04.消えた花嫁
陰湿な風が肌にまとわりつく。
薄暗く不気味なまでに静かな周囲を見回せば、ゴツゴツした岩以外に何もない。
――ここはどこかしら……?
「う……」
身体を動かそうとしてみても、
全身が何かの力によって押さえ込まれていてそれも叶わなかった。
物質的な道具を使ってではない。
邪気を孕んだ魔法力によって。
透明な箱に閉じ込められた人形のように、がんじがらめに拘束されていた。
それが闇族にされたものであるとわかるのは、彼女が優れた魔法師である所以。
だけど彼女は、こうなる運命を何年も前から知っていた。
それでもリタだけは、自分の命と引き換えにしても絶対護るのだと――
***
ザザァ……。
部屋の傍らの巨木の枝葉が揺れ、ガラス窓が震えて音を立てる。
リタがアウドリックへ戻って来てから、二年の歳月が過ぎていた。
そして明日、セシリーとルフィネの結婚式がいよいよ執り行われることとなっている。
部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「リタ、私よ」
ルフィネだった。
明日にはもうこの家を出ていく姉。
妹想いで朗らかで全てに秀でた美しい人。
扉を開けると、彼女はいつものように優しい笑みを浮かべてリタの前に現れる。
「何の用?」
素っ気ない態度。
「リタ……、あなたにこれをあげるわ」
そう言って差し出されたのは、ルフィネがいつも耳にさげているイヤリングだった。
極めて透明度の高い紫水晶。
苦笑いを浮かべるリタの顔は引きつっている。
「――それ、大切な物でしょ」
「ええそうよ。だからあなたにあげたいの。
このイヤリングは私の物というより、バノア家の家宝よ。
かつてバノアが着けていたとも言われているわ」
掌に載せられた水滴に似た形の二つの水晶は、
年代物であるにもかかわらず真新しいまでに光り輝いていた。
「これが今まで私を護ってくれたように、今度はリタ、あなたを護ってくれるわ」
ルフィネは、自分をいつも気にかけてくれていた。
それなのに自分は、嫉妬心から悪口を言ってみたり冷たい態度を取ってみせたり、
何てことをして来たのだろうと後悔の念に駆られそうになる――少しだけ。
こんな自分をあのセシリーが好きになるわけがない。
誰だってルフィネを選び取るだろう。
「もう要らなくなったから? これからはセシリーが護ってくれるもんね。
こんな物よりずっと頼りになるセシリーが。だからくれるんでしょう?」
「――リタ……」
寂しげに頭を横に振るルフィネは、皮肉めいた妹をそっと抱きしめた。
「ごめんね。あなたの気持ちを知っていて、私たちが結婚することになって……。
傷つけちゃって本当にごめんなさい」
「別に謝ることなんか……っ!」
正直、喜んでいるとは言えない態度をあからさまに呈する。
セシリーは自分のことをそういう目で見てくれてはいない。
それはわかっている。
わかっていたけれど、
未だ消えないくすぶる灯火をどう処理していいのかわからず、
リタは戸惑い続けているのだ。
「私こそ今まで素直じゃなくて生意気で……。
私は二人に感謝しているんだ。だからもう大丈夫。
明日、めいいっぱいお祝いするつもりだから、幸せになって姉さん」
……などとは、口が裂けても言うつもりはない。
「愛してるわリタ……。
私とはしばらく会えなくなるけれど、皆のことお願いね。
そしてあなたを、必ず護ってみせるから」
(――え……)
セシリーと暮らす新居はこの家からそれほど離れていないというのに、
しばらく会えないとはどういう意味なのだろうか。
怪訝に思いながらも、リタは姉のぬくもりを忌々しげに胸に刻み続けていた。
その後、ルフィネはキオとエクトとも別れを済ませ、眠り続ける母親の部屋へ赴くと、
いつまでもアリーニの寝顔を見つめ――不意に何かを唱え出す。
アウドリックの歴代王も婚礼を挙げて来たという壮麗なヴァ・ノーア大聖堂では、
セシリーとルフィネの婚礼の儀が執り行われていた。
大司教と女神バノアの御前で夫婦の永遠の誓いを宣言した後、
接吻をする二人を目にしたリタは、取り残されたようにただ傍観していた。
(――何てお似合いな二人なのかしら……。まるで天から舞い降りた神々のよう)
今だけは素直に、けれど抑揚のない心の中でうそぶく。
その後、神の御前で誓いを済ませた新郎新婦は、
外でのパレードにも参加するため大聖堂を後にする。
リタたちも着いていく。
すぐ目の前の王城のバルコニーから、ケルスカーザレオン王がにこやかに手を振って、
今か今かと主役の二人が現れるのを待ち焦がれていた。
街中が王の婚礼さながら祝福の歓喜に湧いている。
アウドリックの伝統楽器で演奏する人々や、
それに合わせて楽しく踊る街人でごった返していた。
沢山の色とりどりの花々に囲まれ、
盛大に祝われるルフィネが幸せそうにセシリーに寄り添いながら歩いていく。
その先に一台の馬車が停まっていて、
王城とは反対の新居である愛の巣へと二人は向かう。
今まで見た中で最も幸せな笑顔を浮かべる姉を見て、リタは複雑な心境のままでいた。
だがそこで、さっきまで一緒にいたはずのロミーや、
親友のフォスカとはぐれてしまっている自分に気がついた。
「ロミー? フォー?」
その時、グイッと誰かに腕を掴まれ、リタは彼らだろうと安堵し振り返る。
だが――、
「リュゼレオン王子があなた様をお呼びです。
声を立てず、静かに私について来て下さい」
そこにいたのは王子の使いだろうか、
見たことのない男が黒い外套を目深に被っていた。
「王子が私を? 何の用かしら?」
あまり行く気にはなれなかったが、
幾ら辺りを見回してもロミーやフォスカたちの姿は見あたらない。
完全にはぐれてしまったようだ。
リタは不審に思いながらも、
仕方なくその男の後について王子のもとへ行くことにする。
その頃ロミーは、見失ったリタを探していた。
「リタ……?」
フォスカはパレードに夢中になっている。
嫌な予感がして、咄嗟にロミーは魔法でリタの行方を捜し始めるが、
城へ向かう彼女と見知らぬ男の後ろ姿が微かに見えた気がした。
しかし――
「――そんなバカな……!」
どういうわけか、
すぐに何者かの魔法によって行く手を阻まれ、見えなくされてしまった。
王子の部屋の前まで案内されると、扉が勝手に開いて中に出迎えられる。
「ようこそ我が部屋へ。待っていたよ、リタレイゼラン」
まばゆい豪奢な金の装飾品の数々。自分の部屋の何倍も広い部屋。
しかしリタは、キラキラした真新しい物よりも、
色が剥げ落ちていたり欠けたりしている古めかしい物の方が好きだった。
魔法によって扉が閉められると、
きらびやかな部屋に二人きりとなり、何となく彼女は警戒してしまう。
「な、何か御用でしょうか……?」
何か粗相でもしただろうかと頭を巡らせてみるも、身に覚えはなかった。
「たまにはゆっくり話でもしようよ。この国にはもうすっかり馴染んじゃってる?」
「は、はい……」
バルコ二ーで王以外は見かけなかった。
とは言え、多忙というわけでもなさそうだ。
遊び人としても有名な彼は、優雅に部屋で読書をしていたようだ。
彼は本を閉じると、立ち上がってリタの方へと進み出る。
一体何の話をするつもりなのだろうか。
「でも、こんな時に……ですか?」
「ルフィネリアンよりも、君の花嫁姿を見たいな僕は……
ほら、君はこんなにも素敵な香りがするからね」
花瓶に添えられた花の匂いを嗅ぎながら、サラリと口にするリュゼレオン。
薄紅色のその花は、可憐で小さな『リタの花』だった。
からかわれているのかそれとも何か企みでもあるのか、リタには予想さえつかない。
悪寒がして「戻ります」と一言だけ言うと、リタは部屋を出て行こうとする。
「君はここにいた方がいいよ」
その意図する所が読み取れず、眉をひそめた。
彼のことだ、あまり深く考えるのはよそうとリタは躊躇する。
「戻ります」と、きっぱり言い切って、リタは部屋を後にした。
口の端を歪めてふんっと鼻で笑ったリュゼレオンは、
嗅いでいたリタの花を突然クシャッと手の中で握り潰すと、
掌を広げてパラパラと花びらを床に落とす。
落ちた花びらを踏みつけながら窓の外を眺め彼は呟いた。
「せっかく忠告してやったというのに、バカな女――。
でも、そこがいいんだけどね。そうでなくっちゃ困るよ。
――だからはやくおいで……バノア……」
不気味な笑みを浮かべるリュゼレオンは、ゆっくりと上唇と下唇を舐め回した。
心配していたロミーがリタを見つけると、急いで彼女の方へ駆けつけた。
「リタ! どこ行ってたんだ?――城?」
「うん、ちょっとね」
「ちょっとロミー様、逃げないで! あら、リタ。あんた今までどこ行ってたの?」
歓迎ムードも佳境となり、
音楽が激しくなっていくと同時に人々の踊りや掛け声も激しくなっていく。
「うわっ、ちょっ……フォスカ!」
キャッキャッと楽しむフォスカにロミーが捕まって、
二人は腕を組んだまま踊りの輪の中へ紛れていく。
フォスカに踊らされるロミーの図に、思わずリタは吹き出した。
視線を変えれば、
ちょうどセシリーとルフィネが馬車に乗り込もうとしている所だった。
「――おい、見ろ。何だあれは……?」
一瞬、人々の動きが止まっていた。
咄嗟にリタもロミーも、呆然と黒ずんだ空を振り仰ぐ。
突然、空が暗くなったかと思うと、次々と上から何かが飛んで来るモノがあった。
「きゃああああ――ッッ!!」
「うわぁああ――ッッ!!」
「リタ、こっちだ!」
ロミーに手を引っ張られながら、建物の壁際に身を隠す。
飛んで来たのは異形の魔物たち。
悲鳴を上げて逃げ回る人々。
街人に紛れて共に祝っていた魔法師たちが、急ぎ防御魔法をしかける。
破壊される建物、攻撃を喰らい倒れる人たち。
あちらこちらで轟音や怒号が鳴り響く中、セシリーが攻撃魔法を次々放っていた。
「君はここでじっとしているんだ。僕は兄さんを援護しにいく」
「う、うん。わかった。気をつけて!」
頷くロミーは駆けつけていった。
こんな時に何もできない自分が歯がゆい。
ルフィネも辺りの人々に防御魔法をかけて攻撃を跳ね飛ばすが、
多勢に無勢、珍しいまでに焦りの色を隠せずにいた。
ロミーもフォスカやその周りにいた魔法が使えない住民たちを護るのに手一杯だ。
そして魔物の攻撃のターゲットはリタへと狙いを定められる。
「――嘘……」
頭上に浮かんでニヤリと笑う魔物に、硬直するリタは攻撃魔法を放たれた。
「リタ――ッ!! 逃げろ――っっ!!」
ロミーとセシリーの声が重なるが、
リタは身体が金縛りにあったようにその場から動けなくなっている。
放たれた魔法が、大きく目を見開くリタめがけて一直線に飛んで来た。
――危ない!
目の前に誰かが立ちふさがる。
自分をかばう、目の前に飛び込んで来た真っ白いドレスがバサリと翻る。
(――姉、さん……?)
ドンッ!
魔物が放った攻撃魔法がルフィネに直撃し、
花嫁は彼らの目の前で跡形もなく消失した。
瞠目するリタ。そしてセシリー。
「ルフィネ―――ッッ!!」
「きゃぁあああ――!!」
直後、王城のバルコニーから甲高い悲鳴が上がった。
ケルスカーザレオン王が、魔物の攻撃魔法を真っ向から喰らって倒れたのだ。
「王! しっかりされよ、王よ!」
「王様!? 王様――ッッ!!」
臣下たちは泣き叫び、人々は呆然としていた。
それを見届けた魔物たちがクケケと薄気味悪く笑って、空の彼方へと次々退散していく。
間もなくして、「父上!」バルコニーに駆けつけた王子の姿が見えた。
先刻までの優雅な彼とはまるで異なる、取り乱した様子で。
リタは震えながら後悔していた。
王子が忠告した通り、自分がここへ戻って来なければ、
ルフィネはこんな目に遭わなかったかもしれない。
自分さえこの国へ来なければ、姉さんは――!
花嫁の姿はどこにも見えなかった。
さらわれたのか殺されたのか、何が起こったのかさえもわからない。
「嘘……嘘よ! 姉さん、姉さ――んっ!!」
焼け焦げた姉のティアラ付きのベールだけが、リタの足元でくすぶっていた。
いつしか暗くなっていたアウドリックの空が、
再び真っ青な雲一つない空へと戻されていたが、
アウドリックの人々は奈落の底に突き落とされたままだった。
幸いロミーやフォスカも怪我一つなく無事でいる。
フォスカを護っていたロミーが、
地べたに座ったまま震えているリタの傍らへ戻って来た。
「――リタ、大丈夫か? どこも怪我はないか?」
彼女の全身を見回すが、
怪我をしていないことを確認すると、安堵の表情を窺わせる。
「ロミー……。一体、何が起きたというの?」
「恐らくは、闇族であろう魔物たちだ。でも何故こんな時に――」
王城のバルコニーに向きを変えて、ロミーは頭を垂れる。
震えながらリタもゆっくりと見上げれば、さめざめと泣く臣下たちや、
先程とはまるで別人のように意気消沈して父の死を悲しむ王子の姿が見えた。
しかしリタは何よりも、ルフィネの消息が気にかかる。
「姉さんは……?」
ルフィネのティアラとベールを前に、
跪いていたセシリーが歯噛みしていた。
だがよく見れば、いつもは静かな湖面のようなその瞳が、
今は烈しく揺らめいていた。
「私をかばって姉さんは……!」
「さらわれたのかもしれない。
そうであることを祈ろう。その方が希望が残されている」
一縷の望みをかけて――。
彼女の残して行ったそれを手にして、スッと立ち上がったセシリーは、
落ち着いたいつもの口調でそう告げる。
感情がないわけではないが、冷静な彼の悲しみは表情からは伝わらない。
それでも一番悲しんでいるのは、夫となるはずだった彼なのだろう。
アウドを使っても、ルフィネからの応答は全く伝わって来なかったようだ。
「本当なら攻撃をされた私が消されるはずだったのに、姉さんは私をかばって……!」
涙を流してリタは取り乱す。
「私が悪いんだ! 私がこの国へ来なければこんなことには!」
「君のせいじゃないよリタ! 君は何も悪くない、何も……!」
泣き叫ぶリタを、ロミーは腕の中に抱きしめた。
攻撃を喰らって息絶えた王と、
消息を絶ったルフィネ――本来はリタがそうなるはずだったが、
何故忽然と姿を消したのかが謎めいていた。
始めからリタかルフィネをさらうつもりで来たのか、それは誰にもわからない。
***
薄暗い闇の岩場に彼女はいた。
闇の魔力で捕らわれた身体は、自由に動かすことができない。
以前、魔法で視えた、自分が繋がれていた場所と同じ風景だった。
やはり、現実は起きてしまった。
運命は変えられない……。
覚悟していたことだったので、少しは冷静に向き合えた。
ルフィネは、母アリーニも結婚式で着たという白いドレスを、
叔母であるセシリーの母に直してもらって着ていたが、
魔物による攻撃魔法の衝動で、衣装が所々破けていたり焦げたりしていた。
申し訳ないと思う。
しかも殺されず、何者かの魔法によって瞬時にここへ移動させられた。
ここは一体どこなのか、何が目的でどんな相手が現れるのか、
ルフィネはただ待つばかりである。
(――セシリー、ごめんなさい……。
やっぱりあなたは私と結婚するべきじゃなかったのよ。
私は多分、二度と戻れない……そんな気がする)
だから何年も結婚を渋り続けていた。
セシリーが他の誰かと一緒になることを望んでいた。
だけどセシリーは、本当の理由を聞くまでは受け入れてくれなかった。
勿論、彼と一緒に幸せな家庭を築きたかったし、
アウドリックを見守って行きたかった。
運命は変えられるものだと心のどこかで期待しているのも事実だった。
だけど運命が許してくれなかった。
それを選んだのも、他でもない自分自身――ルフィネの選んだ道は、
リタを護るという自己犠牲。
それは弛まない愛情。
セシリーにもらったネックレスだけが、
微かに胸元で煌めいてルフィネを励ましてくれている。
小さなダイヤモンドをはめ込んだ銀細工は、
結婚式当日のこの日に贈られたセシリーの愛のこもった手作りだった。
(――リタ……、今度こそあなたには幸せになってほしいの……だから……)
自分だけがぬくぬくと幸せになるつもりはなかった。
昨晩、眠る母に魔法解除の呪文を唱えた。
九年前、自分が母にかけた自分にしか解けない独自の睡眠魔法を、
ゆっくりと解除させるためだ。
アリーニを起こしてしまえば、またリタを殺そうとするかもしれない。
アウドリックを護るために、自分が産んだ呪われた子を始末しようと……。
自分がいなくなれば、残された我が子はリタ一人。
残されたたった一人の娘をアリーニが殺すことはもうないだろうと、
それを信じて――信じるしかなかった。
それ故、バノアの力が宿ると言われている大切なイヤリングをリタに手渡したのだ。
代々、初めに生まれた子供がつけることとなっていた紫水晶のイヤリング。
三歳の時に父からルフィネに引き継がれ、
三歳の幼子にとってはただ重いだけで邪魔だったそれは、
今まで一度たりともバノアの力を感じることはなかった。
それでも、見守られているという感覚だけはあったのは、
そう信じていたかっただけに過ぎないのかもしれない。
何より自分だけが何事もなく生きて来られた、
それこそがバノアの恩恵ではないのかと思っている。
(――バノア、リタを護って……)
もっとはやくに渡すべきだったと、今更ながらに後悔もしていた。
すると向こうから、誰かが歩いて来る足音が聞こえ出し、
ルフィネは目の前に現れたその姿に瞠目した。
「やぁ、ルフィネリアン。居心地はどうだい?」
心臓が停まるかと思った。
目に飛び込んで来た姿は、よく知っている人物。
――リュゼレオン……王子……? いえ、あなたは……誰なのっ!?
外見は王子そっくりだが、発している気が幾らか違う。
身にまとう衣装や顔つきも若干異なっていた。
何よりも、青かったはずの瞳の色が、
まるで生気の感じられない重々しい闇色へと変貌している。
彼は冷たく微笑んでいた。
「僕は僕だよ、ルフィネリアン。エリオーネをお慕いする闇のメラル族の、ね。
君がここへ来ることになって僕は嬉しいよ。
本当はリタレイゼランに来てもらうのが一番なんだけどね。
まぁ、君でもいいか。リタレイゼランはいずれいただくことにして――」
リュゼレオンとどこまでもそっくりな彼は、
赤い舌をチロリと出して己の唇を舐めた。
彼に近づかれた時、心底ゾッとした。
彼の目は、ルフィネの胸元を見つめている。
ルフィネはネックレスが奪われないことを祈った。
がー―ビリッ……!
奪われようとしているのは彼女の操の方かもしれず、
胸元からバッサリと純白のドレスが切り裂かれた。
「君のこんな姿を見たら、あの澄まし野郎は怒り狂うだろうか?
興味があるなぁ」
ルフィネは目を閉ざした。
(――ああ……セシリー……!)
「もっと僕を憎んでもいいんだよ?
憎まれれば憎まれるほど、僕は燃える性質でね。
我慢しなくていいんだよルフィネリアン――僕の奴隷。
たっぷり可愛がってあげるよ。これからじっくりとね……」
首筋にねっとりとした悪魔のキスの洗礼を受けながら、
思わず声が漏れそうになった、その時――、
若い女の声が聞こえて、ルフィネは閉ざしていた双眸をのろのろと開く。
「リュゼル――」
突如現われた女は、リタと同じ年頃に見えた。
外見と声からしてリタそのものだった。
(リ、リタ!?)
だが、彼女がリタではないことはすぐにわかった。
リタと違って髪も長く、まとう雰囲気もまるで違う。
闇の力がまとわりついていた。
「ふん。君は出て来なくてもいいって言っただろう」
「だって、久し振りの対面なんですもの。そうはいかないでしょう?」
彼女は微笑しながら一歩一歩ルフィネに近づく。
ルフィネは首を何度も横に振っている。
――そんな……まさか……。あなたは、リーバ……?
「お久し振り。いえ、初めましてといった方がいいのかしら、ルフィネ姉さん」
死産で生まれて来たはずのリタの双子の姉・リーバレイゼランが、
氷のような眼差しを浮かべて笑っていた。
リーバは、リュゼルと呼んだ男に絡まりながら口づけをして、
挑発的な笑みでルフィネを見つめる。
「ケルスカーザレオン王は、僕を最後まで見抜けなかったマヌケな王さ。
僕に躊躇して、僕の魔法攻撃を喰らったんだから」
その映像が魔法で、ルフィネの頭の中に送り込まれて来た。
醜悪な顔の異形の闇の生き物たちに紛れて、王の目前で宙に浮かぶリュゼルがいた。
王が目を見開き驚いていると、
リュゼルが何のためらいもなく攻撃魔法を至近距離で放ち、
バルコニーにいた王は勢いよく後ろへ吹き飛び卒倒する。
「――王がお亡くなりに!? そんな、そんな……!
あなたが王を殺したの!? 何てことをリュゼレオン王子!」
「ああ、やめてくれないか。その虫唾が走る名前。レオンにリオン?
はん、何だいそれ。過去にいた奴の名を語尾につけなきゃならないなんて、
バカバカしいったらありゃしないね。ダサいよ、ダサすぎる。
代々王族につけられる古い名前なんて、僕には似合わないよ」
「私の先祖や、アウドリックの伝統をバカにしないで!
いいえ、あなたみたいな人に名を継いでもらいたくないわ! きゃあっ!」
悲鳴が漏れた。
全身が見えない力で締めつけられ、息をするのもままならなくなる。
――あまり調子に乗らないことね。私、いじめるのって大好きなの。
ギロリと、リュゼルと同じ闇色のリーバの目が光る。
「そんな怖い顔で睨むなよリーバ。可哀想に、怯えているじゃないか。
これは僕のオモチャなんだから、勝手にいじめないでくれる?
これからじっくり獲物を弄ぶんだから」
リーバが鼻で嘲笑って、ルフィネを睨みつける。
そしてネックレスに手をかけると、一気に引きちぎった。
ブチッと音を立て、ダイヤの周りの銀細工がバラバラと落ちる。
無残な今の自分の姿が、とても惨めに感じる。
誰にも見せられないし、見せたくもない。
あまりにも衝撃的なことが次々と訪れて、
もう何年も流したことのない涙がルフィネの青い瞳からこぼれ落ちた。
今までが幸せ過ぎた――そう思い知らされながら、
今頃になってセシリーがとても愛しい。
会いたかった。
できるなら今すぐにでも会いに行きたい。
初めて無力な自分が、こんなにも怖いと感じたことはなかった。
一人では何もできない、頼りない存在なのだと離れて初めて気づかされた。
だけど、こうなった運命を彼女は恨んではいなかった。
試練は自分を強くする、自分は試されているのだと信じて。
だから、ルフィネはリタを恨んでなどいなかった。
今はまだ――。
***
「リタ、奇跡が起きたよ! 君の母さんが目覚めた!」
「え、母さんが……?」
ロミーに送られて家に帰って来たリタは、
奥の部屋から物音がして一度確認に行ったロミーと共に、
すぐにアリーニのいる部屋へと向かった。
確かに、目覚めたばかりの病人のような顔の母が、
上半身を起こしてベッドの上に腰かけている。
どうやら、寝台の横に立てかけてあった写真を取ろうとして、
床に落としてしまったようだ。
「伯母上!」
扉の方を見たアリーニが薄く笑って、
部屋の中へ入って来た二人の名前を呼ぶ。
「セシリー、ルフィネ……。
私、何だかずっと眠っていたような気がするわ……。
ああ、二人とももっとそばに来て頂戴。
何だか随分懐かしい気がするの。どうしてかしら?」
ロミーとリタは立ち止まった。
「伯母上、僕はロミージェンです。十五歳になりました。
そしてこの子は、十四歳になったリタレイゼランです」
「え、リタ……?」
ピクッ。
その名前を耳にした途端、アリーニの表情が強張った。
リタに伸ばしかけていた指も止まり、
ただでさえ病人のように青白いままの顔色が、嫌悪を隠さない顔つきで固まる。
ロミーとリタは目を細める。
今すぐに母の名を呼んで、抱きしめてもらいたかったリタだったが、
そんな態度をされればさすがに彼女もためらった。
(――母さん?)
実に九年もの歳月を眠り続けたアリーニが眠りから覚めたとあって、
バノア家は勿論、ロミーの家族や近所の人々や多くの顔見知りが駆けつけ、
共に喜びを分かち合った。
皮肉にも長女と引き換えの奇跡となったが、
とりあえずは誰もそのことを口にせずに笑顔をふりまいた。
母や皆の一堂に会する笑顔と笑声。
夫であるキオが、ベッドの上の妻を愛しげに抱き寄せている。
だけどリタはどうしても素直に喜べなかった。
やはりここにルフィネがいないことが響いている。
「ルフィネとセシリーはまだ忙しいの?
私、何で九年も眠っていたのかしら……嫌だわ」
「立派に成長した二人は多忙なんだ。
君があまり有能な子を生んだ結果だ。それも致し方あるまい」
アリーニのベッドを取り囲む一同の笑い声が上がった。
本当のことは誰もが隠したまままでいる。
だから、まさか今日が二人の結婚式だったとはアリーニが知る由もない。
アウドで以ってしても、彼女に伝わらないよう巧みに皆、心を封じ込めている。
時間の問題であろうが病み上がりの彼女には、今はこれが最善の方法だった。
それにしても突然何故、目が覚めたのだろうか。
アリーニは、闇の騒ぎで起きたのだろうか。
それとも――。
あの時、何故リュゼレオン王子は自分を部屋に呼んで、
ここにいた方がいいなどと仄めかしたのも気になる。
彼は何か知っていたのだろうか。
リタは気になって仕方がなかった。
「――ロミー、今日は疲れたわ。私、先に休むわね」
「うん。ゆっくり休むといいよ。お休みリタ」
喜びに沸き立つ母のいる部屋をこっそりと抜け出し、リタは自分の部屋へと戻る。
そして窓を開け、木を伝い、地面に飛び降りるとバノア家を後にした。
満月を三日ほど過ぎた少々欠けた月が、走りゆく少女を静かに照らしている。
抜け出したリタは、リュゼレオン王子と直接話をするためにアウドリック城へと向かった。
だが――
「お前は首を突っ込むな」
腐敗を防ぐ魔法をかけられた王の遺体に、
夜が深まっても尚つき添っていた宮廷魔法師のセシリーに捕まってしまう。
自分の部屋に強制的に空間移動で戻されたリタは、
部屋に着くなり不機嫌な従兄に酷く叱られる。
掴まれた左腕に痛みが走り、顔を歪めたリタも半ばヤケ気味に反論した。
「何でよっ!? 王子は何か知っているかもしれないのよ!?」
「何でもだ。子供の出る幕ではない。とにかく大人しく家にいろ」
セシリーの怖い顔を滅多に見ないだけに、
リタもそれ以上は強く言い返せない雰囲気に呑み込まれて、大人しく口をつぐんだ。
彼もまた何かを知っている、或いは知ってしまったのかもしれない。
恐らくは彼だけではなく、他の魔法師や神官や家臣たちも同様に。
彼らは感づいていた。
リュゼレオンが何かを隠していることを――。
その後間もなくして、セシリーがアウドリックを去っていった。
無論、ルフィネの行方を追ってだが、別れの時、もうリタは泣かなかった。
悲しく寂しいけれど、ルフィネを見つける手がかりを彼は探しにいくのだ。
本当に自分も、セシリーから卒業しなければと思った。
いつまでも叶わぬ恋を引きずって、わざわざ彼の重荷になる必要なんてない。
自分をこれ以上苦しめる必要もない。
だけど、そんなに簡単に忘れられるものなら、こんなに苦しむこともないのだろう……。