芦原橋駅・外回り内回り同時着
所長がいなくなった。
朝、事務所に出勤したらいつものようにソファで眠っている所長を起こすのが日課になりつつあるのだろうなと考えていた矢先の出来事だ。
飲みかけのカップもなく、ソファの上の毛布もきちんと畳まれていて、まるで所長ではない誰かが事務所の中にいたように感じてしまうほどに違っていた。
いつもは私が確認する郵便物もきちんと分類されていて本当に誰かが入ったのではないかと疑った。
それらがすべて所長の手によるものだと分かったのは机の上の手紙だった。
『今里ちゃんへ
しばらく留守にするからお休みしてて良いよ
帰るときは連絡するよ
御堂』
一人で電車に乗れるんだとか。
誰かと会話できるんだとか。
現実逃避的なことを考えて、それからものすごい虚無感を覚えた。
探偵事務所で働くようになってから休みなんてほとんどなく働いた。
ずっと一緒にいた。
何もなくても一緒にいるものだと思っていた。
それが急にいなくなって、そして自分の知らない所長がいることに悲しみがこみ上げてきた。
いつも文句を言いながらカップを洗って、ソファの毛布を畳んで、それから近くにある喫茶店でモーニングをする。
そのあとはメールや郵便物を仕分けしている間に所長は上の階の自宅に戻ってシャワーを浴びる。
自宅があるのなら事務所で寝なくても良いのにと思うけど習慣というのは恐ろしいものでベッドでは何となく収まりが悪くなってしまったというのだ。
そんな毎日が続くと思っていた。
「あれ?所長に会う前って何してたっけ?」
友達に誘われて合コンに行ったり、一人旅行に行ったりしてた。
実家にたまに帰って両親の生存確認をしていた。
所長と仕事をするようになって合コンに参加しても顔面偏差値の低さに幻滅して参加するのを止めた。
人は顔じゃないと言っても会話についても浅くて本当に困った。
いくら好きでも、趣味が映画鑑賞だと言っても、頭の良さを見せびらかそうとしても、まさか座頭市のリメイク版を熱く語られても困る。
その映画の良さを、あの時代にしては最新技術を使っているよね、とか言われても困る。
使っているのかどうかもわからないし、相手が見たことなければ話しても退屈なだけだ。
友人に遺伝子好きでそのまま仕事にした子がいるけど、詳しく話したりしない。
曰く、相手にも同等の知識がなければ話しても面白くないということだ。
むしろ仕事場のうっかりな話とかは良く聞く。
それは共感ができるから聞いてて楽しい。
「所長、帰って来ますよね」
帰って来ない気がした。
どこかに行くのでも一緒に来てと連絡があるのに、今回に限ってはそれもなかった。
唐突にいなくなった。
手紙がなければ、幽霊船を思い浮かべただろう。
さっきまで人がいたように、珈琲には湯気があって、食べかけの朝食があって、なのに人だけが忽然と姿を消した。
あの不思議な感じを。
何もする気が起きなくて電気もつけないまま事務所のソファで膝をかかえていた。
ドアの札はclosedのままだから誰かが入ってくることも考えにくい。
もともとアポなしで依頼人の話を聞くことは少ないから困らない。
しばらくというのは、どれくらいだろうか。
一人で話を聞いたこともない。
一人で尾行したこともない。
唯一あるのはペットを探したことくらいだ。
そんなもの人相手では何も役に立たない。
「おぅわ」
「やっぱりか」
所長から連絡が来ていたのだろう。
梦さんと誉志さんが来た。
「電気もつけないで、どうした?」
「ほら、今里ちゃんの好きな葡萄のタルトだよ」
葡萄のタルトは行列のできるケーキ屋さんのものだ。
所長とときどき並んで買っていた。
「御堂がいないんだろ?」
「・・・どこに行ったか、知っているんですか?」
「あぁ。過去の亡霊に会いにな」
「亡霊?」
「ここに御堂が今朝、受け取った手紙がある。消印のない手紙だ」
脅迫状とかは足取りを掴ませないために直接投函されていたこともある。
すぐに警察に届けたけど。
「内容は簡単だ。会ってくれなければ自殺する。ある女性からの脅迫状だ」
そんな女性がいたのなら、どうして今さらなのだろうか。
『谷町御堂さんへ
突然のお手紙で驚いたでしょう
それもそうね、私たちは別れて、もう四年も経つのだもの
時が経つのは早いわね。お互いに進路があって忙しくしてしまったからすれ違っていたわね
今でも忘れていないわ。谷町くんに会って、恋に落ちたことを。だって大切な思い出だもの
いつも優しくしてくれて、照れてしまって目を見て話もできない私を傍においてくれたわ
レポートのときも分からないところがあったら、さりげなく見せてくれたわね
毎日が光り輝いていた
大学生でいられた頃は一緒にいることが楽しくて何も心配することはなかった
学年があがるにつれて一緒に受ける授業が違ってくるとレポートの内容を教えてもらえなくなって寂しかった
それでも留年することになってますます会えなくなるのは悲しいから頑張って勉強したわ
そのおかげで大学院にも特待生で進めたの
谷町くんも大学院に行くのだと思っていたから一人になって驚いたわ
それで私たち卒業と同時に自然消滅しちゃったね
谷町くんも社会人になって忙しいと思ったから連絡するのを控えていたけど、こんなに長くなるならもっと早くに連絡すれば良かった
どうしても谷町くんに会いたくて谷町くんの実家のあたりに何度か行ったけど会えなかったね
それで単位が足りなくて留年したけど、無事、去年卒業したよ
両親は私が結婚できないのではないかと心配してお見合いをさせようとしているの
私は谷町くん一筋だからお見合いしないために、谷町くんへの気持ちを貫くために死のうと思います
この手紙を読んでいるときには私は東尋坊に向かっています
自殺の名所だと言われているので、きっと寂しくないです
楽しい思い出をありがとう』
全部読んでも一体、何があったのか分からなかった。
名前もないけど、それで分かるというのだから親密だったのだろう。
「・・・さて、全部読んだ今里ちゃんに話しておこうと思う」
「話しですか?」
「その手紙を読んで今里ちゃんは御堂が少なからず女性に対して感情を持っていると思っているだろ?」
思っている。
そうでなければ手紙一つでいきなり探偵事務所を休むということはないはず。
この手紙の通りなら東尋坊に自殺を止めに所長は向かったのだろう。
警察に連絡をしたり、本人に連絡したり、その周りの友人に連絡したり、いろいろと他に手はあったはずなのに直接、自分が向かった。
それをするほどに大切な人なのだ。
しかも梦さんや誉志さんには話せるくらいの大切な人。
「ひとつだけ言っておくが、御堂には、この女性に対する感情はないからな」
「ないのに止めに行ったのですか?」
「理由はただひとつ、連絡手段がないからだ。俺も梦も御堂も、今の手紙の主に連絡をする方法がない。友人関係も知らない」
「それだけで止めに、わざわざ東尋坊まで行ったのですか?」
誉志さんに当たっても仕方ないというのは分かっている。
所長とは、探偵事務所の所長と所員で、所長が普段プライベートでなにをしていても私には関与することも咎めることもできない。
でも何も言わずに手紙一枚でいなくなられるのは本当に嫌だった。
まるで両親を見ているようだからだ。
幼いころから両親は共に家にいなかった。
いた、と思えば着替えを旅行鞄に詰めているところしか記憶にない。
二人とも子どもを愛しているつもりだったのだろう。
小学校に入れば鍵を持たされて、食事は配達されていた。
ときどき作り置きがあったが一緒に食卓を囲むということはなかった。
テストで良い点を取っても、悪い点を取っても、何も言われない。
友達は怒られないから良いねって言って両親を入れ替えたいと言っていた。
誉めるのも怒るのも相手がいなければ出来ないし、相手を見ていないとできない。
学校への提出プリントは、いつの間にか用意されていた箱に入れておく仕組みになっていた。
私が知らないうちに署名やハンコが押されていた。
授業参観に来てもらったことはないし、運動会も学芸会も一人だった。
三者面談など先生と対面する必要があるときだけ会社を休んでいた。
両親は美男美女だ。
だから笑顔でいれば誰もが騙されていた。
私が今でいうネグレクトを受けていたなんて誰も思っていなかった。
食事も服もお小遣いもすべて用意されていた。
でもそこには愛情はない。
生きるうえで必要だから最低限の装備という感じだった。
中学生になれば思春期の娘は反抗期から夜間の徘徊をするというニュースでも見たのだろう。
セキュリティ会社に依頼をして夜の九時までに家に入らないと警察に連絡が行くように手配されていた。
その時間以降は朝の六時になるまでドアも窓も開かないようにセットされていた。
まるで監禁されているようだった。
両親がどんな仕事をしているか分かり出した頃に、どうして自分だけこんなことをされるのだろうと思ったとき、仕事の邪魔にならないようにするためだった。
二人とも弁護士で、大手の敏腕弁護士として名を馳せていた。
そんな二人の子どもが不良になったと話題になって輝かしい経歴に傷をつけることになる。
自分たちの邪魔にだけはならないようにして欲しいというのが二人の偽らざる本音だ。
ならどうして産んだのか疑問だった。
妊娠が分かったときに中絶すれば、それも汚点になる。
むしろ産んで子育てをしながら仕事を両立させているというステータスが欲しかった。
両親にだって親はいる。
だから家中のものを探して祖父母にあたる人たちの住所と名前を見つけ出した。
学校をサボって住所の家に向かうとそこには祖父母らしき人が穏やかに生活していた。
私はあなたたちの孫です、と名乗り出ようとしたけど思いとどまった。
産まれてから一度も会っていないから分からないかもしれない。
戸惑っているうちに会話が聞こえた。
「息子夫婦は仲良くやっているかねぇ」
「子どもはいないけど、仲良くやっていると電話が来ましたよ、お父さん」
「それは良かった」
足元から崩れ落ちていくのを自覚した。
私は生まれていないことにされていた。
それも自分たちの親には仲の良い夫婦だと連絡までしていた。
私は提出プリントを入れる箱に伝えたいことを手紙にして入れたことがあるけど一度も返事が来たことがなかった。
本当に私は必要なのだろうか。
学校をサボったのに何のお咎めもなかった。
担任には無断欠席を咎められて、親に連絡すると言われた。
今まで学校を休んだことはほとんどないのに一日だけ休んだだけで怒られた。
親に連絡をしたところで何か変わるとは思えない。
真面目に授業だって受けているし、もめ事を起こしたこともない。
親にとって都合のいい子どもであれば誉めてくれるかもしれないと淡い期待を持つほど私は楽観的にはなれなかった。
「よし、今日は家庭訪問をするぞ。無断欠席をしたことをきちんとご両親にお話しないといけないからな」
無駄にずれた熱血教師だが私は反論する気も起きなかった。
授業である程度の点数を取って、学校に毎日通ってさえいれば中学校は卒業できる。
頑張って欲しいとは思えなかった。
「それで、四ツ橋。ご両親はいつ帰ってくるんだ?」
「知りません」
「知らない?おいおい一緒に住んでいるんだろ?夜遅くても帰ってくれば分かるだろうが」
「いつ帰ってくるのか私には分かりません」
「困ったなあ。ほら携帯があるだろう。連絡してみろよ」
「連絡先を知りません」
携帯電話の番号も職場の番号も知らない。
職場の番号はネットで調べて一度だけかけたことがある。
どうしても熱が出て下がらなかったからかけたのだが、着信拒否をされているようで繋がらなかった。
「どうやって連絡を取るんだ?」
「手紙を箱に入れておきます」
「いつ返信がくるんだ?」
「返信は来た事はありません」
「教師をおちょくるのもいい加減にしろ!」
おちょっくてはいない。
こっちとしては大真面目に本当のことだけを話している。
それを嘘だとしているのは教師の方だ。
私が何を言っても謝らないから怒って出て行った。
「・・・・・・・・・ちゃん、今里ちゃん!」
「っ」
「急に黙るからびっくりしたよ」
「すみません」
「謝らなくていいけどさ。御堂が勝手に行動したの、そんなに嫌だった?」
「いえ、違い、ます」
両親に似ていると考えているうちに昔のことを思い出していた。
きっと顔色が悪いのだろう。
心配した梦さんと誉志さんは納得していなかった。
「何をそんなに思い詰めていたのか知らないけど、そう深刻にならなくてもさ。御堂のやつは帰ってくるよ、ここに」
「所長が置いて行った手紙が両親が初めて書いてくれた手紙にそっくりなんです」
「ご両親が?」
「はい」
私はさっきまで思い出していたことを全部話していた。
あまりにも重い内容だから友達にも話せない。
カウンセラーのような専門のところに行けば聞いてはくれるだろうけど両親を許すようにと諭されそうだった。
別に恨んでもいない。
ただただ悲しいだけだ。
「大変だったんだな」
「今里ぢゃん、だがらごんなに毒舌がうまぐなっでるんだね」
「違います」
過去に囚われて落ち込んでいるのがバカバカしくなった。
同情するでもなく、ただただ受け止めてくれている。
それだけで立ち直れる気がした。
「それで、両親の手紙とはどんなことが書いてあったんだ?」
「所長と同じような大きさの紙で“しばらく留守にするから、帰るときは連絡する”って書かれてました」
両親にとって今までのは留守にしているつもりは無かった。
住んでいるつもりだったのだ。
ほこりが溜まるから掃除をしたし。
食器も洗った。
着るものは、基本的にクリーニングに定期的に出すことになっていたけど、思春期はできるだけ自分で洗った。
あれを留守にしていないというなら、何を留守と言うのだろうか。
「連絡があったことないですけどね」
「そりゃ不安にもなるな」
「で、今里ちゃん一人暮らしだよな。実家はどうなってるんだ?」
「時々見に行っていますけど、荒れ放題です」
服に関しては洗濯をしていないから溜まっている。
掃除もしていないからほこりだらけ。
手紙がなくなっているからそこから両親の生存を確認している。
そこまでになっているのに何も連絡して来ない。
携帯の番号を教えていないから連絡のしようが無いとでも思っているのだろうか。
それなら昔、私が書いたように手紙にでもしてくれたら良い。
その時間すらも惜しいと思っているのだろうか。
「俺たちが口出しすることじゃないから今里ちゃんの思うようにしたら良いさ。で、話をかなり戻すと、手紙には続きがあったんだ」
「手紙?」
「そう。自殺志願の女の続きだ」
わざと手紙を封筒に全部入れていなかったらしい。
『谷町くんは優しいから止めようとするでしょうね
だから私は東尋坊に行くまでの間に手紙の続きを書きます
その手紙には東尋坊から次へ行く場所を書いておきます
手紙を見つけて私のもとにたどり着けたら谷町くんの勝ち
自殺するのは諦めます
でも最後の手紙で間に合わなかったら分かるでしょう
今の私は生きるのに疲れました
谷町くんとの思い出とともに、谷町くんの中にいる綺麗なままの私としてこの世を去りたいと思います』
これを読んで、止めて欲しいのか。
それともこの世を儚んで死にたいのか、よく分からない。
「俺も梦も自殺をほのめかして御堂の気を引きたいのだろうと考えたけど、本当に自殺したら後味が悪いから行ってみることにしたってわけだ」
「本当に自殺するのなら自分の死後に手紙が届くようにしますよね」
「セオリーってわけじゃないが、多いだろうな」
この手紙の女性はただ恋い焦がれている所長に追いかけて欲しいだけのような気がする。
付き合っていたという割にはデートをしたことやプレゼントされたことなどの恋人によくあるイベントが抜けている。
「あと付き合ってたわけじゃない」
「へっ?」
「一方的に付きまとっていただけだ」
聞けば目を合わせるだけで石になるのに手作りの菓子を作っては持ってきていた。
梦さんや誉志さんに目もくれず所長だけをひたすらに見ていた。
それだけなら好きな子にアピールしているだけだが、違ったのは手作りの菓子に髪の毛が入っていたことだ。
作っている最中にたまたま入っている可能性はゼロではないが、全部のクッキーに入っていた。
それだけで、どんな意味で作られたものか理解できる。
本当は分からないように混ぜたのだろうが焼いて形が変わって髪の毛の端が飛び出していた。
あの妄信的な行動を見ていれば信用できない。
それから何度も差し入れされるが全て食べずに捨てていたらしい。
「本人は付き合っていたって周りに言っていたけど、誰も信じてはいなかったな」
「嘘だってすぐにバレそうですけどね」
「こっちが否定しても照れてるだけだって思い込むし、それに御堂に直接確認できる女子もいなかったしな」
確認しようにも目が合えば石になるのだから無理だ。
本人以外が否定すれば信憑性が少し薄い。
言いたいように言わせておくのが一番の解決策だというのはすごく分かる。
だけど放置し過ぎると加熱することもあるから見極めが重要だけど。
「だから俺たち全員はそのまま大学院に進むような話をして卒業するっていうことにした」
「それがこの手紙の女性が大学院に進んだってところですね。追いかけるために進んだんですね」
「本当はそのまま辞退するつもりだったみたいだけどな。さすがに親を説得することはできなかったみたいだな」
もし所長が普通の企業に就職していたら同じところを希望していたのだろうか。
志望動機を好きな人がいるからとか言ってたのだろうか。
今となっては分からないが所長が自営業で良かったと思う。
「でもそこまで好きなら所長が探偵をしていることも分かっていたのではないですか?」
「そこは噂を流してたんだよ。就職したってな」
「そこで大学院を卒業したら同じ会社に就職するつもりだったということですね」
そうしているうちにネットで谷町探偵事務所というホームページを見つけたのだろう。
所長の名前を見つけて手紙を送ったというか投函したのだろう。
卒業してから一度も連絡をくれない所長への嫌がらせも含めて。
自殺をほのめかして再会してもう一度付き合うつもりだろう。
「手紙には差出人がなかったけど大学のときに関わってきた女だってことはすぐに分かった」
「所長も分かって東尋坊に向かっているということですね」
「自殺をするという人を止めないのは人としての義務に反するからな。だから説明する時間すら取れずに向かった。手紙を俺か梦に渡せば話が通じると思ったんだな」
「所長は戻ってくるのでしょうか」
「信じてないな。戻ってくるさ」
絆されて一緒に死ぬというようなことにはならないだろうか。
女性にナイフで刺されて殺されるということはないだろうか。
嫌な考えばかりが頭を過ぎった。
「とにかく東尋坊に着いたら連絡くらいあるさ」
「所長は事務所の電話番号を知っているのでしょうか?」
「おいおい、いくらなんでも自分のところの電話番号くらい知ってるだろうよ」
「でもかけることないですよ」
自分で自分に電話をすることはない。
名刺も前は自分で持っていたが今は今里が持っている。
一枚くらいは財布に入れていて欲しいが持っているかは不明だ。
「休んで良いって言われたならどこかに旅行でも言ったらどうだ?」
「行きたいとこないです」
「それか温泉に行くか」
「城崎温泉に行きたいです。カニを食べたいです」
「カニは今の時期じゃないから諦めろ」
冬になったらカニ鍋をしてもらおう。
とりあえずは所長が返ってくるまで旅行に行くかどうかだけど行きたいと思えるところがない。
「まずはタルトを食え」
「そうします」
まさか所長が連絡してこないとは思わなかった。
いつ電話があるか分からないから事務所に泊まり込むことにした。
今の私の家はホテルだから何も問題ない。
寝ずに待とうとしてソファで眠ってしまっている。
そんな毎日を繰り返して、誉志さんは簡単に食べられる食事を作ってくれるようになった。
「所長、いつ帰って来るんですか?」
そんな独り言も増えた。
相変わらず電気を点けるということすらできなくて梦さんや誉志さんが夕方になると点けてくれる。
朝になると、また消してくれる。
こんなに一人で生活できなくなるとは思わなかった。
「二週間、か」
警察にも相談に行ったが行方不明届は家族でなければ出せない。
一応、職場の上司がいなくなったということで話だけはしたけど積極的に探してくれる感じはしなかった。
いっそのこと、所長と私で婚姻届けを出して夫が行方不明ということにしようかと考えたけど、梦さんと誉志さんにそれだけは止めてやれと言われたから思いとどまっている。
「今里ちゃん、一回ちゃんとベッドで寝た方が良いぞ。帰って来たらすぐに連絡するから」
「はい」
ホテルまで送られて、そのまま眠った。
体は限界だったのだろう。
丸一日、眠り続けた。
その間にも所長は帰って来なかった。
「あっ、起きた?今里ちゃん」
「環さん」
「誉志がスープを作ってるから飲む?」
魔法瓶に丁寧に裏ごしされたスープが入っていた。
きっと食べる気力も無かったからありがたかった。
「御堂のやつ、どこ行ったのかねぇ?」
「環さん」
「うん?」
「所長は手紙の女性のことを好きだったのでしょうか?」
「はい?・・・ないない、あり得ないよ。だいたいお菓子を持ってアタックしてくるやつがいるのは記憶してても名前は憶えてないくらいだよ」
梦さんや誉志さんは憶えているのだろうか。
「俺も名前は憶えてないけどさ。誉志は憶えてると思うよ。あいつは記憶力が良いから」
「そうですか」
「ひょっこりと戻ってくるって。そしたら一発ぶん殴ってやりなよ。心配かけるなって」
きっと梦さんや誉志さんには迷惑をかけてる。
面倒なことになったって。
「あと、今里ちゃんは迷惑かけてるって思ってるだろ?」
「えっ?」
「顔に書いてる。本当に迷惑なら迷惑だって言うし、誉志だってわざわざ食事を作ったりしないよ」
「お二人は優しいからです」
「優しくても優しくする相手を選ぶよ。俺たちは聖人君子じゃない。御堂のことは友達だし心配だけど、今里ちゃんも俺たちにとっては友達だから心配だ。御堂の部下だとか思ったこともないよ」
夫婦ですら希薄で、実の親子ですら手間をかけることを惜しむような関係なのに赤の他人に手間をかけるなんてもっとあり得ないと思っていた。
友達というのも会話をする程度だと思っていた。
そこまで親身になる人なんてこの世にはいないって思っていた。
「もう少し横になった方が良いよ。御堂も今里ちゃんが倒れたなんて聞きたくないだろうからね」
「環さん」
「うん?」
「所長とはどんな風に知り合ったんですか?」
「それはね、内緒」
男同士だから繋がりを持てたのかもしれない。
きっと同級生でも彼らの中には入れなかった。
今だから入れるのだ。
「俺たちだってさ、お兄ちゃんぶりたいのよ。だから今里ちゃんは俺や誉志の妹みたいな存在であればいいの。我が儘言って、甘える存在であればいいの」
「我が儘言っても良いんですか?」
「うん」
「甘えても良いんですか?」
「うん、御堂には俺たち以上に甘えてやれば良いと思うよ」
あれだけ寝たのにまた眠気が襲ってきた。
まだまだ聞きたいことがあるのに私の瞼は言うことを聞かない。
安心して眠ったのだろう。
目覚めは爽やかだった。
「おっ、起きたみたいだな」
「はい、・・・うっ何ですか?このにおい」
「やっぱりすごいか?漢方」
「漢方?」
真っ青な色に何とも言えない匂いが部屋を埋め尽くしていた。
この漢方が誰のためのものかと言えば分かってしまうだけに何も言えない。
「もう少ししたら良い匂いになるから」
「・・・はい」
「信用しろよ」
青色が濃くなるにつれて匂いが変わってきた。
甘い花の香りになって食欲をそそる匂いに変わった。
だけど味は知らないからどうしても警戒してしまう。
「ほら、一気にぐいっと」
「・・・飲みます」
「おう」
宣言しないと躊躇いを憶えてしまう。
一気に喉に流し込むと爽やかな酸味とほのかな甘みのあとに声なく叫ぶくらいの苦みがきた。
人を殺せるのではないかというくらいの苦さだった。
こんなものを飲まされるくらいなら無理して寝ずの番などしない。
絶対にしないと心に誓った。
「さて、これでしばらくは無茶をしないだろう」
「・・・・・・・・・・・・はぃ」
「御堂はまだ戻ってこない。そこでだ、倒れるまで無理をされるのなら別のことで無理をしてもらおうと思った」
誉志さんは怒っているのだろう。
何も言わないが漢方に始まり、今の笑顔を見ると怒っている。
心配させたことは申し訳ないが自分でもどうしようもないくらいに所長がいないことが堪えた。
「何も心配させたことに怒っているわけじゃない。顔に分かりやすく書いているから言っておくが」
「はい」
「何もかもを一人で抱えようとして何も言わないでいきなり死んだように倒れているのを見て俺たちが何も思わないと思ったか?俺たちは血も涙もない男じゃないからな」
「はぃ」
そんなにも分かりやすいのだろうか。
感情が表に出にくいというか本音と別の表情を出すことは呼吸をするくらいに簡単にできてたはずなのに。
「そこで料理を作ってもらう」
「料理ですか?」
「男の胃袋を掴むことが結婚への近道だ!とか聞かないか?」
「いいえ」
もしそうなら誉志さんは所長の胃袋を掴んでいるのだろう。
私も掴まれている。
「・・・卮さんは所長と結婚したいんですか?」
「・・・どこをどう通ってその結論になった?俺は普通に女の子が好きだ」
「所長は胃袋を卮さんに掴まれているでしょうから結婚するのかと思いまして」
「それを言ったら俺の店の客全員が俺と結婚することになるぞ」
「日本は多重婚を認めていませんからできませんね」
「そうだな」
何か間違ったことを言ったのだろうか。
私は誰が誰を好きになっても、それはその人の気持ちだから否定も肯定もしない。
「とにかく、魚を捌くことから始めるぞ」
「魚を捌いたことありません」
「やったことないことに挑戦することで疲れて他のことを考えられないようにするためが目的だ」
きっと逃れられない。
ここにはいない梦さんが魚の調達に駆り出されているのだ。
間違いない。
「安心しろ。全部叩いてつみれにして鍋にするから形が崩れても問題ない」
料理に関しては妥協というものを持たない誉志さんだ。
これからの地獄が手に取るように分かる。
これもそれも所長が連絡しないでフラフラとどっかに行っているからだ。
帰ってきたらしばき倒してやる。
「おっ、今里ちゃん!おはよう」
「おはようございます、環さん」
料理をする場所はどこなのかと思っていたら誉志さんのホームグランドのバーだった。
リフォームが終わったのだろう。
「さぁ捌いてね?」
笑顔で言う梦さんに少しだけ殺意が沸いた。
魚というカテゴリーに入れてもいいのか不明だが、陸のものではないということだけは確かな海のもの。
八本の足というべきか手というべきか赤いうねうねとしたものが発泡スチロールにいた。
それはまさしくいた。
「さぁ塩でぬめりを取るんだよ」
覚悟を決めてボウルの中の塩を全部ぶちまけて軟体動物であるタコに擦り込む。
塩が多すぎるとか、もったいないとか知らない。
私はうねうねと動くコイツが嫌いだからだ。
食べる分には好きだが生きているうちは見たくない。
だから視覚から極力消すために塩を使った。
「それだけ揉めば、じゅうぶんだ」
「はぃ」
水で塩が流されていくと、くたっとしたヤツがいた。
鍋に入れてよくイメージする足がくるんと丸くなったタコに仕上げた。
「これは前哨戦だ。次はイカだな」
イカも苦手だ。
とにかく吸盤を持つ生き物がうねうねと生きているのがダメなのだ。
さすがに輪切りにしようとしたら梦さんから待ったがかかった。
「ワタを取って、細かく切って塩辛にするんだよ」
「塩辛?自分で作るんですか?」
「うん、自分で作った方が旨いんだよ」
選手交代でイカと格闘するのは梦さんだ。
横で見学させてもらう。
「見ている暇はないぞ」
そんなに優しい人じゃなかった。
新しいまな板と包丁を渡されて、それからは散々な結果だった。
魚を三枚おろしにするのがこんなに大変なことだなんて。
「そこで包丁を骨に添わせて」
出来たらやってる。
「だぁそこで持ち上げたら身を削るだろう」
骨なんて見つからない。
「立派な骨せんべいだな。スプーンで中落ちを取るぞ」
中落ちとは骨についた身のことをいうのか。
「初めてにしては上出来だと言いたいが、さすがに身より骨が分厚いと褒められないな」
鰯の手開きは楽しかった。
それぞれの身をすり鉢で細かくしてつみれにして豪勢な味噌汁になった。
米はアラで取った出汁で炊いたからこれまた絶品だった。
疲れたのとお腹がいっぱいになったことでソファで眠ってしまった。
ここ最近はいつも寝ているような気がする。