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失われた時間

作者: 子鉄

あれから何年の時が過ぎたであろうか。

10年か15年か、それすらも思い出せない。

私は記憶を失ったのだ。


今となっては自分が誰なのか、自分が何なのか、それすらも分からずにただ息を吸ったり吐いたりしているだけの毎日だ。


自分はどんな人間だったのであろう、どんな友達がいたのであろう、どんな親兄弟と暮らしていたのであろう、それすらも分からなくなっていた。

幼少期の思い出や母の温もりすら自分の記憶から消え去っていたのだ。


愛する人はいたのであろうか、自分を愛してくれる人はいたのであろうか、その両方であると信じたい。


あの日、私が眼が覚めたときには病院のベッドの上だった。

生まれてから今までの一切の記憶を失っていた私は、眼を覚ましてからも数日間は放心状態だったらしい。

看護士さんの話によれば、交通事故にあい、頭を強打したそうだ。


頭を強打したと言えば、1993年の8月13日にガイアンツの原山選手が9回裏に打った満塁ホームランが、外野スタンドにいた少年A君の頭に直撃したのを思い出す。確か20時52分の事だったと強く記憶している。あの日は仕事から帰ってきて酎ハイを飲みながら、お父さんと試合を見ていたのだ。

そしてお母さんは二階でメロドラマを見ていたのだ。

A君はその後、原山選手にサインをしてもらって円満に解決したらしい。

全くもって馬鹿げた話である。


私が失った記憶と言うものが、果たしてどんなものなのか、いいものなのか、悪いものなのか、知りたい気持ちでいっぱいだった。

『空白のライフタイム』ちょっと小粋なキャッチコピーが頭に浮かぶと、自分て素敵だなと

自分で自分を褒めてあげたくなった。

歯を磨き、お父さんの持ってる床屋の匂いがする液体をべっちょり頭に塗り、外へ出た。


街を歩けば緑が鬱蒼と生い茂り、ツバメの爽やかな鳴き声が新しい季節の訪れを知らせてくれる。

何か用があったわけではないが、道行く人々が私の記憶の鍵を握っているかもしれない。

そう思い、すれ違う人々の顔を見ながら街を歩いた。

ちらちら横目で見ながら歩いたのだ。


時折「ファーっ」という奇声に似たものを発すると皆が振り向いた。

自分はここにいますというアピールである。

アピールしているのは左胸に付いてる小熊のワッペンだけではなかったのだ。


2丁目にさしかかった時にふと色とりどりの布が祭ってあるのが目に付いた。

ピンクやクリーム色や薄い水色のアンダーウェアだ。


私は早速それらを手に取った。


「・・・これは確か北川女子短大二年の石川芳江ちゃんの下着だな」


芳江ちゃんは福井県出身の21歳で、B85W58H86のおとめ座だ。

それは記憶してます。はい。


「さっ、最近の娘はこんなの付けてるのか。んふ、んふっ」


カラフルで肌触りの良い上質の素材は自らの記憶を呼び覚ましてくれる気がした。

それらに頬を寄せると芳江ちゃんに抱かれているような、そんな温かい気持ちになった。

ホットなのは下半身だけではないのである。


「おいっ」


私はもしかしたらそう遠くない昔に芳江ちゃんに抱かれたのかもしれない。

この優しい肌触りはそう確信させてくれるに十分なものであった。


「おい、貴様何してる」


そもそも私の下半身が


「おいっ!!」


こんなにもホットちゃんな・・・


「え、はい?」


「お前はここで何をしているんだ、あ?」


「何なんですかあなたは」


「この格好を見たら分かるな」


そこには無くしたはずの記憶の片隅にひっそりと残っている嫌な残像である、警官という名の権力の犬が立っていた。

出来たら過去に葬り去りたい、そんな人種である。

ピーポ君は別です。


「何をしていたんだ?」


「え、わ、わかりません」


「自分で何をしていたか自分が一番良く分かるな」


「いえ、自分、事故にあってから記憶がないんです」


「事故にあったかどうか知らないけど、今してるいけない事は明らかに事故後の事だわな」


「わかりません」


自分が何故ここにいるのか、何故警官に問い詰められているのか、まったく記憶が無かった。

自分自身が恐いくらいである。

時として人は自分の想像以上の力を発揮すると言うが、このケースも恐らくそう言った類のものであろう。


「その下着はなんだ」


「分かりません」


「名前は」


「分かりません」


「職業は」


「分かりません」


「好きな下着の色は」


「じゅ、純白です。んふ、んふっ」


「ちょっと署まで来てもらえるかな」


「分かりません」


気持ちよく散歩していた途中の道端で警官と押し問答になるなど、一時間前まで誰が想像できたであろうか。

誰にも想像できないことがまかり通る、こんな世の中に虫唾が走った。

こっちだって冗談で生きてるわけではないのだ。

過去の偉人はこんな言葉を残している。


人の想像は神の創造より遥かに気高く、ちょっといい感じじゃんね。

1875年-ベンジャミン・ボヘマ(ブンブク村の村長)


私は学生だった当事、この言葉に何度も助けられた。


公園で食べていたお弁当を地面に落とした時。


電車で女性専用車両を隣の車両からジッと見ていただけで、次の駅でつまみ出された時。


コンビニで女性店員にお金を渡すと、鼻をつまみながらお釣りを地面に投げてきた時。


何度も助けられた。

次は自分が誰かを助ける番ではないか、そんな気がしていた。


「おまわりさん、何か困った事は無いですか?」


「非常に困ってるな」


「ど、どうされました」


「分けの分からん奴が白目で泡を吹きながら奇声を発したり、下着泥棒をしたりしてるんだ」


「え、捕まえましょう。微力ながら手助けします。はい」


「ん、ありがとう。微力にも程があるよ」






あれから二年の月日が流れた。

私は極寒の網走に送られ、辛い時期をどうにか乗り越え今ここにいる。

私はきっとこの場所で死んでいくんだろう。

そして誰にも気にされずにせっかく咲いた命の花を散らすんだ。

ふとそんな事を考えながら、はかない自分てちょっと素敵だな、なんて思っていると看守が自分の房の前へやってきた。


「202番外へ出ろ」


「はいっ、元気です」


「だまって出ろ、ばーか、ばーか」


いよいよ新たな旅立ちの日だ。

これから自分は厳しい社会に立ち向かいながらも、懸命に己を磨いていくんだ。

看守さん、食事当番の人、こないだ鉛筆を貸してくれた強盗殺人犯の人、みんなありがとうございました。

これからの自分を見ていてください。





私はホームタウンに戻ると、中断していた記憶探しを再開した。       

誰か私と私の過去を知る人物に出会うためである。

せわしく道行く人達に土下座をして自らの現状を訴えた。

一日八時間地面に額をぐりぐり擦り付け、「私は罪人です」と連呼した。

そうするには他にも理由がある。

知人に顔がばれるのが恥ずかしかったのだ。

顔出し、親バレNG、モザイクありOKなのである。


活動は長期に渡る為、駅前にブルーシートでテントを張った。  

テントを張っているのは股間だけではなかったのである。

         


私はそれから八か月の間、駅前での土下座外交に精を出した。

時には心ない人に笑われたり、ツバを吐かれたりしたがそれでもめげなかった。

ある時など正座して道行く人に拝みながら、五月のスローガンである『私は薄汚れた雑巾です』を連呼していると、優しそうなおばあちゃんにこれを飲みなさいと睡眠薬を200錠渡された。

私にはおばあちゃんの意図するメッセージが痛いほど良く分かった。           タックルで弾き飛ばしてやりたくなるほど良く分かった。   


ふと上を見上げれば蒼くてでっかい空が笑っていた。

ちっぽけな自分を笑っていた。

太陽も笑っていた。

情けない自分を笑っていた。

おばあちゃんも笑っていた。

昨日じいさんが死んだとか独り言を言いながら笑っていた。


結局過去の記憶なんてちっぽけなものだったんだ。

大事なのはこれから先どう生きるかなんだ。

自分がどんな人間だったか、そんな事はどうでもいい、今、この時から自分を始めよう。

そう考えると何か悪いものが飛んでいったような、そんな清々しい気持ちになった。


ひと皮剥けた私は、それから家に帰り睡眠薬を一粒ずつ庭に埋めた。

作業を終えるとシャワーを浴び布団にもぐりこんだ。


「ふふ、どんな花が咲くかな。明日が楽しみだ」


電気をパチっと消し、今日出会った全ての人々に感謝しながらうとうと眠りについた。





「あは、あはははー、じいさんが死んだー」


外では先ほどのおばあちゃんが通りを徘徊している。

私はそんなおばあちゃんを見て可愛そうに思えた。

毎晩のようにじいさんの話を一人でしながら、夜な夜な近所をふらついてるのを見るたび胸が締め付けられる思いだった。


「ばあさん生涯独身だったのにな」


改めて記憶の大切さを知った今日この頃だった。


-完-



























読んでいただいてありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言] やっぱり笑いました コテツ先生、最高です。 お嫁にきてくださいっ!!!!
[一言] ストーリーに統一性がない本作品ながらも多作とあわせて規則性のあるところは素晴らしいです。 破綻していながらもパーツで取り出したら起承転結が成っている。 どこかしら韻を踏んでいる。 特に”ふと…
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