きゅーじゅー。
ん、と小さな声が背中から聞こえた。どうやらようやく姫森が目を覚ましたらしい。もぞもぞと動くので降ろしてやると、姫森はちゃんと自分の足で立った。目をこすりながら周囲を見回している。
「突如として現れた小説家。そして、師もいないのに魔法使いとなった少年。君たちは、わたしにとって完全なるイレギュラー因子だ」
能面のような無表情で、男は早見と水澤を見る。
姫森が後ろで、誰? 何? と混乱しているようだったが、雰囲気ゆえに訊くこともできないらしく、こちらも説明する余裕がないためスルーする。
「――だが、小説家の方はまだいい。君の出現には、まだ説明ができる。だが、魔法使いの少年。君だけは、どうにも理解できないのだ」
「ちょっと待ってくれ。私の出現には説明がつくというのはどういうことだ? 今の貴方の話では、貴方のその行動はおよそ成功していたのだろう。それなのに私が現れた説明が、どうしてできるんだ?」
割り込むように男の言葉に口を挟んだ水澤にも、男は何も気を悪くする様子はなく、どころか実にあっさりと、言った。
「それは簡単なことだよ、小説家。――君は、この時代の人間ではないからだ」
は、と早見は眉根を寄せる。どういうことだ?
だが、水澤は息を呑んで絶句し、裁縫は何か思うところがあるのか、成程ね、と小さくつぶやいている。
「なあ、おい、裁縫、どういうことなんだ?」
「時間流遡行の技術は、その理論自体は既に完成しているんだ。ただ、その実用には全く意味がない、という理由で実用化されていない、というだけでね」
「意味がない、って?」
「制式化された理論によれば、これには並行世界理論も関係してきてね。並行世界の誕生は、時間的進行における、ある一点の分岐によって起こる、というものだ」
意味が解らん、と早見が言うと、裁縫は珍しく早見を小馬鹿にすることなく素直に、そうだね、と考え、
「例えば二本のに分かれた道があるとする。右の道と、左の道だ。この二本の道はどちらも同じ目的地に通じていて、距離も、障害も全く等しい。だがこの二本のどちらか意外に道はない。そのときキミはどちらの道を通る?」
「そんなのは……どっちでもいいんじゃないか?」
「そう、どっちでもいい。けれど、その選択肢で世界は分かれるんだよ。右の道を選んだ世界と、左の道を選んだ世界にね。これは些細な違いのようであり、実際にそうなんだけれど、そのまま世界が続いていくうちにいつしかもっと大きな差異を持つようになる」
「いや、でも、そんなこと言ったら、並行世界って言うのはとんでもない数存在することにならないか?」
「その通りだよ。並行世界と言うのは途方もない数存在する。無限大にね。――そしてこの理論を時間流遡行に用いると、時間流遡行がどうしようもなく無意味だということがわかる」
「わかるのか?」
「わからないのかい?」
簡単なことさ、と裁縫は言う。
「時間流遡行をしたところで、過去を変えることはできない、ということさ」
「――あ、成程」
「過去に渡って何をしたところで、そこで並行世界に分岐してしまうだけだからね。昔はよく議論されたタイムパラドックスの問題も、そもそも議論するだけ時間の無駄、という結論になった。――それに、単純な技術力の問題もある。行ったら帰ってこれないんだよ」
「え、そうなのか?」
「うん。何せ時間というものは止まらないんだからね。川を思い浮かべればいい。手を浸したその瞬間のその水には、もう二度と触れることはできないんだよ」
成程、と言いながらも、早見はわかったようなわからないようなという顔だ。
と、乾いた拍手が連続する。
男だ。
「さすがだよ、科学の娘。御名答。まさしく満点の回答だ。そしてそれは、前時代でも同じ結論で終わっている命題でもある」
「時間についての話はわかった。だが、それと私がどう結び付くんだ?」
水澤が険しい表情で男に問う。そう、そもそもその話から始まったのだった。
どういうことだ?
「そのままの意味だよ。わたしの意識操作は確かに完璧だった。この世界のこの時代に純生の小説家は、やはりいない。――君は数か月より以前の記憶がないだろう?」
男の言葉に、水澤は頷く。
「ないな、確かに」
「その時点で時間を渡ってきているからだよ。なに、そう疑わずとも、君の転移はわたしが初めから観測していた。データもある。実に貴重な資料だよ」
「観測……私の存在を知っていて、その上で泳がせていたのか?」
水澤の疑問に、しかし男は頷かない。
「少し違うな。わたしは確かに君の転移を観測はしたが、君が何者なのかまでは初めからわかっていたわけではないよ。ましてや小説家であるなどとは――小説家の“発想力”を有しているとは。皮肉なものだ。それと、残念ながら、君が“どこ”から転移してきたのかは、さすがにわたしでも推測の域を出ない」
「いつなんだ。その、貴方の推測では」
「聞いても仕方がないと思がね。まあ隠す必要もないから答えると、この世界に限定するなら戦争終結から少し時を経た頃だ。だが、同一直線上の世界からやってきたとも考えにくいからね」
他に何か質問は? と男は鷹揚に促す。
少しの間沈黙が続いたが、今度は早見が口火を切った。
「――それを、どうして俺たちに話す?」
男を睨み付けるようにして、早見は言う。
「難しい話は、正直よくわからん。でも、要点はわかった……詰まる所、お前はこの天空都市で、そしてこの千年の間に誰も物語を語れなくなったのも、小説家が消えていったのも、あんたが手を出したことなんだな?」
「そうなるな」
男は頷く。ならば、と早見は凄む。
「どうして俺たちにそれを話す? いや、そもそも、世界中の機関に水澤さんを――小説家の情報を与えたのは、あんただったりするのか?」
「その指摘はおよそ正しい」
男は、軽く頷いて肯定した。
「事態はわたしの予想通りだったよ、魔法使いの少年。君にそこの科学の娘が接触することも、君たちが小説家を保護しようとすることも、その結果この天空都市へ退避してくることも――もっとも、本当にあの防空圏を抜けて来られるとは、思っていなかったがね。撃墜されたところを、小説家のみ回収するつもりでいたが」
大したものだ、と気持ちのこもらない賞賛を寄越してくる。それに対して、早見は何も応じない。
身構えている。
「あんたが、原因だったんだな――元凶だったんだな。なら、あんたがいなくなれば、この一連の事件は終わるわけか?」
「話がいささか短絡に過ぎるが、まあ間違ってはいない。――実験はまだ途中だ。意識改革も、わたしが影響を与えているから保たれているのであって、変化はまだ完成していない。もしもわたしがここで実験を中止せざるを得なくなったとすれば、時間は要するだろうが、いずれ人類はまた“幻想”を取り戻すだろう。小説家も現れ始めるだろう――ならばどうする? 魔法使いの少年」
早見は、すぐには答えない。
対して、男は嗤った。
軽薄に、冷酷に。
嗤った。
「初めの質問に答えていなかったな――答えてあげよう。全ては好奇心だよ。わたしの知的好奇心。何をどうすればどうなるのか。全てはそのためだ。君たちをここに導いたことも、こうして話を聞かせたことも――さあ」
どうするのかな? と男は問う。
「君はどうするのかな? 魔法使いの少年。戦うかね? 物語の主人公として。明らかになった巨悪と対峙するかね? 対峙し、退治するかね? 戦う理由はあるぞ、魔法使い――“幻想”を生まれ持った少年よ」
男は正面から、早見を見据えた。
「君が“幻想”であるというそれだけで、君は十全にわたしの敵だ」
対して、早見はすぐには応じない。
拳を固く握りしめ、
一度、二度と深く呼吸し、
その上で視線を上げ、男の視線と真っ向から向かい合う。
「俺は主人公じゃない……だけど」
言う。
「だったらあんたは、俺の敵だ」




