さんじゅうきゅう。
状況の打開、と裁縫は言った。それはつまり、
「それはつまり……どういうことだ?」
早見が裁縫に問うと、裁縫は片目を瞑って見せた。
「簡単なことだよ。今までの小説家が、小説家でありながら大過なく生まれて生きて死んでいったのは、世界に小説家として知られていたからだ。ならばすーちゃんもまた、一冊でも小説を著して世界にその存在を知らしめればいい」
すーちゃん、というのが水澤だとしても。
そんな簡単なことで済むのだろうか、と早見は内心に思う。
「そんな簡単なことでいいの? それだけで本当に、もう機関とかに襲われずに済むの?」
姫森も同じことを思ったようで、こちらは内心にとどめずに訊いている。すると裁縫は肩を軽くすくめて、
「簡単なこと、って言うけどねえお姫ちゃん。それはそんなに簡単なことかい? 少なくとも現状、すーちゃんにしかできず、この場にいるボクら三人には逆立ちしたってできないことが?」
「それは、まあ、そうだけど」
成程もっともだ、と早見は思う。そして勢いを失った姫森に、裁縫は頷きを見せる。
「逆立ちしたって、っていう表現はたまに見るけれど、実際のところ、逆立ちしてできることって普通に立っていてできることよりずっと少ないよね」
それはまあ、割とどうでもいいが。
どうなのよそこんところ、と言う思いで三人が水澤を見ると、水澤はちょっと困ったような笑顔で小首を傾げ、
「……できるかできないか、って言えば、うん、確かに簡単なことじゃないんだけれど……そうしなきゃいけないって言うなら、やってみるよ。頑張ってみる」
おお、と早見と姫森が感嘆の声をもらす。だが水澤の言葉にはまだ続きがあった。
でも、と。
「でもね……今はちょっと、どうしてもできないかな」
え、とたじろいだのは姫森だ。
「どうして?」
問いに、水澤は変わらず困った笑みのまま、やや俯いて、
「その、ね。眼鏡、が」
「うん? 眼鏡?」
早見が訊き返すと、水澤は頷いた。
「私、そういう創作のときって、いつも眼鏡をかけてやってるの。だから、眼鏡をかけないと、その、なんていうか、“切り替わらない”というか……」
? と早見と姫森は疑問を顔に浮かべる。すると、いつの間にかまた端末をいじっていた裁縫が、へえ、と、
「成程ね。それじゃあ、創作するためにはその眼鏡が必要なわけか。何でもいいわけじゃないのかい?」
「うん……できれば、使い慣れた奴の方がいい、かも」
「それは……それはどこにあるんだ? 今できないってことは、ここにはないんだよな……まさか、どっかの機関か?」
それは困るな、と思いながら、早見が問いかける。困る、というか、かなり面倒な話になる。だが幸いと言うか、これには水澤は首を横に振った。
「ううん、眼鏡は、初めて“保護”されたときからもう持ってないんだ。多分、部屋にそのままだと思う」
「部屋……っていうと、キミの住居は西京にあったね。じゃあ、西京か」
端末から顔を上げずに裁縫が確認する。確かに、それは少し前に聞いた気もする。だが、それを聞いた水澤は、妙な表情をした。
不可解、だ。
「セイキョウ……って、どこ? 京都のこと?」
と、そんなことを言った。
だが、それを聞いてむしろ困惑したのは早見の方だ。
「キョウト、って、何だ。いや。どこだ?」
やはり姫森も同じ困惑を持っていたようで、頷きを見せている。え、と水澤がさらに困惑を深めた顔になるが、
「いや、京都で間違いじゃないよ。京都と西京は同じところだ」
ようやく端末から顔を上げて、裁縫がそう言った。
「え、それは、どういうことだ?」
「名称が変わっている、ということさ。遥か古代から西京は西京だったけれど、歴史上のある一時期においてのみ西京は京都と呼ばれていた。ちなみに同じころ東都は東京だった」
聞いたことのない話だ。それに、
「……いやそれにしても、何で水澤さんが西京を知らないでその、京都って呼び方の方を知ってるんだ?」
「それはまだわからない」
きっぱりと言ってしまう姫森。
「まだそれはボクも考えている途中のことだ……あとで、すーちゃんにも確認することになるよ。――まあ、それはそれとして、できたよ。すーちゃんの端末だ」
はい、と裁縫は自分の端末に二、三の操作を加えた。
すると、ヴン、という虫の羽音のような音を鳴らして、水澤の正面に端末の仮想枠が表示された。わ、と突然のことに驚いた水澤は軽く仰け反る。
「すーちゃんで個別認証してあるから、画面中央の承認パネルを触ってくれ」
何て事のないように裁縫は言う。どうやら先程まで延々と端末を操作していたのはそれを行っていたようだが、しかしそれは、
「どうやってやったんだよ……端末の個別認証って、それだって統合情報中枢の登録が必要だろ。まさか登録したのか?」
「いや、してないよ。そこはそれ、ボクのマル秘テクニックって奴さ。チートって言ってもいいかな」
誇るでもなく、無表情に裁縫は言う。
「諸所の細かい調整は済ませてある。だからこれからはそれで、小説の執筆を行うといい。使い方はマニュアルを添付してあるけれど、わからないことがあったら訊いてくれ」
うん、と頷きはするものの、まだ水澤はそれと距離をとったままで触れようとしない。
「どうしたの?」
姫森が訊くと、水澤はぎこちなく微笑して、
「いや、その……私、こういうの、触ったことないから」
え? と姫森は首を傾げる。それもそうだ。このタイプの端末が普及したのは遅くても数百年前。個々人のレベルにまで一般化されてからそれくらいは経過しているし、そうでなくても端末と同形式のパネルに触れる機会は少なくないはずだ。確かに水澤はどういうわけか個人の端末を持っていないということだが、触れたことがないというのはおかしい。
しかし、裁縫はそこは深く追求せず、
「まあ、別に触っても爆発したりとかはしないからさ。それなら折角書いた原稿を失くしてしまうこともないだろうし、いつでもどこでも執筆できるんだ。損をすることはないから、そんなに怖がらなくても大丈夫だよ」
うん、と再度頷いて、ようやく水澤はそろそろと手を画面に伸ばした。
「それは、まあ別に悪魔との契約っていうわけじゃないんだけれども」
ぽつり、と裁縫が言った。
「何かを変えていく、っていう約束では、あるかもしれないね」
早見にも、姫森にも不可解な言葉だ。そして、それで水澤は画面に触れかけた指を寸前で止めてしまった。
けれどもすぐに、
「うん。わかってる」
そう言って、指先を承認パネルに触れさせた。




