07.イヤリングの力
東へ行けば行くほど、森の様子は重々しい空気に支配されて行くようだった。
道の両端に生い茂る木々たちが、心なしか襲いかかって来るように禍々しく見えてしまう。
鳥たちもギャアギャアと不気味に鳴いている。
吸い込む空気もどこか息苦しくて、こんな所を一人歩こうとしていた自分に、
馬車の幌の中でリタは今になって後悔し始めていた。
無知とは何と恐ろしいことだろうかと己の浅はかさをいさめるが、
それとは裏腹に怖いもの見たさで、この闇の先には何があるのだろうかと興味も湧く。
馬車を走らせていると、少し開けた場所に出た。
今夜はここで一晩明かそうと決めたドルンだったが、
馬車が急に止まったため荷物と一緒に揺られていたリタは、
バランスを崩して荷物の中へと突っ込んだ。
「いった~……ちょっと! もう少し静かに停まれないの!?
性格と一緒で本当に乱暴なんだから!」
「降りろ」
「何でよ!? また機嫌でも悪くなったって言うつもり!?」
「今夜はここで夜営だ」
馬車につけていた取り外し可能の角灯を手に、ドルンはさっさとどこかへ消えてしまった。
御者台から降りたテスは、手を差し伸べ、荷台からリタが降りるのを手伝ってやる。
「ねぇ、テス。あいつ、何してるの?」
「薪拾いと狩りだよ」
「ってことは焚き火ね。狩りって……何を?」
「野ウサギ。ドルンにとっては共食いみたいなもんだよねぃ」
「だ、誰が料理するの?」
「このおいらだよ」
正直、抵抗はあった。
ドルンが捕まえたウサギを、
随分手馴れた様子でテスが器用にさばいていく場面はとても正視できない。
だけどそれが自然界で生きるためだと言うのなら、仕方のないこと。
ここは森の恵みに感謝して、素直にいただくことにする。
ドルンとテスが交替で見張り番をする一方で、
リタは持参の掛布にくるまってドングリの木の下で眠っていた。
そして現在、焚き火の反対側の馬車のそばでは、テスが寝息を立てて熟睡している。
(――全く、いい気なもんだぜ)
先程、何食わぬ顔でリタの隣りに添い寝しようとしたテスは、
彼女に思い切り突き飛ばされていた。
ドルンは遠くからリタの寝顔を、ただじっと見つめていた。
火の灯りに照らされた無邪気なその寝顔を。
真上には月が昇っていた。
空には下弦の月――。
その時、ガサッと葉のこすれる音がして、
ドルンは全神経を周囲に張り巡らせながら素早く身構える。
しかしそれ以上、幾ら待っても何かが襲って来る気配はなかった。
ふぅと息を吐き出した彼は、静かに馬車の方へ詰め寄るとテスの背中を足で軽く蹴る。
「おい、起きろテス……」
小声でささやくも、熟睡するテスは一向に起きようとする様子がない。
「う~ん……こんな所で駄目だよリタちゃん……ムニャニャ」
「起きろっ!」
「あひゃんっ!」
背中を蹴り上げられ、素っ頓狂な叫び声を発したテスが跳ね起きた。
右手で背中をさすりながら愚痴を漏らす。
「酷いよドルン……。何も蹴り上げなくたって……」
「交替の時間だ。気を抜くな。しっかり見張ってろよ」
ドルンは涼しげな顔でテスが横たわっていた場所に腰を下ろすと、
車輪に寄りかかってそのまま目を閉じた。
焚き火の向こう側で眠るリタを、さりげなく一瞥してから……。
***
「――で、あんたの行きたいと言うジブエ神殿は、まだ当分先なのか?」
「うーん、そろそろだとは思うんだけど……」
本を開きながら、道や川や谷の位置を見比べる。
地図には、印のついた神殿の場所が記されてあったが、
道からちょっと入り組んだ場所にあるようだ。
しかし行けども行けども、
辺りは何処も彼処も鬱蒼と繁る樹木に覆われているばかりでよくわからない。
「一度降りて、見に行った方がいいかもしれないわね」
「冗談。何が潜んでいるかもわからねぇってのに、下手に降りるバカがいるか。
大体、その本はあてになるのか? 間違ってんじゃねーの?」
「大きな図書館の大切にされて来た古い書物よ! 間違うはずがないじゃない!」
「まぁまぁ二人共。朝から血圧を上げるほど、そう熱くならんでも」
「だってドルンが!」
ドルンとテスの背後の荷台から首を出していたリタは、
ドルンの言動がいちいち気に入らずに常に反駁して口を尖らせる。
やれやれと肩をすくめるテスは、仄かに笑って首を振った。
「君たち、もう少し大人になりたまえ。例えばそう、このおいらのように」
「ろくな大人じゃねぇな」
「あんまり説得力ないわね」
妙な所で珍しくドルンとリタが意気投合する。
テスはトホホとガックリうなだれた。
その刹那――、ヒュンッと矢が飛んで来て、驚いた馬が前足を振り上げた。
「ヒヒヒ――ン!」
「きゃあっ!」
バランスを崩して後ろに転倒しそうになるリタの身体は、
瞬時に伸ばされて来たドルンの腕によって支えられる。
「あ、ありがと……」
思わず口から出てしまった慇懃な自分に驚くが、
それよりも咄嗟に抱き込まれたせいか動悸が静まらない。
しかし今はそれどころではなく、張り詰めた緊迫した不穏な空気が彼らから漂っている。
テスが正面を向いたまま、隣りのドルンに小声でささやいた。
「ドルン」
「ああ、わかってる。――おい、あんたは幌の中に隠れてろ。決して音を立てるな」
「何? 何が起きたの?」
「……盗賊だ」
「え!? 盗賊!? 見たい!」
「あのなぁ。いいからさっさと隠れてろ」
「でも二人は?」
「おいらたちは大丈夫だから任せといて。但し、リタちゃんはそこでじっとしてるんだよ」
「まさか闘うつもりなの!? あんたたちが敵う相手じゃ――」
――ないに決まってる。
そう言おうとして言えなかったのは、
ドルンが掴んでいた腕ごとリタを幌の中へ押しやったから。
いくら何でも、この二人がまともに闘えるようには見えなかった。
不安を募らせ、目の前が真っ暗になる。
されど、何もできないリタは見守るしかできなかった。
神のご加護を信じて待機する他は……。
間もなく、人相の悪そうな男たちに馬車は取り囲まれてしまった。
ドクンドクンと、リタの胸の高鳴りが未だ大きく聞こえている。
「へっへっへ~。金目の物を置いていけば命だけは助けてやるぜぇ~?
但し、拒んだ場合は――わかってるよなぁ?」
下品に笑う男たちは、剣を片手にドルンとテスを蔑んだ眼で見下していたが、
どうせ命をも奪おうとしていることは訊くまでもなかった。
「さっさとトンズラした方がいいのは、あんたたちの方じゃないのか?」
怖気ずにしれっと吐き捨てるドルンに、盗賊たちの目の色が変わる。
「何を――ッ! 野郎共! 絶対こいつらを生かしておくんじゃねーぞ!」
「ひゃっほーぅ!」
歓喜する声が、あちらこちらから響き渡った。
ドクン……ドクン……ドクン。
身体の奥が焼けるように熱い。
何かが暴れ出しそうな感覚に襲われ、リタは自分の両腕を押さえ込んだ。
「な……に……?」
悪寒が背筋を這い上がり、心臓がドクドクと早鐘を打ち続ける。
玉の汗が幾つも浮き上がり、意識が闇の中に呑み込まれそうになる。
キィィイン……と耳鳴りがした。
耳の奥というよりは、耳朶につけた紫水晶のイヤリングからその音は発せられていた。
そして鼓動とが共鳴し――
「駄目……、駄目ぇえええ―――っ!」
幌の中から女の叫び声が聞こえ、訝しげに顔を見合わせた男たちは口の端を弛ませる。
「へっへへ。中に女がいるようだな」
目許を細めたドルンが舌打ちした。
「ったく、あの無知女――」
突然、馬車の後方から近づこうとする男たちの前へドルンは飛び降り、
それを合図に前方へテスも飛び降りた。
素手で男たちの体躯を次々と倒して行くドルン。
テスも相手の身体の内側に入り込んで、腕をひねり上げたり関節を脱臼させながら、
とどめに背負い投げをする。
辺りには乱闘に混じって、盗賊たちの悲鳴がこだましていた。
「久し振りだから準備運動には持って来いだねぃ、ドルン! てやぁっ!」
「ああ、ほどほどにしとけよ……っと!」
「ぐはっ!」
ドルンは襲いかかる暑苦しい男の鳩尾に、咄嗟に肘鉄をお見舞いする。
幌の中のリタは、前屈みに何かに掴まりながら、呼吸を整え落ち着きを取り戻していた。
ただうずくまっていた彼女の身体が汗にまみれているのは、
暴れそうになる彼女の中の得体の知れないモノと闘い、気力で押さえ込んだ痕跡。
――よくも封じてくれたな……。
昔、母を襲った悪夢の光景が蘇える。
自分の中におぞましい何者かが棲んでいた。
二度とあんな自分にはなりたくなかった。
外ではドルンとテスと盗賊たちの声が聞こえている。
彼らは無事な様子。
対等に闘えている様子から察するに、予想に反して意外に強かったということらしい。
それでも今は二人のことが心配だったので、
両手をついて覗き見ようと幌の出入り口へと進んだリタは、
入り口をふさぐ布をそっとめくり上げ外の様子を窺った。
既に、盗賊たちの大半が地面に突っ伏している。
数的にはもっといたはずなのだが、
残りはどうやら逃げ出したようでホッと安堵の息を漏らす。
「リタちゃん、もう安心だよ。怪我はない?」
リタに気づいたテスが笑顔で駆け寄り、声をかけて来た。
「それはこっちのセリフよ。大丈夫なの?」
「余裕余裕。そう言うリタちゃんの方が汗かいてるみたいだけど、大丈夫?」
「え? あ、これはその、中がちょっと暑かったからよ。
それよりテスたち凄いんだね。どこで習ったの?」
「昔ちょっとね。ドルンと一緒に武術学校に通っていたんだ」
「武術学校? ドルンも?」
思わずドルンのいる方を見やるが、彼はここから離れた場所にいるため、
こちらの会話は聞こえていないはずだ。
まだ盗賊を懲らしめている。
「そ。これなら殺さずに闘うことができるだろう?
平和主義者と自称する、アグナヒ統合国の現在の王様が開いた学校だ」
「――アグナヒ統合国?」
「元シッカ国のキングス王のことだよ。知らないの?
あの自由奔放で、時々気ままに旅する王様を。
昔は常に城を抜け出して臣下たちが手を焼いたって噂もある。
ついでに女性との噂もさることながら、
隠し子説なんかもあちこち浮上するなど色々問題がある困った王様で……
あ、いや、それは置いといて。ま、護身が目的で開かれた学校だったんだけど。
だから盗賊たちの数も一向に減らないという難点もあったり様々で――」
「シッカ……」
どこかで聞いたことのある名前だった。
ピンと来たリタは幌の中へ戻ると、古文書を手探りで探す。
そしてそれを見つけ出すと、急いでページをめくった。
「あった。これね?」
「元々は、ヘブル島と周辺の島国及び、
アウバン大陸沿岸部の小国十八ヶ国とが結んでいた同盟国だったんだ。
後に、戦争で現存する四ヶ国が統合して、十四年前にアグナヒ統合国が誕生したんだよ」
へブル島の旧セッツェン帝国に首都を置いた、新興国アグナヒ。
その首都に近い、現在は別の教会が建つその場所には、
かつて王妃の生まれた家で修道院があった地で、
更に遡ればジブエ神殿があった場所でもある。
しかしそこは名の如くヘブル島という島で、
このアウバン大陸からは船でいくしか方法はなかった。
「船で行くしかないわね……」
「へブル島へ行くつもりなの!?」
「そこにジブエ神殿跡地があるらしいの」
ドルンは、叩かれて起き上がれずにいる盗賊の一味に尋問している最中だった。
目をそらして白を切る様子に、そこが連中のアジトであることをドルンは見抜く。
「一年前、アグナヒのムイ・ファータ武術学校を襲った奴らの仲間、
或いはそれにお前たちは加担しているのか?」
「何……のことだか知らねぇ……」
「ユナナをどこへやった!?」
ガッと胸倉を掴んで声を荒げる。
「ヘッ、誰だいそいつぁ? そもそも何のことだかさっぱりわからねーよ!
俺は下っ端だし、世界は広いんだぜ? 盗賊はごまんといる」
それもそうだろう。
さらった一人の女の行方など、ごろつきにわかるはずなどない。
「じゃあ訊くが、おめーらの頭領はどこのどいつで名は何だ?」
ドルンは、掴んでいた男の胸倉を持ち上げて問い質す。
「ぜ、絶対言わねぇっ! 言ったら殺されるんでね。残念だったな」
「言わなくても、この俺に殺されるかもしれねーぜ?」
「ひっ……!」
ドルンの細くなった双眸の奥に光る刃が見えた気がして、男は立ちどころに震え上がった。
盗賊というだけでもその罪は重い。
ドルンがとどめの一撃を男の鳩尾に喰らわせると、盗賊は白目を剥いて気絶した。