12.ハーラ・ウー・トートイト
自分のことしか考えずに生きて来た。
自分の存在意義を確かめるため旅をして来た。
全ては仕組まれていた道を進んでいたというのなら、今度こそ自分で選択して決める。
そしてその答えは、誰かのため自分の命をかけることだと知った。
ルフィネを救うためなら、喜んでこの命を捧げてもいいと――。
薄暗い不気味さを漂わせる荒れたそこは、寂寞とした荒野だった。
曇天がそう思わせてしまう理由なのかもしれないが、
ここはいつだってこういう天気なのではないだろうかとリタには思えてしまう。
この先に、あの三角の山が聳えていた。
山の麓には足場の悪い岩場が広がっている。
覚悟を決めたリタは、これからそこを辿ってあの山を目指す。
つと、背後が妙に気になって足を止めたリタは、後ろを肩越しに見て唖然とした。
「ちょっと! 何でついて来たの!? ユナナを捜しに行くべきだって言ったでしょ!?」
ドルンが後からついて来ていたのを見咎めて、驚きのあまり叫ばずにはいられない。
それなのに動じない彼は、何食わぬ顔で飄々(ひようひよう)と言ってのけた。
「俺の勝手だ。ユナナのことはテスに頼んである。
俺には、無知な女の方が危なっかしくて見過ごせなかった」
「無知な女って誰よ?――私しかいないじゃない!」
「わかってんなら訊くなよ」
「ええ、そうね。その無知女に同行するあんたも相当いかれてるわ。おかしいんじゃない?」
「ああ、俺は相当いかれてる」
「……? 認めないでよ。いいからあんたはさっさと戻ってよね!」
「戻りたくても戻り方なんて知らねぇ。あの光は消えちまったしな」
口を尖らせたリタは、プイッと踵を返すと、ドルンを無視して歩き出す。
「どうなっても知らないからね! 私は一人で行くって決めたのよ!
あんたなんかピンチになっても助けてやらないんだから」
「どうしても一人で行くってんなら――俺のことは気にするな。空気だと思えばいいだろ」
「ええ、そうする! だから空気は金輪際、話しかけて来ないで!」
リタはズンズンと大股で進み続ける。
距離を置いて後ろからついて来る男を気にせずに。
だがそれも、長くは続かなかった。
バササッ……。
「きゃっ!」
突如、空から結婚式で見た羽根の生えたあの魔物が襲って来た。
と、その直後――咄嗟に頭を抱えてしゃがみ込んだ彼女の頭上を、
ヒュンと何かが飛んでいく音がした。
それは、空中の数匹の魔物に次々ヒットして、ドルンの手中へと戻って来る。
三日月形のブーメランが、見れば、絵筆の形に戻ってドルンの指に握られていた。
「なっ、何!? あんたがいつも使ってたその絵筆って武器にもなるの!? 気持ち悪っ!」
一体どこからそんな摩訶不思議な物体を手に入れたのだろうか。
しかしドルンは、無表情のままそのことには触れようとはしない。
代わりに吐かれた言葉は――
「あのなぁ、何で歌わねーんだ。こういう時にこそ、お前の音痴な歌だろ。
出だしで奴らも即、退散するぜ」
「だったら今すぐここで歌って、あんたをとっとと退散させてやるわよ!」
助けられたのも棚に上げて、相変わらずの毒を吐く。
そんな素直になれない自分がもどかしい。
――昔、馬車で通った道が小さく遠くに見えている。
あの時は、泣いてばかりで景観を楽しむ余裕などなく、
こんな山があること自体気づかなかった。
夢の中では巡った各神殿とエリオーネ神殿、そしてあの三角山が見えない光で繋がっていた。
「あの山には、肉体から抜け出た状態で各神殿を辿って入ることもできたけれど、
この石碑の中に入れば肉体を持ったまま行くことができたのよ」
「夢で教えられたのか? 誰に?」
「彼女に……。眩しくて姿はよく見えなかったけれど、綺麗な人だった」
「――あの女か?」
「あの女って?」
「あんたが意識を失っておぼれかけた時に出会ったあの女だ。
まるで女神のようだった……エリオーネか?」
「わからないわ。イヤリングを残したバノアかもしれないし」
「確かにその方が説明がつくな。
イヤリングのおかげで、こうして中へ入れたわけだからな――ほら、忘れもん」
ドルンがズボンのポケットから取り出したのは、赤紫色に輝く片方のイヤリング。
石碑の上に置いて来たまま、すっかり忘れていた。
ドルンがリタの目の前にそれをかざすと、両手を出した彼女の掌に落とす。
「ったく、大事な物を忘れんなよ」
「バカ! あのまま置いておいた方が良かったかもしれないのに!
これじゃ本当に帰れなくなったじゃないの!」
「言い切るんだな。そうなのか?」
「た、多分そうじゃないかってことよ!」
「むしろイヤリングは両方していた方がいいぜ? 姉さんにもらったお守りなんだろ?」
「言い切るのね。何で知ってんのよ」
「多分そうじゃねーかってことだよ」
ぎこちなく礼を述べて、早速右側の耳朶に彼女はつけ始めるが、
手が震えてうまく装着できずにいる。
強気な姿勢でここまで来たけれど、本当は恐怖に怯えているのであろうか。
「言っておくけど、こ、怖いわけじゃないのよ。き、急激な運動による酸素不足よ!」
「貸しな」
手を伸ばしたドルンが、リタの細い指からイヤリングを奪うと、
彼女の耳朶に器用につけてやった。
微かに何度もドルンの指が耳に接触する。
ドクンドクン……。
耳朶に伝わる刺激は強過ぎず弱過ぎず、ほど良い感触だ。
リタの胸も何故だか騒いで頬が赤くなる。
そして、ネジの調整を終えたその指が離れかけたその時、彼女の髪にそっと指が触れた。
身を硬くしたまま静かになるリタ。
そんな彼女を見下ろし、ドルンは何気に口にする。
「――随分短く切っちまったんだな……綺麗な髪だったのに……」
(え……?)
そんな風に思われていたなど、勿論予期していなかった。
繊細に艶めく赤みのある紫の髪に、ドルンの骨太の指が絡まる。
やがてその指が強張る彼女の頬へと移動し、滑らかに輪郭を辿らせる。
「ド……ルン……?」
「――紫水晶が、白皙の肌と青い瞳に映えてよく似合っている」
イヤリングが揺れる度に、キラキラと煌いていた。
微かに触れるその指が、耳から首筋へと移動するのをリタは感じている。
リタの心臓は早鐘を打っていた。
ドルンは黙して、熱い眼を向けたまましばらく何も語らない。
熱い眼――確かにリタにはそう見えていた。
あの時頬に触れていたのは彼女の方であったが、
あの水辺の夜のように時間が止まり、二人は互いの目を離せずにいる。
そしてまた、ドルンの唇が接近し――、リタは咄嗟に目を閉じた。
――が、いつになっても唇への感触は何も感じられなかった。
代わりに頭の上に彼の絵筆が置かれて、ペシッと軽く叩かれる。
「バーカ。行くぞ」
「なっ! 何よバーカって! その大切な絵筆をへし折るわよ、この大バカ!」
延々と岩場は続く。
いつまたあのアウドリックを襲撃した、
羽を生やした魔物が襲いかかって来るのかわからない。
不安にも怯えつつ空を見上げるが、
あれ以来何も襲って来てはいなかったし、大丈夫だと信じていた。
ルフィネを見つけた時点で、自分の起こす行動はただ一つだった。
彼がついて来てくれて本当に良かったかもしれない。
ルフィネを、セシリーのもとへ連れ出してもらえる役目を、頼み込むことができる。
「ねぇ、ユナナってどんな人? きっと綺麗な人なんでしょうね」
唐突に場違いな話を切り出す。
背を向けたままのドルンが間を置いて返答した。
「――お転婆で男勝り。そばかすだらけで日焼けした浅黒い肌の元気な奴だ。
まぁ、初めて彼女を見て、女だと見分けられる人間は滅多にいなかったな」
「え……? そうなの?」
「よく男に間違えられていた」
可憐でかよわいお姫様をイメージしていただけに、
想像していた姿とだいぶかけ離れていたことにリタは絶句する。
「あ、あんたの趣味って、結構変わってるわね。
薄幸の美少女とか可愛らしい子が好みかと思ってたから。でも好きならそんなの関係ないわね」
ドルンは黙っている。
反論さえない。
怒っているようにも見えるが、背中を向けられたままでは本当の表情も窺えなかった。
「ごめん。不謹慎だったわね」
行方不明中の恋人のことを、話題に取り上げてしまった自分に後悔する。
きっと見つかるわよ、そう心の中で補足もしておいた。
振り返ったドルンは予想に違わず――
「――俺の……何だって?」
否、予想に反して、気の抜けた顔を浮かべている。
「あんたの趣味。ユナナは恋人なんでしょ、あんたの」
「はぁ~……」
「何よ、そのため息?」
「何でそうなる? ユナナはただの学校の同期、仲間だ。
それ以上でも以下でもねぇよ」
リタは目を剥いた。
「だ、だってテスがドルンの彼女だって!」
「あの野郎……、デタラメ教えやがって」
「デタラメだったの!?」
「ユナナはテスが好きだったんだ」
「――嘘……!?」
「本当だ。よくユナナに相談を持ちかけられたことが何度もある。
でもテスは、ああいう掴み所のない奴だろ?
だからユナナも色々悩んでたし、俺も俺なりのアドバイスをしてやったつもりだが、
実際なってたかどうかは不明だ」
それは頼りないアドバイスだと、リタは失笑する。
一体どんなアドバイスをしたのか気になるが、
もしかしたらそれが原因で、こじれた可能性があったかもわからない。
その話を聞いたリタは、ホッとする自分に「ん?」と眉根を寄せた。
(――私、そんなにもドルンのことが気になっていたの……?)
信じられなかった。
セシリーと違い過ぎる、こんなにも無愛想な奴に。
でも、ぶっきらぼうでも優しい所に……。
「私には何もないのが幸いしたのよ。身が軽い分、楽に飛んで行けるしね」
「本当に何もないって思ってんじゃねーだろーな」
「思ってるわよ。だって本当に何もないんだもの」
「だったら俺も何もない」
「あんたには絵があるでしょ」
「だったらお前にも色々あるじゃねーか。詩とか、木登りとか……」
「何よその木登りって。ここ数年登ってないわよ。何で知ってんのよ?」
怪訝な表情を露骨に浮かべるリタ。ドルンは何も言わずにいる。
「その点、あんたの絵は人を魅了するわ。
それが何であるかは知らないけれど、
人を惹きつけて離さない……そんな魅力を具えてる」
ドルンは嘆息する。
そして――
「お前が命をかけて愛する者を助け出そうとしているなら、俺も同じことをするまでだ。
だから文句は言うなよ」
「ドルン……?」
「惹きつけて離さないのはお前も同じだ」
「一体何言って……」
「もう、あんな思いは沢山だ。俺は二度とお前を離したくない――リオー……」
「え……」
(――リオー……?)
確かに今、彼はそうささやいた。
ドルンには今の今まで一度も名前で呼ばれたことがないだけに驚愕するが、
それよりも驚くべきはエリオーネ村でしか呼ばれたことのない、
懐かしい昔の名前が耳に届いたこと。
ただただ、向き合うドルンの双眸を見つめる他はなかった。
瞬きもできず、息さえ止まっている。リタの瞳には涙が溢れていた。
そして、彼の昔の名を声に漏らす。
「――ヨ…ディ……? やっぱりヨディだったのね!?」
「ああ、リオー」
走って彼の目前に駆け寄るが、
「何よ! この嘘つき! だから言ったじゃない! ヨディじゃないのって!
どうしてこんなにひねくれちゃったの!?」
ポカスカと、握りこぶしで殴りつける。
「いてっ! てっ! やめろって……。人間、生きてりゃ色んなことが起きんだよ。
そういうお前だって勝手にいなくなったりするなよな。俺、結構ショックだったんだぜ?
朝お前が馬車に乗って、一言も告げずいっちまうんだもんな。裏切られた気分で落ち込んだ」
「わ、私だって不本意よ! でも十二歳の誕生日を迎える直前に、
無理矢理連れて行かれたんだから仕方ないじゃない。
何度も村に戻りたいって泣き腫らしたわ!」
更に涙がとめどなく溢れてグシャグシャの顔を、ドルンの指が拭った。
「ああ、多分強制的に連れて行かれたんだってわかってた。
だから俺は、馬車から見えたあのセシリーって男が許せなかった。
あいつ、俺のことちゃんと憶えてたんだぜ」
「バカね。セシリーを敵に回したら、あんたなんてこてんぱんよ」
「魔法師なんてのは、何企んでるかわかんねーしな。それに随分――」
涙を指で拭いながら笑うリタは、小首を傾げている。
(――綺麗になった……)
髪の長さも村にいた時と同じくらいに短くて、
何だかあの日が戻って来たような不思議な感覚になる。
あの時したくてもできなかったこと――臆病だった自分はもういない。
伸ばされたドルンの手が、今一度リタの頬に触れそうになったかと思うと……、
両腕が背中に回され、リタはきつく抱き込まれた。
「あっ……!」
「もうどこにも行くな。一人でなんか行かせやしない。俺はずっとお前を――」
突然の抱擁、情熱的に求めて離そうとしないその腕に狼狽する。
自分とは異なる男の逞しい身体に戸惑うリタは、
どうしていいかわからずされるがままになる。
「ちょ…苦しい、ドル……ヨディ!」
「リオー、もう少しこのままで――ずっとこうしたかった」
ドルンはリタを腕の中に閉じ込めたまま離そうとしなかった。
それどころか、いっそう深くリタの頭ごと
、柔らかで抱き心地のいい身体を抱き寄せる。
「ヨディ……」
不意に頬が、抱きしめるヨディの胸元にある硬い何かにあたった。
「ヨディ――痛い」
「あ、悪い」
思い出したように彼は、首からさげていた首飾りを取り出した。
鍵のような物が先端についている。
「あ――! この鍵ってまさかあの怪しげな箱の!?
あんた、失くしたって……やっぱりエッチな本でも入ってるんでしょ!?
だから言えなかったのね」
「あのなぁ」
するとその鍵のついた首飾りを、ドルンはリタの首にかけてやった。
「これをお前に……お守りにするといい」
「お守りならイヤリングがあるわよ。そんなにつけてたら逆効果よ」
「いいからつけとけって。おかげで俺の願いも叶えられたんだ」
「願い?」
「ああ、お前にまた会えるようにっていう――」
段差のある岩をよじ登ろうとするが、高さがあって簡単には登れそうにない。
ふと近くに、頼りないが細い木が一本、
岩と岩の隙間から伸びているのがドルンの目に留まり、
彼は木の前へ行くと軽々と登り始めた。
昔の軟弱なヨディを知るリタにとって、その身軽さがよほど目を疑う光景だったのか、
あんぐりと口を開いたまま茫然自失して眺めている。
「あんた……本当にあのヨディなの?」
「はやく登って来いよ」
「う……」
思わず唸ったリタは、躊躇して足がすくんでしまった。
以前、アウドリックの自宅前の大木によじ登ろうとして登れなかった苦い記憶を思い出す。
「か、簡単に言わないでよね!」
「木登りは得意中の得意だったじゃねーか。猿のように」
「昔の話よ! 今はもう大人だし、身体が重くて簡単に登れないのよ!」
つい彼を睨みつけ叫んでしまうのは、悔しさと戸惑いのせいだろうか。
それと羞恥心。
「猿もついに落ちぶれたか……。頑張って登ってみればいいじゃねぇか。
木登りが下手な猿がいるって笑ってやるから」
「ウッキー! あんた、やっぱりヨディだわ。
猿猿ってそんなに言うんなら、登ってやるわよ! 見てなさい」
懐かしい会話のやり取り。
挑発されてムキになったリタは、昔の負けず嫌いな彼女に戻っている。
……とは言うものの――やはり身体が重くて登ることができなかった。
圧倒的に腕力が足りない。
歯を食いしばって枝に手を伸ばしても、これ以上はもう無理だった。
「……駄目! やっぱり無理!」
ドルンにはできて自分にはできないことが腹立たしい。
あきらめて足を着地させようとしていたが、
見かねたドルンがリタの両腕を掴んで持ち上げた。
(え……嘘……?)
「お、重いわよ」
「知ってるって」
「失礼ね! 嘘でも軽いって言うのが礼儀でしょ!」
「正直な性格なんでね」
「もう! 嫌な性格ね!」
昔のヨディのような細くて白い腕はどこにも見受けられず、
自分の二倍はありそうな太い腕は、筋張った小麦色の肌をしていた。
リタは立ち上がる彼の勇姿を見上げる。
「――何か、何もかもが変わってしまったのね……」
「もうチビじゃねーだろ? 俺、結構気にしてたんだぜ?」
「そうだったの?……ごめん。でもあんたも人のこと、猿猿って言ってたじゃない!」
「素直だったからな」
「もう!」
今ではすっかり上から見下ろされてしまう彼の身長は、リタの頭一つ分は高かった。
彼の密かなコンプレックスはとうに解消されているが、
この件については、リタにとっても悔しさよりも喜びの方が何倍も大きかった。
「――それで、あの日私と別れてから、ヨディはどう過ごしていたの?」
「俺があの村を出たのは、リオーがいなくなってから間もなくだ。
ある人の協力を得てな。その後はしばらくあてもなくさ迷っていた。
食べるものもねぇし、恵んでもらったり拾い食いしたり何とか食い繋ぎながら、
時に絵を描いて微々たる食費を稼いで……」
「そんなことしてたの!? でも、ある人って誰?」
「俺を村から出してくれた、ある人……だ」
「だから誰なのよそれ?」
「……さぁ。俺もよくは知らない」
「でも、何でヨディまで出て行く必要があったのよ?」
「俺は毎日途方に暮れていた。
お前がいなくなってからすっかり絵を描く気力も失っちまったんだ」
「嘘、あの絵バカだったあんたが?」
ドルンはどこの国かもわからずさ迷っていると、白馬に乗った男に声をかけられた。
途方に暮れ泣いている少年を見て、
「強くなりたいのなら、まずその涙を拭くんだ」と彼は告げた。
男はオルハルトという名のアグナヒ統合国の王だった。
ムイ・ファータ武術学校を創設した人物でもあり、
帰る家のない孤独なドルンを実の息子同然に学校で面倒を見ることを約束してくれた。
無口で名前も過去も語ろうとしない少年に、
王はドルン・ピスカートという名前を与えてくれる。
それ以降、ヨドリクス・エンフィセンの名前を捨てた彼は、ドルンという名で生きていく。
年が若干違えど、同期で入ったテスとユナナと特に仲が良く、
悪戯をしては先生に怒られてばかりいた。
次第に元気を取り戻し、活発になって武術も身につけ始めるが――
「あ。その頃に、性格も歪んじゃったのね」
「……あのなぁ」
リタは笑い、ドルンは引きつる。
「きっとユナナとも会えるわよ。私とヨディだってこうして――……」
うつむいていた顔を上げると、リタは吸い込んだ息を数秒間止めた。
ドルンの顔がすぐ傍にあったからだ。
うろんげな瞳で、顔を斜めに唇を近づける。
「ヨ……ディ……?」
しかし触れる寸前で唇は重なることなく、
彼は何事かを考え込むように黙り込んでいる。
そしてそのまま身体を遠ざけ、向こう側を向いてしまった。
(――何? 何なの一体……?)
この間と同じような押し留まった不可解な行動。
別に嫌じゃなかった。
だけど、これでいいんだと内心ホッとする。
彼を好きになってしまってはいけなかった。
土壇場で思い踏みとどまってしまう自分を見たくはなかった。
命をかけようとしている決心を、揺るがせたくはなかった。
こんなことをしたくてここへ来たわけじゃない。
自分はこれから命を捧げに行くのだから――
***
なだらかだった道が終わりに近づくと、眼下に森と小さな村が見えた。
「ただいま! 私の村! 私の故郷!」
手ぶらでウキウキのリタは、森の中をはしゃいで駆けていく。
「あんまりはしゃぐと転ぶぜ」
リタの荷物を代わりに担いでやっていたドルンが後ろから注意するが、
彼女の足は止まらなかった。
聞いている様子もない。
あんなに待ち焦がれたエリオーネ村は、何も変わっていなかった。
リタは懐かしい自分の住んだ家へと向かうが、さすがに目の前まで来ると、
その先へ進めなくなって立ち止まる。
あの時既に、祖父母はもう自分のことなど忘れてしまっていた。
――と、中から誰かが戸を開ける音がして、
反射的にリタは隣りのヨディの家との狭間の茂みに身をひそめた。
すると中から出て来たのは、全く見たことのない若い男性であった。
不意に窓から見えたエンフィセン家にも、
見知らぬ老婦人が背もたれ椅子に腰をかけて眠っているのが見える。
「ここはもう、俺たちが知らない人間の棲家だ。……さ、行こう」
ドルンがリタの手を引いて歩き出す。
あれからまだ六年しか経っていないというのに、
村の中がこうも変わっていたことにショックを受けた。
「リオーがいなくなった直後、村の皆から何故かリオーの記憶が抹消されていた。
後で知ったことだが、お前を連れ去ったセシリーとかいう魔法師が――
俺に記憶が消えないようにする魔法をかけて行ってくれてたんだ」
「どうしてわかったの?」
「牧師の……先生に聞いた。
俺と先生だけの記憶が、魔法にかかってて消えなかったんだ」
「牧師さんとあんたが? 何故?」
「あの人、本当はアウドリックの元魔法師だったんだ。
名はシグネシェン・モードン。十四年前に大戦を起こした首謀者だ」
リタはすくみ上がった。
そして、彼女は急ぎ教会の方へ走り出す。
「あ、おい!?」
「牧師さん! どこなの牧師さん!?」
叫び続けていると、庭の裏側からあの優しい笑みの牧師が現れた。
「ああ、牧師さん! 私よ、リオーよ!」
「リオー……? 本当にリオーかい!? こんなに大きくなって……見違えたよ」
「良かった。牧師さんはまだここにいて、ちゃんと私のことも憶えててくれたのね!」
笑顔を綻ばせてやって来る教え子に、教師兼牧師のシグネも自然と顔を綻ばせる。
だが、後からやって来たドルンに気がつくと、一変して表情を曇らせた……ように窺えた。
「――どうして君たちがここへ?」
「俺たちはこれからあの山へ向かうんだ先生――いや、シグネシェン・モードン。
行き方は知ってんだろ? どうやって行けばいい?」
「ちょっ、そんな聞き方……。ヨディ、態度がなってないわよ!」
ドルンの双眸も声もどこか冷やかだ。
リタがいさめるが、シグネは微笑したまま穏やかに応じる。
「エリオーネの女神像だ。
あの泉の石像を前にある呪文を唱えさえすれば、あの山の中へと空間移動できる」
「牧師さんが戦争を引き起こしたなんて嘘よね!?
私にはずっと優しくて頼りにもなるいい先生だったもの!」
必死にリタは肯定しようとするが、シグネは頭を横に振るばかりだった。
「この村はエリオーネと魔法師が作り出した幻の村、異次元空間の場所だ」
それはつまり小規模な共同社会、隔離施設のような村。
「君たちはここから抜け出すことができたけど、私は出ることを許されていない。
言わば牢獄のようなものだ。但し、こことあの山の中にだけは自由に行き来できるんだ。
闇族のフィールドだからね。あそこには君の姉さんもいるし、君の知ってる人もいるよ」
「私の知ってる……誰なの!?」
「行けばわかるよ。さぁ、姉さんのもとへ行っておいで。私はここで見守っていよう」
シグネはついて来るよう示唆すると、リタとドルンを女神像のある泉へ導いた。
女神の石像の前に立ち詠唱を終えると、
ヴゥーンという鈍い音と共に白い光の柱が出現する。
「さ、この中に入れば瞬間的に移動できる」
「ありがとう牧師さん」
リタは一度深呼吸をして、それから足を踏み入れた。
その後にドルンが続く。
シグネは意味深な面持ちでドルンを眺めていたが、彼は目を合わせず沈黙したままでいた。
二人が並んで柱の中に立つと、シュンッと一瞬の内に消え去った――。
誰かが空間移動して現れた気配を認め、口角を吊り上げたリュゼルが振り向く。
しかし、そこに立っていたのが期待した人物とは異なっていたため、
彼の興も冷めてしまった。
「お前には用はない。出て行けと告げたはずだぞ」
――私は私の意志でここにいるの。
リュゼルの指図は受けないわ。従うつもりもない。
戻って来たリーバは、強気な姿勢で反抗的に食ってかかる。
「ロミージェンの寝首をかくつもりが、お前が出し抜かれたようだな。
恋にでも落ちたか?」
リーバの黒い瞳がギロリと向けられるが、彼女は敢えて笑ってその場を取り繕った。
――それはどうかしら。恋に落ちてしまったのなら、
あの男と駆け落ちでも何でもして、ここに戻っては来なかったはずよ。
今更アウドリックなんかに未練はないし、暮らしたくもないわ。
私の故郷と居場所はここだもの。
「あいつをかばっているのか?」
――違うわ! 私が本当に愛しているのは、リュゼルあなただけよ!
「……ふん、まぁどうでもいい。勝手にしろ」
リュゼルは、これ以上リーバに構うことをやめた。
代わりに、隣りで微笑むルフィネを抱き寄せる。
「ルフィネリアン。君の妹がもうじきここへやって来るよ。楽しみだな」
ルフィネの眉が微かに動いた気がするが、
彼女は悟られぬよう心を石のように硬くし、平然と笑みをのぞかせていた。
――キヤァアアア……!
女神エリオーネの苦痛に悶える怒号が、地響きもろとも鳴り響く。
――来たな……。
フッと気配が乱れ、忽然と現れた二人の男女にリュゼルとリーバは背後を透かし見た。
リーバと瓜二つの少女を見るや、ルフィネは絶望感に苛まれる。
「姉さんっ!」
駆けつけようとする妹、リタ。
ルフィネはリュゼルと並んで、目つき鋭く見下していた。
その残忍な外見に、リタの笑顔も瞬時に失われる。
そして、横に立つ見覚えのある男に彼女は驚愕した。
「――え……、リュゼレオン……王子?」
立ち止まる足は、そこから一歩も先に進めなかった。
自分の顔と酷似する女。
同じ顔立ちが視界に入り、怯えた。
自分のようで自分ではない似て非なる容貌。
髪の長さと目の色は違えど、彼女は――
「リーバ……レイゼラン……?」
実は今から一年ほど前に、父から話は聞いていた。
双子の姉がいたことを。
でも、何故生きていて、王子とここにいるのかがわからない。
自分と同じ顔に驚いたのも事実だったが、
それよりもルフィネと王子の存在の方がショックが大きかった。
「久し振りだねリタレイゼラン。髪を切って益々可愛くなって、
わざわざ僕に会いに来てくれるなんて感激だね」
服装はアウドリックの衣装とは違っていたが、
リュゼレオン王子であることには間違いなかった。
得てして、アウドリックにいた時と何も変わらない緊張感のない軽いノリ。
だがその瞳の奥に隠された、途方もない野望が見え隠れしていた。
「姉さんを連れ去ったのは、やっぱり王子の仕業だったのね!?」
昔、王子が怪しいと睨んだリタは、
突き止めようとして「お前は首を突っ込むな」とセシリーに阻止された。
彼はリタが関わることを強く拒んだのだ。
リタを護るために。
「交換条件として、君がルフィネリアンの身代わりになるって言うんだね。勿論大歓迎さ」
心を読まれて、萎縮したリタは固唾を飲み込んだ。
すんなり帰してもらえるとは、元より思っていなかった上に、
話し合ったり戦って通じる相手でないことも重々承知している。
何よりも自分は無力。
だから、その方法しかなかった。そうなることを望む。
「ええ。姉さんを無事にセシリーのもとへ届けてくれるなら、私はどうなっても構わない」
王子のそばで平静を保っていたルフィネが堪え切れず、全身を戦慄かせていた。
駄目、駄目よと、何度も左右に首を振り続ける。
だが、これこそが自分が見つけ出した答え。
今日まで生かされて来た理由。
セシリーとルフィネの二人を再び繋ぎ止めなければならない。
自分の道を見つけることが旅の最大の目的だったけれど、
結局それはセシリーを手放し、姉を救うことだった。
それが結論だった。
でも――、自分はこんなことを知るために生まれ、そして生きて来たのだろうか。
リタの心が急にしぼんでいく。
「だって、私には何もないんだもの……」
その時、リタの後ろに立って様子を窺っていたドルンが口を開く。
「――俺がいる。俺がお前を必要としている。だから何もないなんて言うな!」
「ヨディ……」
「リオー、俺を信じてくれるか?」
「え? ええ……」
唐突にわけもわからず、ただ覇気なく相槌を打つ。
「――ヨディ?」
「ご苦労だったな、ヨドリクス。彼女との旅はさぞ……楽しかったことだろう。
では早速リタレイゼランを渡してくれるな?」
「なっ……んですって!?」
労いの言葉をかけるリュゼルが彼をそう促すと、
ドルンは何も語らずリタから更に数歩、後方へと下がっていく。
まるで、リタを手渡すかのようにして……。
「ヨディ!?」
目を剥き愕然とするリタ。
「嘘でしょヨディ!? あ、あんたまさか――」
「嘘じゃないよ。彼は人間と、我がメラル族の女との間に生まれた半神半人。
つまり闇の血が半分入っている我が同胞だ。
彼をエリオーネ村から出してやったのは、この僕だよ。
君と会わせてやる代わりに、いずれ君をここへ連れて来るという条件つきでね。
ああ、ちなみにヨドリクスにあのセシリージェンとかいう奴がかけた、
記憶の抹消の魔法が効いていなかったのが、メラルの血が通う証拠さ」
「私を騙していたの!?
ヨディの記憶が抹消しないようセシリーが魔法をかけてくれてたんだって、
さっき教えてくれたじゃない! 記憶を失くしていた振りを、
ヨディじゃない振りをした次は、私を連れて来るのが目的だったの!?
それで、あんたは来なくてもいいって言ったのに、私の後をついて来たってわけね!?」
「違う! 俺は――」
お前を連れて来たくはなかった……、そう言おうとして、口をつぐんだ。
今更な言い訳はしたくない。
「でも私は自分の意志でここへ来たの。あんたは関係ない……でも許せない!
『魔法師なんてのは、何企んでるかわかんねー』って言ってたくせに、
何企んでるかわかんないのはヨディ、あんたの方じゃない!」
やや離れた位置で沈鬱するドルンは目を伏せていた。
罵倒を浴びせかけるリタは、怒りの色を赤裸々にしている。
昔の美しい思い出も楽しかった旅も、少なからずときめいた胸のうずきも、
ガラスが割れたように音を立てて粉々に崩れていく。
「裏切りが一番辛いと言ってたのも、自分の痛みをいつも感じていたからよね。
後ろめたいのも当然だわ! 何よこんな物!」
首にさげていた首飾りを引きちぎって投げ捨てた。
何も反論して来ないドルンは、足元に投げられた首飾りを黙したまま見つめている。
憎悪に満ちたどす黒い暗黒の心に、リタは包まれていた。
「駄目よリタ! そんな憎しみの感情に押し流されてしまっては!」
(いいのよ姉さん! これで、いいのっ!)
「リタ……?」
わざとそんな態度を取っているようにも見える。
何か目論見でもあるのだろうか。
思わず叫んでしまったルフィネに、頓着する素振りも見せないリュゼル。
むしろ彼は、最初から寝返った振りをするルフィネにも勘づいていた。
「それを言うならリタレイゼラン、君もいつだったか言ってたよね。
アウドリックに戻って来た当初、
『こんな国大っ嫌い、滅んでなくなっちゃえばいい』……ってさ。
僕はずっと憶えていたよ。夢は叶えないと意味ないよ」
「そ、それは感情的になってつい口を滑らせたというか、本心じゃないわ!
その証拠に私は姉さんを助けるためにこうして――」
「それはちょっと違うな」
「何ですって?」
「君は呼ばれていたに過ぎない。君には、エリオーネとバノアの二神が封印されている」
「!」
「闇のメラル族のエリオーネが覚醒しようとしているんだ。
光のエフェ族のヴァ・ノーア、
つまりバノアによって君の持つ紫水晶に封じ込められたエリオーネに、
君は呼ばれていたんだ。いや、操られていたと言った方が妥当かな。
このエネルギー集積所へ向かうように。ここはメラル族の本拠地だった所だからね。
バノアの力が弱まった今、ようやく解放される時が来た!」
確かに耳朶に揺れるイヤリングに視線を移すと、
この紫水晶自体が何かに共鳴していて生きているかの如く、脈動しているのが感じられた。
「全くその身体は苦痛そうだね。力も記憶も封印されてしまっているんだから。
君こそ、いつまで眠り続けているつもりなんだ?」
その時、頭を垂れていたルフィネが、おもむろにリーバを見据えて呟いた。
――リーバ、本気でこの男を愛しているの?
彼女の心に問う。
唇を噛んだリーバは、リュゼルのそばへ擦り寄った。
「本気よ! ねぇ、リュゼル。私はあなたを本当に愛しているのよ。
一度死んだ私を甦らせてくれて、私を何度も愛してくれたあなたを――」
「鬱陶しい」
笑みを浮かべていたリーバの瞳孔が開く。
「リュ……ゼ――?」
ズッ……。
リーバは至近距離から魔法を喰らって、その場に崩れ落ちた。
彼女は瞳孔を開いたまま、既に事切れている。リタの血の気が引いた。
(う……そ……)
あまりの唐突な衝撃に、声にならなかった。
ルフィネとドルンも、突然の出来事をすんなり受け止められずにいる。
「ああ! 何てこと! リーバ……!」
ルフィネが涙をこぼしながら、リーバの傍らへ駆け寄り両膝をついた。
「愛していた? この僕が君を? はん、冗談じゃない。
使えない傀儡は邪魔なだけだから始末しなきゃあね。
もっと使えると思って生き返らせたわけだけど、
見込み違いだったようだ。ガッカリだよ」
屍と化したリーバに、無慈悲な言葉を吐き捨てるリュゼルはせせら笑っていた。
そして背筋が凍りついて立ち尽くすリタを、酔いしれたように眺めやり唇を舐める。
人形のように操られて人形のように捨てられ、
一番弄ばれていたのはリーバだったのかもしれない。
(――何て可哀想な私の妹……)
「あなたって人は! 人の命を無下に利用するなんて!」
感情に左右されないルフィネが息巻いて立ち上がるや否や――
「皆、逃げろ!」
叫ぶドルンがリュゼルに体当たりした。
「リタ! 逃げなさい! 私のことはいいからはやく! ……あぁああ――ッッ!!」
「姉さん!?」
リュゼルに魔法を喰らったルフィネが絶叫する。
「姉さん!? 姉さんっ!?」
「リュゼル! 何であの人を!?」
「ヨドリクス、下手な真似はよした方がいいぞ。周りが犠牲になるだけだ」
「くっ!」
前のめりになって倒れ込むルフィネを突進したリタが抱きかかえて支えたが、
彼女はもう力が尽きかけている。
この数年、途中でリタやアウドリック、運命や神を何度も恨みそうになったけれど、
ルフィネは心の闇と葛藤し、決して屈しようとはしなかった。
リタを護るという約束だけは、最期まで貫こうと。
「リタ――、あなただけは絶対護るって決めたのに、
それすら果たせない情けない姉でごめんね……」
「嫌よ! 何言ってるの! 姉さんはこれからセシリーと幸せになるんじゃない!
だから絶対セシリーのもとへ帰って! じゃなきゃ、許さないんだから!」
「リタ……」
(そして、自分がルフィネを許容したように、母さんもいつかはきっと――)
差し出されたルフィネの手を握り締めるリタは姉を鼓舞する。
出血は見当たらないが、恐らくは魔法で身体のどこかを撃破されたのだろう。
リタのその願い虚しく、ルフィネは弱々しく瞳を閉じていく。
――セシリー、心配ばかりかけてしまってごめんなさい。でも、もういいの……。
私のことは忘れて……お願……い……。
最期の力を振り絞り、全身全霊をかけて愛する人へ届くよう念じる。
「姉さん駄目よ! 死んだらもっと許さない! 王子! はやく何とかして!」
「――嫌だね。使い物にならないガラクタは要らないよ」
「あんたの心の方がよっぽどガラクタじゃない!」
懇願と軽蔑が入り混じる眼差しをリュゼルに向けるが、
彼は睥睨してこの場を楽しんでいるかのようだった。
頼んでも無駄だと知り、ルフィネの身体を抱いて必死に名を呼ぶ。
「姉さん!? 姉さ……」
ルフィネの首がカクンとうなだれ落ちた。
「嫌ぁあああ――――ッッ!」
パーン!
突然、リタの紫水晶の両のイヤリングが粉々に砕け散った。
リタの身体を赤紫の光が包み込んで輝いていた。
それはイヤリングからではなく、リタ自身の身体の中から溢れ出る如く。
そこにいたのは、リタではない神々しい別の姿。
宝石のように煌く瞳は赤と紫。ドルンが呆然となって見つめていた。
宙に浮くリタには何が起きているのかわからず、彼を黙って見下ろしていた。
「――ようやくお出ましだな。待ちくたびれたぞ、バノア」
口にするリュゼルが笑み、その視線が髪と同じ赤紫をしたバノアの双眸とかち合う。
(バノア……?)
バノアと一体となったリタは、自分の光り輝く姿を眺め回す。
見たことのない銀色の衣装を身にまとっていた。
「何で私がこんな格好を……?」
「光のエフェ族のヴァ・ノーアは戦いの女神。闇のメラル族のエリオーネと戦っていたのさ」
アウドリックの古文書にはこうある。
――その昔、エフェ族とメラル族の戦いがあった。
その戦いの最中、人間界に落ちた彼女は、ある石工であり彫刻師の男に助けられ、
短略化したバノアという名だけを残して他の一切の記憶を失くしたまま、その男と結ばれる。
しかし数年後、夫と二人の子供たちを残して、
記憶が甦ったバノアは再び天界へと帰っていった。
メラル族を封印するために。
そして地上に残されていたのは、バノアの紫水晶のイヤリングのみ……。
リタはドルンを見つめていた。
不意にリュゼルが話を振る。
「アウドリック前史では、
闇のメラル族と戦った光のバノアとして誉め讃えられているようだけど、
はっきり言ってあれは改ざんだよね。歴史なんてそんなものさ。
――真実は、メラル族に寝返ったバノア。裏切りのバノア」
それぞれの神殿のエネルギーは、最終的にエリオーネ神殿に集約されて、
三角山へ届けられる密接な関係にあった。
その力が届けられず、大地、
つまりエリオーネの身体を流れる力も堰き止められ、女神は苦しんでいた。
女神の嘆き悲しむ声がこの山では、
より強力な負のエネルギー、闇は病みとなって増幅する。
突然、リタの風貌が変わった。
精神がバノアと入れ替わったかのように……。
「私は仲間の神々と、今は神殿が建つ世界中の巨石を配置して、
力の流動を押し留め封印した。だがエリオーネを封印すると、
しばらくして自然界や人間たちの心までもが荒んでいった。
大地である女神と人間たちの意識は、連動し合っている。
だから私は、本当に自分たちのしたことが正しかったのかがわからなくなった。
良かれと思っていたことが、実は間違っているかもしれないと気づいたのだ」
闇のメラル族を封じ込めるということは、
エリオーネ自身を封じ込めているのと同じであることを知らなかった光のエフェ族。
エフェ族やその後継のアウドリック人がしていたことは、
実はエリオーネを縛りつけ苦しめていた逆の行為だった。
「メラル族はそれを解こうとして、太古、数々の戦いを繰り広げて来た。
女神を解放するには、各神殿の封印を解き放つ必要性があったのだ。
世界中の巨石を強力な磁場が発生する場所に配置し、
エネルギーの流動を押し留め封印したのはエフェ族だ」
その封印解除の鍵を知っているのは、封印したバノア以外は誰も知らない。
バノアと共にリタは、各神殿を巡って詩を歌って来たが、
実はその詩の中にこそ封印の鍵は隠されていて、
知らず知らずリタは封印を解いて歩いていたのだった。
その磁場のエネルギーを言語化したキーワードが全て合わさった呪文――
解除キーとなる仕組みであったが、最後のエリオーネ神殿で彼女は詩を歌わなかった。
セシリーとの再会に浮き足立ち、それ所ではなかったという理由もあるが、
バノアの心の迷いが無意識に表出されていたのかもしれない。
それ故に、未だ封印は完全に解けておらず、
エリオーネもまだリタの身体に封じられたままだった。
「手っ取りばやく、エリオーネ神殿ごと吹き飛ばしてしまえばいい。
あそこにはセシリージェンがいたな」
リュゼルが唇をチロリと舐めた。
バノアが神殿を瞑目すると、そこにはセシリーとテスがいるのが見える。
冷静沈着な彼女には、もはやリタの面影は薄い。
時々リタの思いが強くなったりはするが、今はバノアの方が強かった。
ただ見ていることしかできないドルンは、どこか冷たいそんな彼女を見ていたくはなかった。
いつもの多少怒りっぽくても頼りのないリタに戻ってほしかった。
「あの神殿をぶっ飛ばすような真似をしてみろ! お前をぶっ飛ばしてやるからな!」
「魔法も使えない無力な半神半人が……ほざいてろ」
相手にすらしていないドルンを、鬱陶しげにリュゼルは軽視する。
しかし、戦いの女神は悩んでいた。
本当にエリオーネを解放してしまっていいものだろうかと。
大地がグラグラと激しさを増して揺れ動いている。
リスクはあるが、やらねば大地もろとも崩壊してしまう。
共存の道を、今こそ選び取らねばならない。
「さぁ! はやく僕の封印を解いておくれ、気高き麗しのヴァ・ノーア!」
意気揚々と高らかに解放を待ち受けるリュゼル。
バノアは、歯噛みしながら睨み据えるドルンを正視する。
リタがエリオーネ村での思い出を懐かしく語るように、
バノアもまた短い時を人間として暮らした日々がいつまでも優美に記憶に残っていた。
それは楽しくも美しい思い出。
「ヨディ……、共に楽しい旅を、ここへ私を導いてくれてありがとう」
「バノ……リオー?」
「運命には逆らえない。今度も私たちはまた――」
「リオー! お前はバノアじゃない! リオーだろ! バノア、彼女を返してくれ!
昔のように俺の前から連れていかないでくれ!」
ドルンが宙に浮くリタの下へ駆けつけた。
手を伸ばしてリタの指先に触れると、
降りて来る彼女を自分の方へと引き寄せ、そして抱きしめる。
「ごめんなさいヨディ。信じるって言ったあなたと再会した時、
嫌そうな顔をしていたのも本当は私をここへ連れて来たくなかったからなのよね」
会いたいのに会いたくなかった――
そんな複雑な心境でいた彼の苦しい気持ちに、
ようやく今になってリタは気づくことができた。
「なのに、あなたを罵倒してしまって……。本当にごめんなさい。
でも楽しかった。今までありがとう」
本当は自分も彼のそばにいたい。
このまま一緒に帰りたい。
話したいことが沢山ある。
知りたいことも色々とある。
だからあと少しだけ――
「……この間告げたことを忘れてはおるまいな」
突然フッと、リタの意識が途絶え、バノアの面様と口調に戻る。
ドルンの抱いていた腕の力が緩んだ。
――リタを信じて待っていてはくれまいか……。
「彼女は必ずお前の所へ帰って来よう、ドルン――いや、ヨドリクスよ」
ドルンの全身が赤紫色をした楕円形の光球に包まれた。
その中はとても安らぎ、心が洗われるような清浄な空気に満ちている。
疲れた身体を癒し、みるみる力が漲って来るかのようだった。
だが、ドルンの体躯が宙に浮き、ぐったりと横たわるルフィネをも包み込み、
彼らは光のはやさでここから姿を消す。
二人は瞬間的に、セシリーの魔法で護られたエリオーネ神殿の中へと瞬間移動していた。
虚を衝かれたセシリーとテスが、目を大きく瞠目させる。
「ルフィネ!」
「ドルン!」
しかしドルンはすぐに、リタのいる場所へ戻ろうと走り寄った。
「行くんじゃない! あの山に見える物はもうじき消えて無くなる。
この聖地や神殿も被害を被るだろう」
「……っ!?」
憤然とする彼を止めたのは、ルフィネを抱きかかえるセシリーだった。
セシリーはまだ微かに息があるルフィネに治癒魔法を施している。
赤紫の光は彼女の傷ついた心と身体を、大分回復させるほどの癒しの効力があり、
それがバノアの力であることを感じていた。
――キヤァアアアア……!
徐々にエリオーネの嘆く声が大きくなっていく。
岩窟に残された人の形を取る者は、数多の魔物たちを除き、
リュゼル、リーバ、リタの三人のみ。
そのうちリーバは、既に骸と化している。
「――バノア、時間切れだ。僕を、いや女神を一刻もはやく解放してやってくれ。
これ以上の苦しみは、それ以上の苦しみの何ものでもないだろう」
心躍るリュゼルは、屈託ない笑顔で戦いの女神を急かす。
バノアは決断を迫られていた。
封印を解けば、エリオーネもリュゼルの本体も解放される。
しかし、必要以上の闇はバランスを悪くし、崩壊の危機にさらされる。
それならば、エリオーネの闇の母胎を破壊してしまえば、闇はもう生まれない。
巨大な暗黒を野放しにするわけにはいかなかった。
光の戦士である女神は、冷たくなるリーバやリュゼルを一瞥し、浄化する決意を固める。
――リタ。私と一緒に歌いなさい。これは失われた魔法の古詩。
それが封印解除の呪文で鍵となる。
私の声が聴け、その血を引く者にしか歌えないものだ。
美しき記憶 気づかぬうちに
眠りの森へと急ぐ足音
知られざるこの 凍えた涙
沈まぬ太陽 遠き日の夢間に
流浪が導いた 寂しい古詩
モスリンの小径を駆け出して
婀娜めいた流星が 記憶の闇を貫いて
愛さえ忘れてさまよう
朝に溶けゆく 夢の幻影に
露に濡れた草原 眠りのぬくもり
夕日へと続く道は
旅人の目に勇気となって
かけがえなく映るだろう
永遠の約束 限りない愛
滲んでいく優しさ 悠久にまどろむ
夕闇に溶けゆく 黄昏の海に
美しい旋律の歌が紡がれた。
バノアはキーワードとしてこの詩をインプットしていたのだ。
それらは旅の道中の神殿で、リタが口ずさんで来た古詩の総合だった。
しかも彼女が十二歳の頃に、
エリオーネ村の木の上でささやいた詩までもが、最後に含まれてもいた。
既に鍵はばらまかれていたのである。
(リ……オー……?)
ドルンは目を剥いている。
高音と低音が織り成すそのハーモニーは、
どうやらバノアの声と一緒に歌っているようだった。
決して不協和音ではなく、
もしかすると今まで音の外れた歌だと思っていたリタの歌声は、
低音の方を歌っていたからに過ぎなかったのかもしれない。
そしてその音の違いが特殊な振動を生み、
共鳴するリュゼルの魂を肉体から離脱させようともしていた。
――ヨドリクス、そなたの出番だ。その筆で魔法陣と成す絵を地面に描くがいい。
「……絵を?」
彼の握られていた絵筆が、突然何かの力を宿したように光り輝く。
(バノアがヨディの筆に力を貸していたの!?)
心の中でリタは驚愕する。バノアはその疑問に応えた。
――そなたを護りたいと心から願っていたから協力した。
それは愛する者へと抱くような特別な想いだった。
あの筆には、私が武器とする光の槍の力が備わっている。
(特別な……想い……)
胸がキュッと締めつけられ、複雑な心境のままドルンを見据えた。
一方、バノアの思惟を汲み取っていたドルンは一瞬ためらった後、
意志でもって筆を巨大化させ、一思いに混沌とした抽象的な絵を地面に描きなぐり、
完成したと見るや、バノアの声が響き渡る。
「我が同胞、光のエフェ族ら――ジブエ、イセン、デロフィズ、レンギオ、フィルニー、
ナムド、タ・トゥール。此方に集いし汝ら、我に御し得たもう!」
呪文を唱え終わると、バノアは手にしていた光の槍を絵の中心に突き刺した。
そこからそれぞれの神殿を司る神々を示す色――赤、橙、黄、緑、青、藍、紫……
七つのエネルギーが旋回しながら一つの束となって放出され、三角山へ集約された。
エリオーネを縛るものから解放する。
――キヤァアア……!
耳をつんざくような、断末魔の叫び声。
だがそれはすぐに浄化される喜びと化す。
「ああ……とても気持ちがいい。我ら闇族にとって忌々しいはずの光のエネルギーが、
こんなにも恍惚に溢れるものだとは。魂が快楽の中に溶け込んでいくようだ……」
恍惚にまみえたリュゼルの身体が渦を巻く七色の光の中に溶け込み、
リタの身体に封じられたエリオーネもまた、光に焼かれて浄化していく。
少なからず闇族の血を引くドルンの身体にも影響はあるようで、
彼の意識も遠のきそうになったが何とか持ちこたえた。
七色に煌く回転する巨大輪が山を包み込み、天まで白金色の柱が伸びた。
その後光の柱は、リュゼル、リーバ、そしてバノアとなったリタを呑み込んで山ごと消えていく。
赤紫の光球に包まれたドルンの身体は、そのまま宙に浮き、
ぐったりと横たわるルフィネと共に瞬間的に、
セシリーの魔法で護られたエリオーネ神殿の中へと移動していた。
虚を衝かれたセシリーとテスが、目を大きく瞠目させる。
「ドルン!」
――ルフィネ……!? まずい!
とてつもないエネルギーの衝撃波が放出されるのを察知したセシリーは、
エリオーネ神殿を防御魔法から外して、自分たちの身を護ることを強化する方へ変更した。
防御力を強めるための咄嗟の判断だった。
凄まじい暴風と圧力によって、
防御魔法が押しつぶされそうになるが、セシリーの判断で衝撃を免れる。
砂煙がやむと、リタの花が咲き誇っていた聖地ハーラ・ウー・トートイトが一瞬のうちに、
地面がめくり上げられたような荒涼とした大地に変貌してしまっていた。
山があった方向を見ると、三角山は忽然と消失していた。
「ドルン! しっかりしろ!」
駆け寄ったテスが、ドルンを抱きかかえながら懸命に名を呼ぶ。
うっ……と、ピクリと身体を動かして意識を取り戻すドルン。
「大丈夫か?」
「――ああ……。リオーは? あいつは?」
「リオー……? って、リタちゃんのこと?」
しかしどこにも彼女の姿はない。勢いよく身を起こして立ち上がると、
「嘘だろ……? リオ――ッ!」
ドルンは叫ぶ。
自分だけが戻ることになったのがいたたまれず歯噛みした。
一ヶ所だけ、難を逃れて無関係な振りをしていた森があったが、バノアがバリアーで護った。
そこには女神像が建っている。
しかし、エリオーネ村を示す石碑も吹き飛び、
どこに村が隠されてあるのかがわからなくなってしまった。
「――おい、ドルン……」
テスが恐る恐る呼びかけるが、
ドルンは振り返らずさっきまでいたはずの三角山を懸命に探している。
「ドルン!」
ハッとして、テスとセシリーが見ている視線の先を遅れて見上げると、
悄然としたまま唇を動かした。
「リ……オー……」
まばゆいばかりの銀色の衣装を身にまとうリタが、宙に浮いて静かに一同を見下ろしていた。
それはまるで、戦いの女神のような勇敢な出で立ち。
面差しはリタだったが、赤紫色の髪はいっそう紅々と燃え、
青かった瞳は髪と同色の赤紫色に変わっていた。
そこにいたのは、あの光の女神と融合したリタの姿。
それでもドルンはリタであることを信じて語りかける。
「もう、いなくなったりするなよな……」
「――すまぬが、それは叶えられそうもない」
リタの顔ではあっても、声と話し方は高潔なバノアのままだ。
ドルンの眉根が寄った。
「どういうことだよ!? リオーはあいつは!?」
「彼女は――しばらく眠りに就かねばならぬ。何年も浄化する必要がある。身も心も」
「何年も……? またそうやって俺の前からいなくなってしまうのか?」
真摯な瞳がバノアの記憶に突き刺さる。
ベセダルと重なって見え、赤紫の双眸が憂いを秘めて婀娜めく。
「あと少しだけ、私を信じて待っていてはくれまいか」
――ベセダル……。
バノアは希う。
ベセダルが待ち続けてくれたように。
けれど彼女の夫は、妻のバノアと再会することは生涯なかった。
ドルンの頬に白い手が伸び来て、彼の額にそっと唇を押し当てた。
それは約束の接吻――。
――必ず帰って来る。
寂しく微笑んで、姿をくらます。
残されたドルンは、セシリーとテスと同様に途方に暮れていた。
一体何を信じて待っていろと言うのか。
いつまで待てばいいと言うのだろうか。
もしかするとこのまま一生会えないのかもわからない。
言いようのない苛立ちが、彼自身を包み込む。
ふと、セシリーの腕に抱きかかえられていたルフィネが、
意識を戻してうっすらと目を開けていた。
「ルフィネ! 大丈夫か?」
「セ……シリー? ここは……? リタは!? あの子は!?」
身体を起こそうとするが、怪我をしているのであろう、ルフィネの顔が苦痛に歪む。
すぐさまセシリーの治癒魔法が施される。
「心配ない。いずれ戻って来るとバノアが言っていた」
「バノア?」
「ああ。だから心配しなくていい」
「でも――」
言いかけたルフィネの唇が封じ込められる。
彼女は抱きしめられながら、セシリーの唇に閉ざされていた。
そして彼は、自分が観たバノアの姿の映像を彼女にアウドで伝える。
「――そんな……、イヤリングの中にバノアはいなかったなんて……。
赤児のリタのとてつもない魔法力が暴走した際に、
リタの中に入って抑える役目もしてくれていたのね」
――初めからバノアがリタを護ってくれていた……。
バノアのお守りとされていたイヤリングは、ただの飾り――イヤリングに過ぎなかったのだ。
ドルンの脳裏に何かの映像がよぎった。
いつしかエリオーネ像と呼ばれるようになったバノアの像を、一心に彫り続ける石工。
約束した妻の帰りを待ち続ける彫刻師。
その姿はまるで、絵を描き続ける自分に酷似していた。
懐かしいような気持ちにドルンは――
(――リオー、俺は待つよ。何年でも……)
大切なのは、与えられたこの人生を生きること。
何かを信じて生きていくこと。
だから彼は信じることに決めたのだった。
もう迷いはない。
信じて、いつまでも彼女を待ち続けることを――
***
よどみに浮かぶ泡沫の如く、
気泡に全身を包まれているリタは、膝を抱えたまま空間を漂っていた。
一体いつからこうして眠っているのだろう。
一体いつまで眠り続けなければならないのだろう。
明晰夢のように、眠っていてもリタの意識は断続的に覚醒していた。
――リオー……。
彼が呼んでいる。
切なげな瞳で、自分を強く求めていた。
(――ヨディ……)
ドルンが泡沫に包まれて、はじけて消えていった。
ハーラ・ウー・トートイト。
古代アウドリック語で『いつか帰る場所』を意味するその聖地は、
かつてベセダルとバノアが暮らした地。
古の時代、魔法により異次元空間へと移動し、人間界とは隔離されたのだが、
人間界では突然消えた幻の国として、古書や吟遊詩人に歌い継がれている。
そして、何千年の時を経て尚も残る女神像は、ベセダルが造り上げた愛の結晶だった。
エリオーネを想像して彫ったと伝えられていたそれは、実はバノアを模した像だった……。
――地上では、七年の時間がたゆまずに流れていた。
女神像近くの一軒家に、若き画家はいた。
彼の描く色彩豊かで情緒溢れる絵画は、観る者を惹きつけずにはいられない。
今や至る所から引っ張りだこの彼は、
次々と注文も舞い込む忙しさに飛ぶ鳥を落とす勢いで、名実共に著名な画家となっていた。
脚光を浴びる絵描きの名を、ドルン・ピスカートと言った。
大きな窓枠から暖かな陽射しが差し込む工房に、いつも彼はこもっていた。
自分の背丈ほどもある巨大な画布に向き合いながら、
言葉の代わりに絵で対話するドルンは今日も無言で描き続ける。
その時、愛らしい幼な子が、
トテトテとおぼつかない足取りでドルンのアトリエの中へと入って来た。
奥から子供を呼ぶ母親の声が聞こえる。
「駄目よ。邪魔しちゃ」
「俺は別に構わないぜ」
キャッキャと喜ぶ幼子を抱き上げて、母親はドルンの作業場を後にした。
彼女はユナナと呼ばれていた。
そばかすだらけの褐色の肌は昔のまま変わらずにいるが、
ここ数年の間にやけに女らしくなっていた。
昔よく間違えられた男にはもう見えない。
七年前、リタが消えた直後、魔法師セシリーの協力の下、
行方知らずだったユナナを見つけることができた――ユナナは、
ザフマーラ東部の無法地帯にあるジブエ神殿に、何人もの女たちと一緒に捕らわれていた。
それからしばらく彼らは、キングスの城で働きながら過ごすこととなるが、
合間を縫ってドルンは絵を描き続けていた。
そして、そのうちの数枚を城の階段沿いの壁に飾っていた所、
絵に通じた格式高い人物に見初められ、
別の絵を高く買い取ってもらったのがきっかけとなり、
瞬く間にドルンの絵は王族や貴族の集まる社交界に知られるようになった。
本格的な画家となったドルンは、風光明媚な高原地帯、
ハーラ・ウー・トートイトに家を建て、そこへ暮らして七年が過ぎようとしていた――
「あ、パパだぁ!」
「はやかったのね」
ユナナの背後に顔を歪ませたテスが現れ、
愛しい妻の頬に軽くキスをし、可愛い我が子を高く抱き上げた。
「ドルン。君の絵が新たにアルゼイヤ家に贈られることになったよ。
今後、更に忙しくなるねぃ」
「アルゼイヤ? ああ、セシリーの家か。
そういや昨日、ルフィネさんと子供たちが、
近々お邪魔するかもしれないっていうアウドがあの人からあったな」
セシリーからの声が頭に時々届く。
セシリーには、今でも色々と世話になっていた。
「なぁドルンよ。我が妻の差し入れの手料理でも食って、とことん体力つけとけぃ~?」
「ああ。テスのカミさんは料理上手だな。おかげでいい絵も描ける」
「ふっふっふ~。そうだろそうだろ~? 当たり前さねぃ!
ドルンも料理上手な奥さんをもらうといいさ。
まぁ、おいらの方が料理は上手だけどもねぃ。
――さぁて、そろそろお暇しようねぃ」
「やぁだぁ~! おじちゃんとあそぶぅ~!」
「ドルンおじちゃんはね、描いている時はおこりんぼうになるから怖いんだよぅ~?」
「やぁだぁ~! かえるぅ~!」
「じゃあねぃ、ドルン。完成する頃にまた来るよ」
テスとユナナは一粒種を引き連れて、
三人仲良く手を振りながらドルンの家から出ていった。
再び一人切りになったドルンは、ふぅと嘆息してキャンバスに向かう。
独身の彼は、その容姿故に世間の女性からの人気は絶大なものだった。
不意にドルンは握っていた絵筆を置いた。
注文の絵を描く合間の息抜きの絵を手に取って、彼はそれを眺める。
描きかけの抽象画。
そこには、一見何を描こうとしているのかがわからないほどの、沢山の色が交じり合った世界。
それはまるで花畑のような……。
昔、十二歳の誕生日の朝にスケッチブックに描いた彼女の絵が入った木箱は、
未だ鍵がかかったまま眠りについている。
彼の首には、鍵の鎖が光り輝いていた。
彼女が帰って来るその時まで、あの箱が開くこともないのだろう。
そして、右端に残っているであろう落書き――『ちっこい絵バカ・作』と記したリタ。
そのリタを信じて待っていろと言われたのだ。
だからこうして絵を描きながら、この先何年も彼は待ち続けることになるだろう。
だが、それももうすぐ終わりを迎えようとしていた。
――ヨディ……。
彼女の声が聴こえた気がして、ドルンは思わず顔を上げた。
しかし誰もいない。
いるはずもない。
いつもの幻聴だったのだろう。
長い間待ちわびて、気がおかしくなったに違いなかった。
だからきっと、ここから少しだけ離れた見晴らしのいい丘の上に、
今描いている絵とそっくりな女神が佇んでいるのも幻なのだろう。
『リタの花』が咲き乱れる丘の上で、待ち焦がれた人が立っている幻影――
と思った次の瞬間、その幻がぐらりと傾いで、その場にひざを着いて倒れ込んだ。
「!?」
椅子を倒して立ち上がったドルンは、
開けられた目の前の窓から飛び出すと、急ぎ彼女のそばへ駆け走った。
「リオー!」
花の上にうつ伏せに倒れた彼女へ駆け寄ると、ドルンはその名を何度も呼びながら、
見慣れない真っ白なドレスに身を包んだその身体を揺さぶった。
「リオー!? おい、リオーッ!?」
「――ヨ、ディ……」
笑みを浮かべてささやく、初恋の彼女。
「よかっ……た」
安堵したドルンはそのまま上から覆い被さって、
その愛しい身体をかき抱くように強く抱きしめた。
『リタの花』の甘い香りが、二人の再会を祝福して包み込んでいる。
「お帰り、リオー」
「ただいま、ヨディ」
両腕をヨディの首に伸ばして抱きつく。
「もうどこへも行くな、どこへも。ずっとこのまま俺のそばに――」
「うん。もうどこにも行かない……。私は帰るべき場所へ帰って来たの。
ヨディ、あなたのもとへ。あなたが呼んでくれていたから」
彼の瞳を見つめながら、その頬に手を添えたリタは甘くささやく。
もう目の前からいなくなったりしないと……。
突然、熱を帯びた眼差しのドルンの顔が近づいて来たかと思うと、
さながら花嫁姿にも見える幼なじみの花の唇に、自分のそれを熱い吐息ごと押しあてた。
深く、深く、愛撫するかのように秘めやかに睦み合わせ……。
重なり合う二人はいつまでも、互いを烈しく求め続けた。
もう離さない、離れないと――。
そして今頃は、闇の力によって一時的に葬られたケルスカーザレオン王、
そしてリタと同様に浄化を終えたリーバ、
身体ごと乗っ取られていたリュゼレオン王子も戻って来ている頃だろう。
故郷の魔法国アウドリックへ、幸せになるために。
◆ 了 ◆




