ひゃくに。
それまで休みなく連打し続けていた端末の画面には、ここまで書き続けた長い文章がある。
それを、いともあっさりと、二、三の指運で全て削除してしまった。
「………」
吐息して、椅子に深々と座り込む。
書き上げたものを全て削除してしまうのは、これが初めてのことではない。一度や二度でもなく、実のところ何度もやっている。
時間稼ぎ、というわけでもない。事実、気に入らないのだ。
「………」
見るともなく、天井を見上げる。
「……私は、小説など書いたことがないからな」
ぼそっと、つぶやいた。
壁際に待機している自動人形は、しかし別に反応することもない。
観察されていることは、わかっている。行動や、独り言だけではない。生体反応や、脳波など、全てモニタリングされているのだ。
あの男が自分でそう言っていたのだから、間違いないだろう。
もしかすると、何を考えているのかまで全て見通されているのかもしれない。創作というのは根本的に頭の中、思考の枠内で行われるものなのだから、そうであっても不思議はない。
それでも構わず、水澤は独白し、思考する。
確かに、創作することは好きだった。それは物語に限らず、美術関係もそうだった、はずだ。
いかんせん、幼少の記憶がないために断言はできないが、根拠もない確信が心底にある。自分のことだ。それならば、確かにそうだったのだと思ってもいいだろう。
だが、そうかといって、何か“確かなもの”を創り上げたことなど、一度もない。
ましてや、小説など。
「………」
今、小説を書いているのだって、周りからそう言われているからそうなのだろうと、流されるままに書いているだけだ。
あの男が。
裁縫が、姫森が。
早見が。
水澤は小説家なのだと。
まだ一冊も書いたことなどないのに。
ただ、皆がそう言うのなら、そうなのだろう、と。
しかし、水澤自身にそんな確信などない。
どころか、自分が何者であるという理解もない。
ずっと考えないようにしていただけで、急変する状況に紛らわせていただけで、記憶がないというのは、酷く危ういものだ。
自分が誰なのか、わからないのだから。
自分の名前と、そんな気がする、という自己への、記憶などとはとても言えない、感覚のようなもの。
それが全てだ。
それなのに、お前は小説家だ、だから小説を書け、などと、急に言われても。
そんな簡単に書けるものではない。
小説など、どうやって書いたらいいのだ。
誰にも教えてはもらえない。この世界にはもう、小説家はいない。
自分、ひとりしか。
だが、書きたい物語が見つからない。
ただ、小説めいたものをだらだらと書き綴り、すぐに気に入らず全て消し去って最初からやり直してしまう。
その繰り返し。
「……ああ」
天井を見上げたまま、水澤は吐息した。
観察されていようと、観測されていようと、そんなことは別にどうでも構わない。
「こんなに長く眼鏡をかけたままの側にいるのは、多分生まれて初めてなんだけど――」
凛とした雰囲気を今だけは失って、水澤はつぶやく。
「――眼鏡を外したら、挫けそうだ」