02.魔法国アウドリック
「――リタ、起きなさい」
ルフィネに身体を揺さぶられ目が覚めた。
「着いたわよ、あなたの故郷アウドリックへ」
ゆっくりと身を起こして窓から外の景色を見やれば、
大きな街がリタの目に飛び込んで来た。
かつて幼い自分が住んでいた故郷であり、これから再び住もうとしている場所。
石造りの家々が立ち並ぶ古い街並み。
古めかしい荘厳なアウドリック城が街の中央にそびえ立っていた。
その近くにリタの住む本当の家――バノア家はある。
城をそのまま小さくしたような屋敷で、
エリオーネ村で暮らしたのどかな農村の家とはまるで違っていた。
確かにこの街も、緑も多く自然と調和した美しい土地ではある。
しかし今の蔑んだ心に、素直に美しいと感じる余裕は窺えない。
彼女にとってはエリオーネ村が全てで、一番住み慣れた場所なのだ。
あんなに憧れていた魔法国、大きな街、両親、全てが手に入るというのに、
うなだれるように無口なまま景色を眺めるリタの表情に、悦びは全く見て取れなかった。
窓ガラスに映る暗い顔が、いっそう彼女の悲しみを深く投影している。
見覚えのある屋敷の前に馬車が止まると、
記憶にある懐かしい人たちがリタの帰りを待ちわびていた。
父に祖父、それに従兄であるセシリーの家族だった。
「リタ、お帰り! 待っていたよ。この日が来るのを!」
馬車から降りようとする前から、皆が彼女の周りに集まって笑顔で歓迎してくれる。
最初に記憶の片隅に残る実父が「大きくなったなぁ」とリタを抱きしめる。
にこやかに笑う祖父は、昔とあまり変わらない。
不意に、村で過ごした祖父の姿がよぎり、益々暗く沈んだ。
セシリーの両親、兄弟たちのこともちゃんと憶えていた。
従兄弟たちは皆、自分より年上なのだが、
成長して立派な魔法師として国に尽くしているのだろう。
一番年の近い一歳年上のロミージェンは、セシリーによく似た少年だった。
皆みんな憶えている。
それなのにこの七年、何故その記憶を封じ込められなければならなかったのかがわからない。
それともう一つ、何故ここに母がいないのかも――
「母さんは……?」
一瞬、誰もが顔を曇らせたのをリタは見逃さなかった。
(――まさか……)
嫌な予感が脳裏をかすめる。
しかしそれは、安堵の意味で打ち砕かれた。
「いや、母さんは生きている。ただこの数年、ずっと眠ったままなんだ」
「眠ったまま? どうして?」
「原因は不明だが、きっと近いうちに起きるだろう。
リタがこうして戻って来たんだからね。――さ、リタ、母さんの所へ行こう」
父に導かれて、母の眠る部屋の中へと入っていった。
そこにはベッドに眠る人形のような母がいた。
懐かしい面差し。
(こんな形で再会するなんて……)
一体過去に何があったと言うのか、
それ以上詳しく話そうとしない家族たちに、リタの不信感は募るばかりだった。
その後は再び、セシリーとルフィネと一緒に城へ向かった。
あまりにも巨大な建造物に、ただただ圧倒されるだけだったが、
謁見の間に通された瞬間、ケルスカーザレオン王の隣りに立つ十七、八の若者に、
どこかで会ったような気がして自分の記憶を辿らせた。
実際に会ったというよりも、どこか別の場所で会ったような――
「ふーん。君がルフィネリアンの妹のリタレイゼランか。
僕はリュゼレオン。一応王子なんかしてるけど、君と会うのは初めてだよねぇ?」
やはり初めてだったのだろうか。
自分は誰かと間違えているのだろうか。
リタが拍子抜けしていると、
性格の軽そうな王子の値踏みするかのような、どこか冷めた視線にゾッとする。
「色々大変だったんだってね。でもこれからの方が大変だと思うよ。
聞けば君、アウド以外の魔法が使えないんだって?
有能なバノア家の末裔なのに? まぁ仕方ないよね。
隔離村で普通の人間として暮らしていたんだからさ」
(――アウド? 隔離村……?)
この国の名前と何か関係があるのだろうか。
リタは、呆然と突っ立っていた。
「ウエッホン! リュゼ、そちはもう下がっておれ。
まぁリタレイゼラン、久し振りの帰郷とは言え、
来たばかりで慣れないことも多かろうが、気張らず徐々に慣れていくといい」
余計なことは言うなと言わんばかりに、
王子の間に割って入って来た王を、リタは憶えている。
がっしりとした体格にカールがかった長い銀髪、
威厳に満ちた風貌は一度拝見したら、二度と忘れられない存在感があった。
それでいて優しそうな笑みを浮かべる、声のよく通るアウドリックの王。
物語の挿絵に描かれてあるような王様そのものだった。
ただ違うのは、この王もまた魔法を駆使するのか、
リタ以外の周囲の者たちに無言で何かを伝え、
相手もまた無言で頷き了解すると動き始める。
自分に配慮しているようで、ここにいる誰もが自分には声を発した言葉で語って来た。
次第にその行為が自分にとっては特別なことに思えて来て、逆に居心地が悪くなる。
そんなリタの気持ちを察したのか、王は語り出した。
「言葉はとても疲れる上に、相手に伝えられる量も少ない。
我々は『アウド』をよく利用しているのだ」
「アウド……?」
――左様。こういうものだ。
「!」
唐突に、自分の頭の中に声が聞こえ出す。
自らの思考のようにも感じるそれは、
王の心の温かさと優しさの感情も同時に伝えるようで、
自分の心をも温かく包み込んでくれる。
だからリタは、自分にもそんな力が備わっているのだろうかと試してみることにしたのだ。
――私は何で今になって戻って来たの?
あのまま何も知らないまま生きていたかったのに。私をエリオーネ村に帰して!
周りの反応は変わらなかった。
受信する能力は残っていても、送信する力は備わっていないのかとある意味安堵し落胆した。
だからリタは続けざまにこう漏らす。
――こんな国大っ嫌いよ。滅んでなくなっちゃえばいいのに!
(え……?)
王や魔法師たちの視線を一斉に浴びて、彼女は青ざめた。
自分の心の声が届いていたことに、酷く恥かしくなった。
「う、嘘! そんなこと思ってない!」
涙目になりながら、必死に頭を横に振る。
情けなかった。
こんな自分こそ大っ嫌いだし、消えてなくなればいいとさえ願う。
――リタレイゼランよ……。そんなに己を責めるでない。
そなたに与えられた運命はあるべくしてあったのだ。
誰のせいでもなく必要なことだったのだ。
あの村で、女神のご加護を受けながら育てられたのも、
そうしなければそなたはここまで育つことができなかったかもしれんのだ。
この七年は決して無駄でも偽りでもない。そなたにとっては事実なのだから……。
帰りの馬車の中で、リタはずっと王が教えてくれたことを考えていた。
「セシリーはあの村が幻だと言ったわよね? あの村は作り上げられた世界だと」
向かい側に座る青年に問い質す。
「……ああ」
「で、でもっ、村の皆は現実にいるのよね!?いつか会いに行けば会える!?」
すがりつくような瞳で見つめる少女を、わずかに嘆息したセシリーは目を閉ざす。
「――それは無理だ」
「どうしてっ!?」
「既に魔法の効力は切れ、彼らの記憶から君の存在は消えてしまっているんだぞ」
「そんなの、魔法で何とかできるでしょ! あんたたち魔法師でしょ!」
「リタ――、その魔法は女神の力によるものなのよ。
だから私たちにはどうすることもできないの」
ルフィネの透き通る声。澄んだ青い瞳がリタに向けられる。
魔法国というのは謎に満ちた世界だ。
そして無慈悲。
何を言われても、何一つ理解できないのが歯がゆい。
(どうせ私なんて……)
生きている意味も価値もないと悲嘆に暮れ、バノア家に着いた早々、
昔使っていたらしい自屋に閉じこもり、ベッドの上でうつ伏せになって泣き続けた。
泣いて泣いて、その後はそのまま眠ってしまおうと思った。
目覚めればきっといつものエリオーネ村にいることを信じて……。
(――何で私がこんな思いをしなくちゃいけないの?)
本当の家族だと言われても実感が湧かなかった。
バノア家の人々が家族だということはわかっていても、
自分にとっての家族は、エリオーネ村のあの優しい祖父母だけなのだから。
幸せだったあの日々に戻りたい。
あの場所へ帰りたい。
自分の故郷は居場所は、あそこしかなかった。
ぐちゃぐちゃの顔で窓の方を見たリタは何かを思い立ち、起き上がって窓辺へ向かった。
幸いにも、登りやすそうな大きな巨木が目と鼻の先に見える。
リタは窓を開け身を乗り出すと、ためらうことなく木の幹へと飛んだ。
***
家を抜け出したリタは、街の中をどこまでも走り続けた。
一刻もはやくこの国を抜け出して、エリオーネ村へ帰ろうと……。
例え何日かかろうとも見つけ出してみせる。
何も持たずに飛び出して来た少女は、ひたすら街の中を走り続けた。
『リタの花』で包まれたあの石碑、どこかにあるであろう愛しい故郷の村。
女神像のある美しい村をめざし……。
「はぁっ、はぁっ……!」
だが、この街は巨大過ぎた。
入り組んだ迷路。
人も建物も多く、この世界こそが幻でできた虚像に映る。
坂道を駆けながら目に入って来る街全体が受け入れられなかった。
古い石造りの家々や城や教会。
けれども、沈みゆく太陽は村の木の上から眺めた景色と同じくらいに――
いや、それ以上に綺麗だった。
それは憎らしいほど。
思わず立ち止まり、橙色に染まりゆく街に息をするのも忘れて見とれてしまう。
だけどすぐに、自分が村を恋しがるように肺が酸素を恋しがった。
言葉にならない美の風景がここにもある。
認めたくなかったが、
村で見た以上に美しい、画家がいたら絵に描くであろうそんな風景が――
「ヨディ……」
隣りでスケッチブックに向かう、少年の幻影が浮かんでは消えていく。
リタは深呼吸をし、前を見据えた。
誘惑に負けてはいけない、こんなのは幻よと自分に言い聞かせながら。
部屋を抜け出してからもう何時間が過ぎただろう。
今日はまだ何も食べていないことに今更ながらに気づく。
そう思うや否や、全身の力が抜けてしまった。空腹でフラフラする。
馬車の中で少し眠ったはずなのに、もう身体が疲れてしまっている。
温かいベッドで眠りたかった。
あの屋敷のベッドの寝心地は最高だった。
あの毛布のように優しく自分を包み込んでくれる何かが必要だった。
でもそんな誘惑には釣られたくない。
心を鬼にしてリタは歩き続ける。
「あっ!」
足がもつれ、道の真ん中で正面から転んでしまった。
「いったー……」
身を起こしてすりむいた膝を見れば、血が滲んでいる。
ポタポタと涙がこぼれ落ちた。
でも今は、膝の痛みよりも心の痛みの方が何倍も痛かった。
「うっ、うう……」
今日の自分は泣いてばかり。
こんなに泣き虫だっただろうかと、
次々溢れ出る涙を拭うこともなく嗚咽を漏らしながら愕然となる。
と、その時、すりむいた膝の上にぬくもりが感じられ、リタは顔を上げた。
膝に乗せられた手は、セシリーのものだった。
「――リタ、ここもそんなに悪くはない。あの夕日だって美しいだろう?
最初は戸惑いもあるだろうが、僕らが君を支え続けるから、
一人で背負い込まずに色々頼ってほしい」
真っ直ぐに見つめる吸い込まれそうなほど澄んだ瞳。
心まで温かくなるような優しい微笑。
姉と同じ九歳年上の従兄は、大きな手で膝の傷を魔法の力で癒してくれている。
いつの間にか痛みは消え、傷口もふさがれていた。
セシリーはその手でリタの頭をそっと撫でた。
(セ……シリー……)
「さ、帰ろう。皆が心配して待っているよ」
立ち上がったセシリーは、リタの前へ手を差し伸べた。
自分よりもずっと大きな手と心で、
全てをそっと包み込んでくれようとしている人が、今、目の前にいた。
黙って頷くリタも、その温かな存在を跳ね除けようとはもう思わなかった。
むしろこのまま包み込まれていたかった。
手を伸ばし彼の手の上に自分の手を置くと、セシリーは強く握り返してくれる。
ズキン……と、胸の奥が甘くうずいた気がした。
リタは元来た道を戻り始める。
手を繋いで二人、
一緒に歩くのがこんなにも幸せな気持ちになれることを初めて知った。
広い背中で、彼の一本に束ねられた銀色の長い髪が歩く度に揺れている。
そして逞しいその腕に引かれながら、
胸の甘いうずきがどんどん膨らんでいく予感を、リタは淡く感じていた――
***
きらびやかな装飾は絢爛たるもの。
白い大理石の床、天井は美しい色合いのフラスコ画。
館内の随所に配置されたブロンズ像。
それと古代文字だろうか、読めない字が壁に書かれてあった。
王立図書館の立派で数多い蔵書の数々にも目を奪われたリタだったが、
それよりもこの図書館自体に既に畏れおののいた。
エリオーネ村の教会で何度も読んだ、薄くて汚れた本などどこにも見当たらない。
どれもこれも分厚く、背表紙の題名は金か銀の文字で統一されていた。
夢に見た大きな図書館、一生のうちにどれだけ読めるのかわからない沢山の本。
リタのあんぐりと開いた口は閉じられることもなく、
瞬きすらほとんどしていない状態だった。
天井まで高く並べられた棚の中の本を見回すばかりで、
言葉もなくただ圧倒されている。
まるで、触れることすらはばかってしまうオーラが一冊一冊から発されているかのように。
呆然と立ち尽くしている少女を、空いている席に座るようセシリーは促した。
「学校へ行く前に、君にしばらくアウドリックの歴史などを教えておこうかと思ってね」
そのまま顔を周囲に向けたまま、リタは静かに椅子を引いて腰かける。
「リタ?」
「凄い……凄すぎて夢のようよ! ねぇ、これ本当に自由に読んでもいいの?」
「借りる場合には、名前を記入してもらうけどね」
ルフィネと同じ青色の少女の瞳が輝いていた。
昨日の死にかかっていたような目とは裏腹に、生気がみなぎっている。
あの村にいては知り得なかったことがとうとう知れるのだと考えるだけで心が躍った。
今だけは、ここに来て良かったとさえ思える。
「はやく読みたいわ! 知りたいことが沢山あるの!」
「まず君が知りたいのは、エリオーネ女神かい?」
「ええそうよ! あるの!?」
「勿論ある」
その喜びや如何に。
幸福感が心だけでは収まり切れず、顔や声にまで満ち溢れていた。
「――だがその前に、アウドリックの前史を知ってからだ」
「前史……?」
「エリオーネ村にも伝説があるように、ここにも神々の伝説がある」
知りたかった。
神々の伝説――それだけでリタは興味を惹かれてしまう。
「知りたい! 私、アウドリックのことも知りたい!」
「それは光栄だ。ようやくエリオーネ以外にも意識が向いてくれて、僕も嬉しいよ」
「よろしくセシリー先生!」
「セシリーでいい、リタ」
突然、牧師の姿がリタの脳裏をよぎった。
(今頃、どこにいるんだろう。村と一緒に牧師さんも消えてしまったの……?)
――女神の世界って、もう入れないの?
――そう言われている……。
セシリーが頭の中に語りかけて来る。
リタにとって唯一使える魔法の類い、アウド。
立ったままでセシリーが柔らかく微笑んだ。
その笑顔に見つめられると、何故かリタは心臓が早鐘を打つのを感じて、
パッと視線を背けて再び周囲の本を見上げる。
「あ、あんなに高い所にある本は、どうやって取るの?」
心の動揺をごまかすように、リタは裏返る声で問いかける。
この巨大な図書館には、梯子が一つも見当たらなかった。
壇上が高くなって階段があるというわけでもなかった。
そこで彼がおもむろに指をパチンと鳴らすと、
天井に近い書棚から一冊の本がひとりでに飛び出す。
そのままスーッと滑らかにカーブを描いて舞い降りて来たかと思うと、
セシリーの手の上へ着地した。
見れば、閲覧している僅かな人たちも、
高い位置の本は魔法で浮遊させて手にしている様子に今更ながら気がつく。
彼らはセシリーやルフィネのような宮廷魔法師が着る青い法衣ではなく、
アウドリックでは一般的な民俗衣装を着ていたが、
魔法師たちのようにいとも簡単に魔法で本を取り出したり戻したりしていた。
「ああ、そうよね、ここは魔法国アウドリックだものね。こんなのわけないわね」
リタも試しに指をパチンと打ち鳴らして真似をしてみるが、案の定、何も起きなかった。
そんなことだろうと思っていた。
でも悔しくて何度も指を打ち鳴らしてみるが、
本が拒絶でもしているのか一向に動く気配がない。
「リタ、躍起になってやるものではないよ」
「やり方がまずいのかな。私も練習すればできるようになる?」
「これは初歩的なこと。決して難しくはないことだからね」
「本当!? 私も魔法が使えるようになる!?」
「……君の努力次第だろう」
再びリタの瞳が輝いた。
だが、不意に開いた本に視線を落とすセシリーの動きがあまりにも自然過ぎて、
彼が浮かべたどこか暗い表情に彼女は全く気づきもしなかった。
「では始めよう。
前史は難解な古代文字で書かれてあるから、君には映像で観てもらうことにしよう」
テーブルの上に分厚いその本を置くと、何やらブツブツと唱え出すセシリー。
横からのぞいたリタは、びっしりと書かれた古代文字に惹きつけられている。
確かに全く読めない字ばかりだった。
驚くのはその文字でさえも、所々が装飾された文字で書かれているということ。
「アウドリックの人って芸術的なのね……えっ?」
感心して呟いていたが、辺りが一瞬にして暗くなって驚いた。
「セ、セシリー?」
「大丈夫だ、ここにいる。これから前史の再現ストーリーが始まるから、
気を楽にして一緒に楽しもう。ちなみに主役の女神バノアとその夫は、
ルフィネと僕が演じている。他もアウドリックの知り合いたちだ」
(セシリーと姉さんが……?)
「抜擢されて仕方なく、ね」
苦笑いを浮かべて肩をすくめるセシリー。
リタは初めて観る動く映像に怯えて目を閉じるが、
次第に人の声が聞こえ出したので、ゆっくりとまぶたを開ける。
物語は始まったようだ。
――その昔、神々の大戦で、戦いの女神バノアが地上に落ちた。
草の上で意識を失って横たわる美しい彼女を発見したのは、
通りがかりの若者ベセダルだった。
べセダルは日中は畑仕事をして、夜は趣味の彫刻を彫っていた。
呼びかけても反応のない彼女を抱きかかえると、彼は急ぎ自分の家へと連れていく。
数日後、意識を取り戻して目が覚めた彼女は彼に御礼を言うと、
自分の名は「バノア」だと告げた。
だがそれ以外の記憶を全く思い出せず彼女は苦しむ。
行く当てのないバノアは、一人暮らしだったべセダルと一緒に暮らすこととなり、
いつしか二人は愛し合うようになった。
やがて子供も産まれ、最初の女の子をリオン、翌年生まれた男の子をレオンと名づけた。
しかし幸せな日々は、そう長くは続かなかった。
突然記憶が蘇えったバノアは、
自分は天界人で女神の一人だと告げて家族の元を去っていってしまう。
数年が過ぎ、子供たちは大きくなり、
人間離れした美しさに成長したリオンとレオンは、とても賢く魔法も使えた。
二人の噂は瞬く間に国中に知られ、国を治めていた王に呼び出され、
その力を人々にも伝授し国を護るよう命を下される。
魔法は潜在能力の一種で、
本来誰しもが発揮できるものとして彼らは指導していった。
やがて魔法を使える人々も増え、
元々は小さな一国に過ぎなかったアウドリックも、
伝説の魔法国として世に知られていくこととなる。
その間もべセダルは、
妻が戻ることをいつまでも待ち続け願いを込めバノアの石像を彫った。
しかし彼の願いも虚しく、バノアが再び地に降りて来ることは二度となかった――
映像が途切れ、パッと明るくなると、巨大な図書館にいたことをリタは思い出す。
「どうだった? 想像のバノアの伝説のご感想は。
まぁ、子供向けに簡略化して作られた話だけどな」
リタは呆然と正面を向いたままだった。
陶酔しているのか涙まで流していた。
「リタ……?」
「素敵だわ……。何て美しい曲たちなの。何ていう曲?」
「劇中に使われていた曲のことかい?
別の本には詩が載ってあるから、後で読むといい。
相当古い詠み人知らずの古詩だが、ちゃんと訳されてあるから心配は要らない」
「村でも演劇や合唱をしたことがあったけれど、比較にならないわ。
心の琴線、魂が揺さぶられるかのような……まるで本物の情景が私には見えていたわ。
美しい歌と旋律、どこか懐かしく涙が溢れるような……」
だから泣いていたのかと、セシリーは微笑んだ。
「でも、今のってバノアの伝説なの? エリオーネじゃないの?」
「え?」
「私が村で考えたエリオーネの伝説とそっくりだもの。
ううん、同じと言ってもいいわ。これって偶然?」
するとリタは、突然クスクスと笑い出す。
「仕方なくと言う割りには熱演? 確かにそうね」
独り言を呟いて笑う彼女を、怪訝な表情のセシリーは傍観する。
「え? あれじゃ家族を捨てた冷たい女ですって? 言えてるかも」
「――リタ、一体誰と話しているんだ?」
鋭い目つきになったセシリーが問う。
魔法師であっても、その声が聞こえていない。
「やだ。何でそんな怖い顔するの? ただの独り言よ」
「独り言……?」
「村ではそう言われたの。私は独り言じゃないとずっと思ってたのに。
でも皆がそう言うからきっと独り言なのね。
だから、誰かと会話するみたいにハッキリ聞こえていたとしても、
これは独り言なんだって自分に言い聞かせていたの」
セシリーが突然、手をリタの方へ広げた。
そして不可解な呪文を唱え出す。
リタは彼が、『心の友』を追い出そうとしていることを直感的に悟った。
「嫌っ! やめて! 彼女は何も悪くない! 私の友だちよ!」
「友だち?」
「小さい頃からずっと一緒だったの! 時々話し相手になってくれる優しい友だちよ!」
詠唱が止み、彼の手もゆっくりと元の位置へ戻された。
両手で自分の身体をきつく抱きかかえていたリタは深呼吸をする。
「小さい頃から……時々聞こえていたの。
最近はほとんど聞こえなくなってしまっていたけれど……。
彼女を追い出さないで!」
震えるリタは、セシリーを怯えた目で一瞥すると、すぐさま目をそらす。
セシリーはふぅと息をつくと、リタの頭の上にポンと手を置いた。
「悪かった。君に何かあってはと過敏になってしまったな。
君がとても大事だからね」
リタは彼を見上げ、置かれた大きな手がこのまま離れないでほしいと切に願う。
怖いと思ったのは確かだったけれど、
自分を大切故の行動であったと知れば胸が熱くなる。
正直、再現された物語を観ているのは辛かった。
特にバノアを演じるルフィネを見つめて抱きしめるシーンなどは、
まるでセシリーと姉の本物のシーンを目の前で見せつけられている気がして、
とても観ていられなかった。
二人が本当の婚約者同志であることは知っている。
物心がついた頃には、もう二人はそんな間柄だったのだから。
だけどリタの心のどこかで、
今更ながら認めたくない気持ちが揺れ動いているのも事実だった。
(――熱を帯びた切なげな瞳……)
それは自分の知らないセシリーだった。
あんな顔で見つめられたことは、リタにはない。
きっと姉だけに許された表情なのだろう。
得体の知れぬ寂謬感に襲われて、リタの胸は苦しみに喘ぐほど締めつけられた。
例え今は子供であっても、妹のような存在にしか映らなくとも、
従兄で実姉の婚約者である彼に芽生えた淡い想いが幻ではないことに、
この先も彼女は翻弄されていくのである――