08.リーバの誘惑
母も結婚式で着た衣装。
かつて、アリーニもルフィネも衣装負けしない美貌の花嫁として賞賛された。
数年が過ぎた今でもその美貌は薄れることを知らなかったが、
無残な姿で魔法の力によって力を封じ込められたルフィネは、
両腕を吊るされたままでいる。
何度意識を失っては目覚めたかわからなかった。
――もう私は……。
どんどん堕ちていく気がした。
それでも彼女の時々遠退く意識は、まだ残されている。
自分はどうなってもいい。
リタを護るためならば……と。
だがそれも徐々に薄れつつあることも確か。
ルフィネはボロ雑巾のようにくたびれた身体と精神で、
今ではこう思うようになっている。
何故自分がこんな仕打ちを受けなければならないのか。
いつまでこんなことに堪え続けなければならないのかと。
もう誰も自分のことなど忘れ去ってしまったんじゃないかしら。
もしかしたらセシリーでさえも……。
――許せない。
リュゼルは満面の笑みで微笑む。
ルフィネの積もり積もった憎悪が自分ではなく、別の方向へ向けられていることに。
「自分だけがこんな目に遭って、どうして誰も助けに来てくれないのか……」
彼の的確な代弁に、顔をもたげていたルフィネはゆっくりとリュゼルに視線を巡らす。
「今頃仲間たちは、自分のことなど忘却の彼方。
何事もなかったかのように幸せな日々を送っている。そんなのは理不尽、許せない」
淡々と見透かして心境を語るリュゼル。
消えかけた炎が、ふいごで息を吹きかけられもう一度燃え上がるように、
ルフィネの炯眼が爛々と輝く。
「そうだ、その調子で憎しみをもっと増幅させてごらん。そうすれば君は楽になれるよ」
リュゼルは、ルフィネの恨みに変貌した表情をうっとりと眺めながら訊ねた。
「――復讐したい?」
その返答に彼女がためらいを見せる瞬間は窺えなかった。
――したい……させて……しなければ気が済まない……。
「いい子だ。正直な気持ちは大切なことだ。どんなに屈辱を受けて罵られても――」
煽りながら、ルフィネの唇を奪った。
まるで契約でも交わすかのように。
岩の陰から二人の様子を見ていたリーバは、歯噛みし顔を歪めていた。
鋭い眼光で睨みつける矛先は、無論、目の前で絡み合う二人。
堪え切れなくなった彼女は、嫉妬を燃やしながらその場から立ち去った。
リュゼルは自分だけのものだった。
今までは、自分に接吻をするリュゼルに愛があろうとなかろうと構わなかった。
けれどルフィネがここへ来てからは違っていた。
自分だけを愛してほしかった。
彼の愛が欲しかった。
偽りのない真実の愛が――
***
突然の揺れにも驚かなくなったのは、随分と慣れ親しんでしまったおかげか。
震源地は、ここより僅かに離れた一段と高い三角形の鋭利な、通称、三角山。
その山は普通の山ではなかった。
異界に通じると語られている入り口で、古代、光と闇の種族たち――
エフェ族とメラル族が戦った際に封印されてより、
そこに至る入り口は見えない魔法のバリアーで妨げられ、
どんな魔法であっても外部から中を見透かすことさえ不可能だった。
ただ、そこへ通じる要の一つが、セシリーのいるここ、エリオーネ神殿と伝えられている。
ハーラ・ウー・トートイトはかつて神々に最も近い聖地と讃えられた高原地帯で、
セシリーが来るまでは風化にさらされた廃墟に等しい状態だった。
忘れ去られたも同然の女神エリオーネは、人々の信仰からも遠ざかっていた。
セシリーの日課は主に、自室で古書を読み耽ること。
この辺りの岩盤には、水晶が多く含まれていて、事実、エリオーネを取り囲むように、
巨大水晶が立石のように剥き出しに配置されていた。
古代に造られた大きな空間移動装置であることは確かで、
これを利用してあの山へ入る手段である可能性は高いだろう。
だが、この神殿は機能していなかった。
封印を解かなければならず、その鍵を知るためにセシリーは試行錯誤している所だ。
何か知っているであろうリュゼレオン王子が口を割れば、
ことはたやすいのだが、一筋縄ではいかないから苦労するのだ。
セシリーはふと窓の外から遠くを見やる。
何の因果か、
エリオーネ村が隠されてあるという目印の石碑が、この神殿のすぐそばにあった。
二度入った経験があるあの村には、自分からは入れない。
女神エリオーネの許しと導きがなければ、開かれることのない幻夢の村。
その中で七年間、女神に護られながら暮らしていたリタ。
村には死んだと思われていた、十四年前に人間界を崩壊寸前にしたシグネもいて、
あろうことか村でただ一人の牧師と教師をしていた。
全ては慈悲深き女神の計らい。
シグネは今でも牧師として純真な気持ちで、村人に献身しているのだろうか。
シグネにはかつて、結婚の約束をしていた恋人がいた。
その恋人をも捨て、彼は人間界に混乱を招かせた。
――ルフィネ……僕は君を忘れたり、見捨てたりなんかしない、絶対に……。
「あの時一度切りしか襲って来てないんだしさ、
あの異形たちもきっと通りすがりの気まぐれ、ただのストレス発散だったんだよ。
だから特殊魔法部隊、だっけ?
そのダサいネーミングの警備隊も、もう不要なんじゃない?」
リュゼレオン王子は組んだ片足をプラプラ揺らして気だるそうに応えた。
明らかに、会議に参加しているのも面倒臭いといった口振りと態度だ。
「四年過ぎたってのに、敵のての字もわかっていないようじゃ、
アウドリックも大したことないよね」
――なっ……!
アウドリック人は、声を発しての会話も可能だったが、
アウドという潜在能力を活用して、頭の中で会話するのが常だった。
だが敢えてリュゼレオンは、言葉で話し続ける。
「また襲われたら襲われたで別にいいけどね。
どうせ魔法力も弱まって、未来も見れなくなってしまった仕様のない魔法国だしね」
――何という畏れ多いことを……。
拳を握る重鎮たちが、憤りを抑えながらわなわなと震えている。
中には汗を拭きながら天井を仰ぎ、何度も深呼吸する者もいた。
「ま、僕にはどうでもいいことだけど本当はわかってんじゃないの?
実は黒幕が誰なのか。わからない振りをしているだけだとか」
剣呑に光るリュゼレオンの冷ややかな眼が、宰相をじっと見据える。
寡黙する年老いた宰相は、黙ってそれを受け止めていた。
――何を恐れているの?
さっさと捕まえて、拷問でも何でもして白状させてしまえばいいのに。
リュゼレオンのアウドが低音の響きとなって伝わる。
――王子……、お言葉が過ぎますぞ。そのような軽率なご発言は慎まれて下され。
幾ら異形の襲撃がないとは申せ、油断は大敵。
護り固めておくことも大事な国の務めですぞ。
宰相が率直に意見を奏上する。
ケルスカーザレオン王がこの場にいれば、王子を叱咤したに違いない。
王の亡き後は、王子が王座に即くまでしばしの間宰相が、
アウドリック国の全権を任せられていた。
辺りがざわついた。
口端を弛ませるリュゼレオンが笑みを浮かべ、
両腕を伸ばして背伸びをしたついでに大仰に欠伸をしてみせる。
「じゃ、魔法特殊部隊が無駄だってわかった所で、僕は下がらせてもらうよ。
退屈なのは性に合わないよ。
あ、それから、今後部隊がなくなっても僕に報告は要らないからね」
テーブルに両手を着いて、ガタンと音を立てて彼は席を立った。
解放されたことに嬉々として、颯爽と扉の方へ向かって歩いていく。
残された王や臣下たち一同は、あきらめの混じる嘆息をし、
やれやれと疲れ切った表情で頭を振っていた。
王子の後ろ姿を、重鎮たちは険しい顔つきで見えなくなるまで凝視している。
会議が執り行われていた部屋を出たリュゼレオンは、
廊下を歩き出そうとして不意に足を止めた。
こちらに近づいて来る特殊魔法部隊の一行を待つために。
不審者はどこから侵入して来るかわからないもの。
外の見回りだけではなく、
こうして城の中をも手練の魔法師たちを伴って巡回していた。
「随分と誇らしげだねぇ、ロミージェン隊長。見回りはつつがなく順調かい?」
――はい、殿下。
王子の御前で立ち止まったロミーと魔法師たちは軽く頭を垂れたが、
小バカにしたようにせせら笑う王子は、先頭に立つロミーだけを目に入れて口にする。
「でも暇だろ? あまりにも平和過ぎて、
何でこんなことしなきゃいけないんだろうって、内心思っているんだろ?」
――いえ、そのようなことは……。
「いいんだよ、君ももっと気楽にして。あんまり忠実すぎると、
そのうちストレスが溜まって、君自身が駄目になるよ?
せっかくのいい男がダサダサだよ」
――とんでもございません。平和こそが真のあるべき姿です。
引き続き気を引き締め、命を賭けてこの国をお護り致します。
「はん。腰抜けの溜まり場を護って何が面白いんだか。君はそれで満足なの?
本当は君だって魔法で戦って活躍してみたいと思ってるんだろう?
魔法を使って敵を倒して名を上げてみたり……。それくらいの野心はあるよねぇ?」
ロミーはそっと息を吐き出しながら、自分の意見を述べる。
――いいえ。本来、特別な場合を除いて、
魔法をそのようなことには使ってはいけない決まりです。
私は争いごとは勿論、名誉などほしくはございません。
ここが腰抜けの溜まり場だとおっしゃるのであれば、私はそれで構いません。
むしろ光栄に受け止める次第です。
王子は鼻を鳴らして笑った。
どこまでも小バカにする王子。
「嫌になるほど君たちってどこまでもそっくりだね。
兄弟そろって超のつくクソ真面目」
それまで努めて無表情だったロミーの顔にも翳りが差した。
兄・セシリージェンと比較されたり、
そっくりだと言われることが彼の気に障るタブーなのだから。
ここは角を立てず、心を読まれぬよう冷静沈着を貫き通すためにも、
この場を切り抜けなければならない。
「セシリージェンと魔法対決させたらどっちが強いかなぁ?
――血は争えないって言うから、共倒れかな」
さりげない数々の中傷は今に始まったことではない。
王子はそうやって人を弄ぶのが好きな性格なのだ。
面白がっている。
大丈夫、このくらいは堪えられた。
が、しかし――
「それよりも、あの子を戴いた方が面白そうだ――勿論、君の反応がね。
何、僕が本気になれば簡単なことさ。
そうなったら君は僕に攻撃魔法をぶっ放して、戦ったり殺そうとしたりするのかな?」
刹那、ロミーの双眼が鋭くなった。
拳を握る手も震えている。
『あの子』が誰を指しているのかを知っていた。
もし本当にそんなことになったら、自分はどんな行動を起こすだろう。
ただ思い切りその高慢な顔を殴るかもしれないし、
最悪、殺してしまうかもわからなかった。
それが例えこの王子でなくても、彼女を奪うような男は誰であろうと……。
――さて、そろそろ次の段階へ行くとするか。
リュゼレオンが部屋へ戻ると、黒い外套を身にまとう何者かが待機していた。
リュゼレオンの表情は冷たいままだ。
――リーバ……。
そう名を呼ばれた女は、ゆっくりと王子へ歩み寄ると、
彼の身体に自らの豊満な肉体を預け密着させる。
――私の出番ね。
――ふん、お前の手は借りるつもりはない。邪魔立てするな。
――あら、私だって以前からやっているお仕事があるのよ。
その続きをしに来たの。リュゼルこそ邪魔しないでよ。
あれは私の大事な獲物なんだから……。
下ろされたフードからこぼれ落ちた赤紫色の長い髪が、
リュゼレオンの身体に艶めかしく絡みついていた。
***
僅かに柱や壁が建つだけの廃墟のようなフィル二ー神殿で、リタは佇んでいる。
目を閉じ両手を広げ、そして――歌っていた。
風は旋律。
それに乗せリタの魂が歌っていた。
自分の歌声が全身に鳴り響き、神殿一帯にまで染み込んでいくように共鳴していた。
「美しい……何て美しい歌声なんだ。こんなに綺麗な歌、聴いたことないよ。
リタちゃん、今の歌、もう一度歌って」
「テス。今なんて言ったの?」
「今の歌、もう一度歌って、って言ったけど?」
「――嘘……」
「嘘じゃないよ。マジ本気」
「夢じゃないわよね!?」
「じゃないねぃ」
人生で初めて歌を褒められた。
即興だったが詩に合わせた短い歌だったので、旋律はまだ忘れていない。
彼に促されて、興奮したリタはもう一度歌い出した。
彼女の周りを取り巻いていた風が優しく包み込み、風も共に歌っているかのように――。
「リタちゃんは風になったよ。まさに風の女神フィルニーだねぃ。
ドルンの絵よりずっと稼げるよ」
リタが歌い終わると、笑顔のテスが拍手を大仰に叩いてみせる。
昔、森の木々を伝っている間、
自分が風になっていた時のことをリタは思い出していた。
懐かしい思い出を――
「猿じゃないでしょ?」
「へ? 猿? 猿が歌うの?」
その時、絵を描き終わったドルンが立ち上がる。
ため息交じりの、明らかにうんざりした面持ちで。
「満足したか? そんじゃ、次へ行くぞ。
次は何て言う神殿だ?――おい、聞いてんのか?」
「あ、ごめんなさい。次はレンギオ神殿……」
「――泣いてんのか?」
「ううん、何でもない」
両目をゴシゴシとこすって、リタは微笑んだ。
自分の歌に陶酔したのか何なのかは謎だったが、歌い終わった彼女は涙を流していた。
「おいらだって泣けたよ~? 物悲しくも儚げな美しさ。
それは哀愁という切なさを秘めた」
「寄るな、うっとうしい」
ズズイとドルンの前に現れた、鼻をすすりながら陶酔するテスの顔を押しやる。
「でも不思議な歌声だったよねぃ。
一人で歌っているのにまるで二人ではもってるみたいに聴こえた」
「お前の耳もどうかしている。あんな音程の狂った歌のどこが――」
「リタちゃんは歌の才能があったんだね」
つき合い切れんと肩をすくめたドルンは、
画布より小振りの手にしていたメモ用紙をポケットにしまい込んで馬車の方へと歩き出す。
「それとリタちゃんは、恐らく磁場を読み取る能力が、人より長けているんだろうねぃ」
「磁場?」
「その土地の見えない、身体で感じる何か。ドルンが絵を描くのと似たようなものだよ」
「……?」
「つまり芸術家ってことさ。芸術家ってのは、何かを感じることが上手いだろう?」
「――そうなの? よくわかんないけど……」
でも自分は、そんな立派なものじゃないとリタは思う。
自分には才能なんてものは何もないし、魔法も使えない。
年頃の少女たちの憧れる恋愛要素を、身近な人物に投影させただけの――
「テスはさぁ、あいつの絵を売って生活費になんて言ってるけど、
本当は……ドルンの絵をもっと多くの人たちに見てもらうのが目的なんじゃないの?」
テスが馬車に向かって歩き出した途端、
不意に呟く彼女の言葉に、振り返らずに彼は立ち止まる。
「……鋭いねぃ。だってほら、そうしないとあいつ、
いつまで経ってもただ描くだけ描いて、後はしまっておくだけだからさ。
ドルンの才能を埋もれさせたくないんだ――」
そう告げて、再び歩き出した。
その背中を微笑んで見つめていると、ドルンの急き立てる声が響いてリタも走り出した。
その背を、遠くから見つめる視線があった。
正確には、彼女の中に居続ける存在を。
かつての同士を見つめるいくつもの目が――神々たちの眼差しが。
アウドリック特殊魔法部隊にあてがわれた誰もいない執務室で、
隊長であるロミーは深いため息をついていた――
が、誰かが近くにいる気配を感じ、身構えたロミーは声を発した。
「誰だ?」
彼の前にスッと現れたのは、フォスカだった。
いつの間に入って来たのだろう。
音さえしなかった。
彼女は笑みを浮かべてゆっくりと近づいて来る。
「フォスカ? 何故こんな所に……? 何か用事でもあるのか?」
「用事ならあるわ。だって、もう我慢できなかったから……」
何を言っているのかさっぱりわからなかった。
何だか様子がおかしい。
「我慢?」
「私の気持ちを知っているくせに、あなたはいつだってリタのことばかり……。
どうしていつもあの子だけ見ているの? あなたが好きなのは、この私なのに!」
駆け出したフォスカが、椅子に腰かけるロミーの胸に飛び込んで来た。
こんなにも積極的な彼女は見たことがない。
抱きつきながら顔を上げたフォスカは、涙ぐんでロミーを見上げた。
そしてその唇が、ロミーの唇へと重なっていく。
――フォスカ……。
やがてむさぼるように彼の口腔を奪う。
「ロミー様……」
刹那、フォスカの首がロミーの手で締められた。
――お前は何者だ……?
下に組み敷くフォスカの頭の中に、直接ロミーはアウドで訊ねる。
女はくすりと笑って、真っ直ぐ彼の青い瞳を見つめていた。
――あら、気づいていたの? 敏感ねぇ。
だったら残念だけど、今日はここまでよ。
続きはまた今度にしましょうね。楽しみにしておいて頂戴。
フォスカに乗り移っていた女は、
ロミーの頬を指で辿らせながら、フッとその場から消え去った。
くずおれるフォスカの身体を咄嗟に抱きかかえる。
(――こう易々と入り込まれるとは……)
一体どこから入り込んだというのだろうか。
今も他の隊員たちがアウドリックの周りで、厳戒態勢を敷いているというのに。
いざとなっても何の役にも立たない特殊魔法部隊の無意味さを痛感し、
ロミーは机上で意識を失うフォスカを見下ろしながら嘆息する。
「う…ん……」
意識を取り戻したフォスカが、
パチクリと目を見開いて真上のロミーを見上げていた。
「――大丈夫か?」
「きゃあ! ロミー様ったら大胆ねっ!
いつの間に私をこんな所に連れ込んだの!? や、優しくして」
「……」