こした場所に戻るのは気が進まないが、俊一は方向感覚のみを頼りにあの焼死体がある場所へと向かう。
不幸にもというべきか、幸いというべきかその場所はすぐに分かった。それは、辺りに立ち込める匂いだ。いい感じに無風の夜。ビル風が起きるほどの高層ではないこの路地には、数分前の肉が焦げた匂いが充満していた。
今すぐにも鼻を抑えたい衝動に駆られるが、少女を背負っているのでそれは出来ない。顔を歪めて必死に耐える俊一に対して少女は、ハンカチで口と鼻を覆っている。
「・・・・・ここだよ。」
酷なようだが、まだ残っている人間だったもののすぐそばにまで少女を背負ったまま、俊一は歩み寄る。まだ、人間だった時のものが確認できるのが憎らしい。
だか、だからこそ俊一は少しおかしいとも思えた。それは、燃え残った部分を考えるに女子高生ではなさそうな体系をしているからだ。男だとしてもかなり太っている方だ。そういう女子高生がいないわけでは無いだろうが、違和感がるのは変わりない。それに、少女の様子も友人の死を惜しんでいるようには見えない。
「こいつが、私を追ってたストーカーよ。」
俊一の違和感を感じ取った様に少女が答えを教えてくれた。
「・・・・・。」
何と言うのが正解なのだろうか。恐らく、ストーカーは、彼女を追っているうちにここであの男と出会い焼き殺されたのだろう。そう考えればもうストーキングされることがなくなった彼女は安心できることだろう。しかし、人一人が無残な殺され方をした現場の前で、「良かったな。」の一言を言う気にはあまりなれない。だから。
「・・・そうか、早いとこ警察を呼ぼう。まだあいつがいるかもしれない。」
左手の震えは止まらないが、吐き気はもう起きていない。頭も冷静になりつつあるのが、少々腹立たしい。
少女は頷くと俊一に言われた通り、スカートのポケットから携帯電話を取り出し、警察に電話をかける。この場所の住所も分かっているのか、ものの数分で携帯電話を頬から放す。
「直ぐに来てくれるそうです。あの、ありがとうございます。助かりました。」
「こっちこそ。二人になったおかげで冷静になれたよ。」
「おいおいおいおい!ハイエナが集ってんじゃなぇぞ!」
だからこそ、その酒焼けしたようだ怒号が聞こえたときは、背筋が凍った。俊一の後ろ。最初に俊一が物影から見ていた方向からあの男が戻って来たのだ。
なんで逃げない?
殺人を目撃され、その俊一を見失ったのにもかかわらず、なんで殺害現場に戻ってくる?
この焼死体が、少女のストーカーならばここで殺したのは出会いがしらの犯行のはずだ。焼き殺しているのなら、金目のものは取っているはずだ。
「(証拠の隠滅か)」
で、あればこの場に戻ってくる事も頷ける。ぱっと見何か物的証拠があるようには見えないが、そういうものは、本人たちにしか分からないのだろう。
「頭! 下げて!」
急に命令口調で叫ばれた俊一は少女の方を振り返る間もなく、頭を下げる。
「ズドン!」
少女がその言葉を口にした瞬間、そんな可愛らしい音ではない爆音が、俊一の鼓膜を震わす。まるで、すぐ傍に雷でも落ちたかのような看過悪を与えた爆音は、決して間違いではなかった。人差し指と中指を突き出し、右手で銃の形を作った少女は、その指先をあの男の方へ向けていた。そして、突き出された二本の指から爆音の前に光り、閃光があの男に向けて放たれたのだ。
「あぁああぁっぁ。」
前方から悲鳴が聞こえる。爆音と閃光で誓う情報は少ないので直撃したのかは不明だが、あの男に一矢報いる一撃をこの距離から目の前いる少女が放ったのは事実だろう。
まるで稲妻。
少女の二本の指から放たれた閃光は、稲妻の如く男を貫いた。
「やってくれんじゃねぇかアマッ!!こっちが能力者か!」
しかし、修一の頭を着にしたからか目測は少し上方にずれてしまった。あの男の頭の上を稲妻はかすめ、男が悲鳴を発したのは、その稲妻が引き起こした、刺さるような閃光と熱に目をやられたからだろう。それは、最も近くにいた俊一も同様で、男の姿も少女の姿もおぼれ気にしか確認することが出来なくなってしまった。
「スキルスタート。」