おはようからおやすみなさい
気が付くと、僕は冷たい床に倒れていた。
外からは子供の声と、チュンチュンと雀の鳴き声が聞こえてくる。
目の前には、首つり用のロープが振り子のように揺れていた。
窓から差し込む光は、まだ肌寒い四月の朝から僕を守ってくれていたみたいだった。
動こうとする体を拒否するかのように、全身が鉛のように重い。
動こうとする事を諦めさせるかのように。
一生このままで居てもいいと思った。
だって、たまらなく素晴らしく、楽しい夢を見ていたから。
左腕が熱く感じたが、確認する勇気がなかった。
右手に何かをつかんでいたが、確かめる度胸がなかった。
この世界はいつだって残酷で、いつだってドラマティックだ。
今までのやり取りは夢なんだ。夢。絶対に夢。
だからもし、もし左手に紋章が見えなくても、右手にノートを持っていなくても僕は絶望なんかしない。
このまま二度寝して、夢の続きを見ればいい。解決。これですべてが解決する。
いつの間にか、羽のように軽くなった左手を天井に掲げていた。
魔王の紋章が、紅く光輝いていた。
六畳一間の空間には似つかわしくない美しさだった。
「さて、どうするか……」
一面真っ白な不思議空間と比べると、おおよそ遊園地と表現してもおかしくはないであろう六畳一間の部屋には現在僕とデビルノートが対面している。
ペラペラとめくると、おそらく名前のような文字が一行書かれていただけだった。
トランさんは、ノートに名前が書かれた魔力のない人間は、速攻で死ぬと言っていた。
名前を書いた後に理由を書けば、ある程度死因を操作する事はできるのだろうか。聞いておけばよかった。
すぐ死ぬと言っていたのでそれはないんだろうとは思うが、既に書かれている名前であろう文字の隣にはウンコやドクロのマークが描かれており、不安を煽ってくる。
まぁ操作できるのだとしたらドヤ顔で説明しそうな人だし、ここは即死という事にして考えてみよう。
殺したい人間なら山ほどいる。
暴力をふるった人間。お前なんか生まれてこなければ良かったと言った人間。
僕をいじめた人間。隣の席になったら絶叫して泣いた人間。ペンを拾ってあげたらもう使えないから捨てると言い放った人間。
お前は使えないゴミ人間だと信じ込ませた人間。お前には絶対に負けないと舐めた口をきいた人間。
電車で隣の座席が空いているのに座らなかったあの人間。
歩きタバコする人間。男女仲良く手を繋ぎあるく人間。楽しそうな人間。幸せそうな人間。
全部全部全部、一人残らず殺したかった。
「……本当に?」
窓の外から照らす光を浴びながら、ふと疑問に思ってしまった。
名前を書けば殺せる、指先一つで殺せる所まできた。
別に怖気ついた訳ではないと思う。
「いや、本当に殺したいのか?」
何故か自然と、そんな言葉が口から出てしまった。
僕は使い古したPC用チェアの背もたれに身を任せ、左腕の紋章を眺めながら頭の中を整理した。
……殺したいのか? いや、殺したいんじゃない。苦しめたいんだ。壊したいんだ。
僕を踏み台にして幸せに生きる奴らに、復讐したいだけなんだ。
死ぬ事は、救いになる。
それは身をもって体験した。死は全てのしがらみから解放されて楽になるだけだ。
だから、ダメ。ただ殺すだけじゃダメ。絶対に、ダメ。
苦しめて苦しめて苦しめて、壊して壊して壊して、それでも殺さない。
絶対に殺さない、救いを求めても殺さない。
決めた。そうしよう。僕は絶対に、楽には殺さない。よく考えて殺そう。
絶対にそのほうが楽しいし、きっと面白い。
……目の前のノートがこちらを睨んでいるように見えた。
ごめんなさい、デーモンノートさん。
貴方の力では、僕の復讐劇は叶いそうにない。
時計を見ると、短い針が8の数字を指していた。
子供は学校へ、大人は会社に行く時間、僕はこの時間が一番嫌いだ。
無職になった初めの頃は「みんなが働いている時にダラダラするの最高! 無職最高!」と大喜びで外を眺める、そんな時期が僕にもあった。
しかし、残念ながら現状維持、もしくは後退している僕の人生とはお構いなしに、世界は未来へと進んでいく。
そのうち「なんでみんな頑張れるんだろう……こんなはずではなかった……」とネガティブな方向に全速力で走るようになり、"生きる意味"という曖昧な言葉が頭の中に居座るようになる。
世界が悪い、僕は悪くないという右ストレートとゴミのような僕が全て悪いという左ジャブが交互に繰り出され、僕の精神を殺しに来る。
だから、この時間になると僕は寝る。
頑張ってない自分への焦燥感から逃げるように、寝る。
――だけど、今日は違う。
自殺できたと思ったら、背中に魔法をぶつけられ重傷を負い
攻撃した本人に回復され、仲良くなって意気投合したと思ったら
私は魔王だ、お前を殺すと脅される。
殺される覚悟をしたら急に笑い出し、冗談だごめんと騒ぎ出す。
厨二病みたいな才能がある事が発覚し、痛い思いをして左腕に紋章をつけ
人を殺せる魔法具をもらい、元の世界に無事帰還する。
こんなフルコースを味わったのだから、放課後に友達と遊びまわる子供より、終電まで働くサラリーマンより、この時ばかりは疲労感があると胸を張って言える。
今日だけは、世間のみなさんにごめんなさいをせずに堂々と眠れるんだ。
僕は敷きっぱなしの布団にバタンと倒れこんだ。