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コーリング  作者: 吹留 レラ
◆ 第一歌章 ◆
1/12

01.突然の別れ



「リオー、やめてくれ! その歌声は鈍器だ」

「うがぁ~! 耳が腐れる~」

「ちょっと何よ。人がせっかく気持ちよく歌ってたのに」

「あ、待ってよリオー!」


森の中で子供たちの声がこだまする。

元気よく駆け回る三、四人の少年たちと、珍しい赤紫色の短髪の少女。

年は皆、十を一、二歳過ぎた頃であろうか。

先頭を切っていた紅一点のリオーは、やがて一本の大木へと登り始めた。

彼らも負けじと後を追ってよじ登ろうとするが、リオーほど上手くは登れず、

幹の下の方ではやくも脱落している。

少女はそれを気にする様子もなく、木の枝に座って遠くを見つめた。

普段から半ズボンをはいているような少年と見まがう少女だったが、

それは周りに勧められたからに他ならない。

スカートでいると、周りの少年たちが取り乱したように騒ぎ立てるのだ。

こうして木に登る時は特に。

そんなリオーは村のどの少年たちよりも活発だったが、違う側面も持ち合わせていた。


「夕闇に溶けゆく……黄昏の海に――いつ見ても綺麗ね。

 私ね、ここから見る夕日が好きなんだ」


隣りに誰かがいるわけでもないのに、歌いながら独り言を呟く。

が、その音程は、どこかずれている。


(海なんて見たことないけど……)


この村から一歩も出たことがなかったが、海とはどこまでも続く空や、

巨大な湖のようなものだということは聞いている。

まるでリオーの瞳と同じ色だとも言われたことがある。

木の上から眺める夕日も、照らし出される少女の髪の色のように格別だった。

家の屋根の高さほどにも匹敵するここが彼女の特等席。

広葉樹の太い幹が枝分かれし、

そこから伸びる丈夫な枝に腰を下ろして景色を眺めることが……。

木々の間から垣間見える、地平線へと沈みゆく太陽が何故だか切ない。

そっと頬を撫でるように、森から流れて来た濃い風も通り過ぎてゆく。


伝説の女神に祝福されたと言うこのエリオーネ村は、

森と湖に囲まれたとても美しい村だった。

数軒の家と僅かな村人たちが細々と暮らしていたが、

リオーの両親は何年も帰って来ていなかった。

彼女があまり寂しいと思うことがなかったのは、

父と母の顔を憶えていなかったからで、

物心がついた時から既に祖父と祖母の三人暮らしだった。

ずっと一緒に暮らして来た祖父と祖母が、自分の父親と母親だと言ってもいい。 


でも時々……、周りの皆に若い両親がいる光景を目の当たりにすると、

とても胸が苦しくなって少女は一人になりたがる。

湖の奥地に佇む女神像の前まで行くと、ひっそりと泣いたこともあった。

本当は寂しいのだろう。本当は会いたいのだろう。

けれど、両親が生きているのか死んでいるのかさえもわからない。

「いつか帰って来る」としか、祖父と祖母は教えてくれない。

優しい老夫婦のその言葉と微笑みだけが、リオーの希望でもあり絶望でもあった。


夕日を堪能し終えると今度は座っていた枝にぶら下がり、

反動をつけて隣りの枝へと飛び移った。

それを何度も繰り返しながら、野生の猿の如く次々と枝を伝っていく。

まるで、何かを吹っ切るかのように……。

見慣れている少年たちがその光景を目の当たりにして驚く様子は全くないが、

湖の前でスケッチブックに何かを描く一人の少年のそばに彼女が着地すると、

蔑むような目つきに豹変した少年たちはにんまりと笑みを浮かべて、

絵描きの少年のそばへと寄った。


「あーあ、こーんな絵なんか描いたって何の得にもならねーっての」

「何だいこんな絵! 幼児の落書きかぁ?」

「ヨディは売れない画家になるんだとさ、ハハハ!」

 

絵を覗き込みながらバカにするが、からかいは日常茶飯事だった。

リオーは黙ってその絵を見ている。

ヨディと呼ばれた寡黙な少年も、

彼らを無視してひたすら鉛筆を動かし風景画を描き続けている。

やがて――


「あーあ、帰ろ帰ろ。こんな変人の傍にいたら、こっちまで変人にならぁ!」

「絵ばっか描いているつまんねーチビなのにな!」

 

からかうことに飽きた少年たちは、白けて文句を口にしながら帰り始めた。

少年たちが見えなくなると、ため息を静かに漏らすヨディも口を開く。


「もう暗くなったよ。リオーも帰れば?」


近隣の家々からは、

夕飯の支度をして野菜を刻む音と何かを煮るいい匂いが漂っている。

それでもリオーは、紙の上に浮かび上がった絵の方に夢中な様子。


「――ヨディこそ、湖に向かって言えば?」


目前に広がる湖は、通称『女神の涙』。

穏やかな湖面は鏡の役目も果たす。

だが今はもうすっかり暗くなり、鏡の役目も果たしそうにもない。

それでも彼は鉛筆を動かし続ける。

 

ヨディことヨドリクス・エンフィセンの家は、

リオーことリオー・リズナスの家の隣りで、

昔からいつも一緒にいる幼なじみだった。 

年はリオーの方が一つ上なので、姉弟のように育って来たと言っても過言ではない。

昔から口数が少なく、病弱で小柄で大人しいヨディ。

いつもリオーと性別が逆だったらと、

リズナスとエンフィセン両家の家族はよく口にしていた。


「ヨディ、あんたは絵ばっか描いているから、

 すぐ風邪はひくわ、いつまでもちっこいままなのよ」


さすがのヨディも口を尖らせる。

リオーは知らずにいるが、体格のことは結構気にしているようだ。


「でも、私は信じてる。あんたが画家になるって。

 芸術がわからないあいつらの言うことなんて気にすることないわ。

 だって私、あんたの絵が好きだもの」


鉛筆を握る少年の手が不意に止まる。

隣りにしゃがみこむ少女に振り向くと、その青い瞳と重なり合った。


「絶対なって。そしていつか私を描いてよ」


少年は瞬きができなかった。

きっと、近過ぎたせいかもしれない。

光があるわけでもないのに妙に眩しく見えてしまっていた。

辺りは薄暗くなってしまい、もう絵を描くことは困難だったが、

彼女の顔がやたらはっきりと見えたのは何故だろうか。

息をすることも忘れて、しばらく目をそらせずにいた。


「――俺が風景画しか描かないってこと、リオーだって知ってるだろ?」


勿論知っていた。

彼が描くのはいつだって、この森にある風景ばかりだということを。


「だったら女神像でもいいから! ね、ね!」

「何でリオーを描くのに女神様を代役にすんだよ。

 第一、違い過ぎるだろ? リオーと女神様じゃ」

「失礼ね! 女神様は私が尊敬するお方なの! 私の心の友なのよ!」

「女神もそれじゃいい迷惑だ。要は女神伝説に憧れてるんだろ? 

 そういう話に憧れるってことは、やっぱりリオーも女だってことか」

「何が言いたいのよ?」

「猿の絵は描かない」

「は? 猿?」

「あんな猿みたいなのが本当に女なのかって、時々疑問に思うことがある。

 その上音痴だなんて、救われなさ過ぎるよ」

「ちょっと。その音痴猿って私のこと?」

「あ、その名前いいね。他に誰がいんのさ?」

「何ですって――!?」

「ハハハ、冗談だよ冗談……とも言い切れないけどね」

「ヨディ~!」


下手すると噛みついて来そうな勢いのリオーに、

スケッチブックと筆箱を手にしたヨディは笑いながら立ち上がって、

湖の前に見える自宅の方へと駆け出した。


「明後日でリオーも十二歳なんだから、そろそろ大人にならないとね」

「私は十分大人よ。年下のあんたと違って」

 

一瞬、ヨディから笑顔が消えた気がしたが、薄暗くてよくはわからなかった。


「……じゃあね。自称『大人』の音痴猿さん」

「ウッキ――!」


ヨディは笑いながらエンフィセン家の戸を開け中へ入っていった。

一方、残されたりオーは、今のはなかなかいい声だったなと自画自賛している。

もっとビブラートをかけて鳴いてみようかとも思ったが、

それを阻止するかの如く、家の中から自分を呼ぶ祖母の声が聞こえてきた。


「はぁーい」


夕飯ができたらしい。

戸口まで駆けて行くが、そこで一旦振り返ったリオーは、

村の名前の由来にもなったエリオーネ像のある方向を見やる。

無論、女神は相変わらずそこに立ったまま、語りかけてくることも動くこともない。


「おやすみなさい、女神様。また明日……」


ほうっと息を吐き出すと、「ただいまー!」と元気よく叫んで、

リオーはリズナス家の中へと溶け込んでいった。




***




(違う……。この物語は違う……)


いつもは『女神の涙』のように青いリオーの瞳が、

違う別の色に染まっている。彼女の髪と同色の赤紫色へと。


「まだいたのか。随分とリオーは熱心だね」


本と睨み合っていたリオーはハッと顔を上げた。

足元を隠すほどの長い質素な黒い服をまとう四十代半ばに見える男が、

ゆっくりとした足取りで礼拝堂へと歩を進めて来る。

穏やかな声と笑みでリオーを見つめるその眼差しは、

まるで父親のそれに似ていた。

彼は、村のただ一つの教会の牧師であると同時に、

子供たちに勉強を教える教師でもある。

読み書きや算術を始め歴史や天文、

礼儀作法やあらゆる基礎知識のほとんどを教えていた。 

だからリオーはこの牧師を心からとても尊敬している。

周りの子供たちが『先生』と呼ぶのに対し、

リオーだけは何となく昔から『牧師さん』と呼んでいた。


「ねぇ牧師さん、女神様のことが書かれてある本はもうなぁい? 

 どれもこれも同じような内容ばかりで飽きちゃったのよね。

 もっと詳しく知りたいのに~」

「こんな小さな教会には、略された伝説や物語の本ばかりだよ」


嘆息しながら椅子にもたれたリオーは、

つまらなさそうに開いていた本を閉じる。


「ねぇ牧師さん」

「ん?」

「魔法の国があるって本当?」


微笑んでいた牧師の眉間に、一瞬しわが寄った。

だがリオーは今、気難しい顔を浮かべる牧師を見てはいない。


「この本に補足されていたんだけど伝説の国があって、

 何でもそこには魔法使いたちがわんさか住んでいるんだって。

 それって凄いよね。女神様とも関係あるのかなぁ?」


椅子をきしませて、再び目の前の古びた本のページをめくり始めた。


「何故そう思うんだ?」

「だって石から人になったのに、また石になったんでしょ? 

 そんなの人間業じゃないわ。魔法使いの仕業としか……」

「もしそんな国があると言うのなら、リオーは行ってみたいのかい?」

「勿論よ牧師さん! まさに憧れの国よ! だって何でも望みどおりじゃない!」

「何でも……ね。本当にそう思うのかい?」

 

彼が真顔で聞き返すのでさすがにリオーも真顔になったが、

やがて愉快そうに彼女は笑った。


「やだ。伝説でしょ? もしかして魔法国の存在を本気にしてるなんてこと――」

「……」

「まさか牧師さんに限ってあるわけがないわよね。

 ――さぁて、私もそろそろ帰ろうっと」

「リオー」


立ち上がりかけた少女を彼は引き止めた。 

リオーは窓際に立つ牧師を見つめて、キョトンと首を傾げている。


「何?」

「……いや、何でもない」

「えー? おかしな牧師さん。

 でもおかしいと言えば、このエリオーネの伝説もどこか変な気がするのよね。

 毎日のように綺麗な花を手向けていく、

 一人の青年に恋をした石像のエリオーネは人間になりたいと願って、

 やがてその想いが叶い人間になれたのよね。

 でもそれも束の間、青年は他の女性を選んでしまっていた。

 悲しみに暮れるエリオーネは再び石となって泣き続け、

 やがて森の奥に湖ができたとは言われているけれど――」

 

リオーには不思議でならなかった。

何故、エリオーネ村が女神に祝福された村だと呼ばれて、

何故その石像が愛と慈悲の女神として村人に崇められているのか。


「だから伝説にも基になる話があるって私は思ってるの。

 それでね実はね、女神の話って本当は違うんじゃないかって思ってるんだ。

 石像になってからの話ってさ、

 後から誰かが作ったそれこそ想像した物語だと思うんだ」


牧師はその場に凍ったように、無言で立っていた。


「牧師さん……?」

「――君の想像力には感服するよ」


笑みを浮かべて、両肩を軽く上げてみせる。


「だって本で語られている女神様って、結局自分の気持ちに素直になれず、

 心を閉じ込め石になっただけの臆病者じゃない。

 それなのに愛と慈悲の女神様だなんておかしいじゃないの」


教会を出て真っ直ぐ向かった先は、対岸に見える女神像の方角。

底が見えそうなくらいに澄み切った美しい湖の水源は、

地表からとめどなく湧き出る泉。

次第に狭くなる獣道をしばらく進むと、突然開けた場所に出る。

その水源付近にエリオーネ女神の石像が建っていた。

滑らかな曲線を流れる長い髪。

その整った顔立ちは穏やかに微笑んでいる。

女神像は人々に大切にされていたが、

いつ誰の手によって造られたのかはわかっていない。

文献も残っておらず年代不詳ではあるが、

誰の目にも相当古いということだけはわかっていた。


そして一面に咲く薄紅色の可憐な花――

その花こそを『女神の祝福』と呼ぶ者もいる。 

女神の化身、女神の花と呼ぶ者もいる。

リオーは花の正式名称が、『リタの花』だということも勿論学んで知っていた。


「リタの花なんてつまんない名前よりも、

 女神の祝福、女神の化身の方がずっと意味深げでロマンチックだわ」


ブツブツ不平を漏らしながら開けた場へ出ると、

先客がいるのに気づいてパッと花のように可憐な――と言うより、

企みを孕んだ笑顔を咲かせる。

スケッチブックに真剣な眼差しを送る少年が、

凛として佇む無言の彫像の前に座っているのが見えたからだ。


「あれれ~? ヨディは風景画しか描かないんじゃなかったっけ~?」


ズイッと覗き込むと、

リタの花に囲まれた女神像の姿らしき形がリオーの目に飛び込む。


「……だから描いてるじゃん」


ヨディはそう言いながらも、何故かスケッチブックを抱きかかえてサッと隠す。

今日の絵はリオーに見られたくないのだろうか。

それでも彼女は、とんと気にしない様子だった。


「女神像は風景画に入んないでしょ。人物画よ人物画!」


隣りの家に祖父と暮らす一つ下の幼なじみは、哀れんだ目でリオーを見た。


「そう言い張るのは、恐らくリオーだけだろうね」


再びスケッチブックを開いて、真っ白な新しいページに颯爽と鉛筆を走らせるが、

彼女は気にするようでもなく女神の硬い手を握っている。


「ごめんね女神様。今日、あなたのこと悪く言っちゃったの。

 あなたはただの臆病者だって。でも私は本当のことが知りたいの。

 本当にあなたは臆病者? それとも勇敢な戦士?」


ヨディは黙ってリオーの言葉を聞いていた。

写生に集中していたせいもあるが、

彼女の誰かに語りかけるような独り言にはもう慣れっこだった。


「私は両方のあなたが好きよ。だって、その方が人間味が感じられるもの」

「女神は人間じゃないだろ」

「同じよ。笑って泣いて怒って微笑んで……弱くもあれば強くもある。

 きっと私たちと同じような心を持っているに違いないわ」


どの辺まで関わっていいのかは長年のつき合いから見当がついていたので、

ヨディはもうこれ以上口を挟まないことにした。

自分の絵にケチをつけて色々言われるのが嫌なように、

彼女もまた夢見がちな思考を笑われたり否定されることが嫌なはずだ。

立ち尽くしている彼女の後ろ姿を、少年はしばらく見つめていた。

きっと今もまた想像の国へ行って、

『心の友』と話でもしているのだろうと思いながら……。


「そう言えば今日は、枝を伝って来なかったようだけど――」

「女神様の前でそんな真似できないわよ。彼女の前では慎ましやかでいたいの」

「リオーは素が一番だよ。猿のように慎ましく木に登る方がね」

「ウッキー! 猿、猿って失礼ね! 私は風になっているのよ! 

 木々の間を行き交う森の風にね! 

 大体私なんかと比べたら、枝伝いの名人であるお猿さんに失礼でしょ!」

「風には失礼じゃないの?」

「もう! そんなにお望みなら登ってやるわよ! 登ればいいんでしょっ! 

 猿のように慎ましく木に登れば!」


リオーは手頃な登りやすい木に手をかけると、難なく枝まで辿り着いた。


「ほら! 登ったわよ! これで文句ない……わー、見てー! 

 今日はまた一段とすっごく綺麗な夕日! 

 あんたもたまには木の上に登りなさいよ。

 地上にいちゃ、気づかないことだってあるんだからね~」


木と木の間から見えた夕日に感激して叫ぶりオーを、

地上の少年は無言で見上げている。 

自分の褐色とは違う赤紫の艶めいた髪が、

光にあたってキラキラと眩しく輝いていた。


「……」


眩しすぎて目がくらんでしまう――

刹那、リオーが自分の前から消えそうな気がして、

ヨディは手を伸ばしかけたが、木の上の少女は遠過ぎた。


(――リオー…… )


「夕日へと続く道は 旅人の目に勇気となって かけがえなく映るだろう――」


突然、階段があったら踏み外しそうな狂った音程で歌い出す少女に、

はたと動きを止めた絵描き少年は眉をひそめる。


「君は歌が本当に好きなんだね」

「ええ、大好き。

 ――永遠の約束 限りない愛 滲んでいく優しさ 悠久にまどろむ……」


木の上でリオーはそっと目を閉じていた。半ば陶酔するかのように。


「歌うのは自由だけど、でもさ、もう少し周囲に気を使ったらどうなの?」

「私の美声にメロメロになったら、困ることでもあるの?」


美しい夢から無理矢理叩き起こされたように目を(すが)め、

閉じていたまぶたを開いたリオーは不機嫌そうにヨディを見下ろす。


「まぁね。君は音感がいかれちゃってるから、

 褒め言葉にしか聞こえない幸いな耳を持っているようだけど」


地面に飛び降りたリオーが、

ふんっと鼻息を荒げヨディの握る鉛筆を奪い取ると、

彼が手にするスケッチブックの右端に――


「ああっ!?」


『ちっこい絵バカ・作』と、豪快な字で荒々しく書き殴ってやった。




***




「ご馳走様――! ああ美味しかった。もうお腹いっぱい! 

 でも一体どうしちゃったの?私の誕生日は明日だよ?」


食べる前に訊こうとしていた質問だったが、

テーブルに並ぶ豪華な料理を前に口にしてしまえば、

下げられてしまう恐怖を感じて黙っていた。


「ん? そうじゃったか? 

 わしもばあさんも、ついにもうろくしてしまったかな?」


祖父は祖母と一緒に高らかに笑い声を上げる。


「どうも年を取るとな、元気なうちにこうしておきたくなるんじゃよ。

 何、あと数時間経てば間違いなくお前の誕生日だ。

 細かいことはいちいち気にせんでいい。長生きの秘訣じゃ」

「ええ、勿論気にしないわ。一日はやくご馳走が食べられてラッキーだったし」

「リオーも明日で十二歳か。大きくなったもんじゃ……。

 相変わらずばあさんの手伝いはしない悪い子じゃがな」

「だってぇ~、料理は食べる方が好きだもん」


女らしいことにはほとんど縁がない。

と言うよりも、興味がないと言った方がふさわしい。

下手に手伝って、祖母の仕事を増やす羽目になるのも目に見えていた。


「お前らしいな。お前はばあさんの飯でこんなに大きくなれたんじゃぞ」

「ありがとうおばあちゃん!」

「子供は元気なのが一番ですよ。

 こんなに大きくなったのは、外で遊んだおかげと女神様の恩恵。

 でも、私たちも年を取るはずですね」


夕食後のお茶をすすりながら、

昔日を懐かしむ祖父と祖母が感慨深げに天井を仰ぐ。

テーブルの中央に置かれた花瓶には、

溢れんばかりの『リタの花』が差し込まれ、

部屋中に仄かな甘い香りを漂わせていた。

食事を終えた後でも、その香りがかき消されることはない。

リオーという名前は、遠い親戚がつけてくれたものだと祖父母は言う。

しかし何故、祖父母や両親ではないのかずっと引っかかりを覚えてもいた。


(――自分はやっぱり両親に愛されていなかったんだ。捨てられた子なんだ……)


だからせめて女神に愛されるようにと、

その名前をもらったのだと容易に想像ができる。

エリオーネの名前の一部を受け継いだことは、

誇りであり贅沢でもあり、これ以上はない喜びだ。

だが所詮は、神のご加護があるようにとの同情からついた名前なのだろう。


「私に名前をつけてくれた親戚ってどんな人? 

 私、まだ会ったことないんだけど……会ってみたいな」


それもまた、何度口にしたかわからないセリフだった。


「昔は頻繁に会っていた。

 お前が小さい頃の話だから、憶えていないのも当然じゃろう」

「リオー。お前さんはいつかその人たちにまた会えるよ。

 そう遠くない近いうちに……」


祖父の隣りに腰をかける祖母が、やんわりと口にする。


「お前さんがいかに愛されているかわかるじゃろう? 

 リオー、わしの可愛い孫娘。お前と過ごせて本当に幸せじゃよ」

 

祖父がリオーの肩を抱き寄せた。


「おお、リオー! 私にも抱かせておくれ。

 お前さんという私たちの孫――いえ、娘がいたということを忘れないように……。

 リオーや、例え私たちがお前のことを忘れようとも、お前は決して忘れないでおくれ」

「おじいちゃん、おばあちゃん……」


リオーは困惑した。

今夜の二人は一体どうしたというのか。

いつもの二人と何かが違うような気がして、

違和感を否めないリオーは怪訝な表情を露にしていた。

まるで永遠の別れが差し迫っているかのような――

けれど、お礼に歌を歌ってあげると提案した所、

慌てた祖父母はそそくさと笑顔を振りまきながら、

可愛いと言った孫娘から離れていった。




***




――はやくおいで……。


(誰……?)


その声を聞いて、リオーは目が覚めた。

不気味なほど低い声。浅い眠りはきっと、先ほどの不可解な祖父母のせい。

ベッドに潜りながら、

何度夢の世界へ飛び込もうとしても途中で目が覚めてしまい、

その後も眠気は訪れてくれなかった。

暑かったせいもあるのだろう。

外から小鳥のさえずりが聞こえ出したので、

あきらめて窓辺のカーテンを開けることにする。

空は白じんでいたが朝日はまだ見あたらず、

ふと隣りの家のヨディの部屋が明るいことに気がついた。


「――ヨディったら。本当に絵バカなんだから」


規則正しい生活を送る彼のこと。

どうせ夜更かしに耐えられず、絵を描きながら寝てしまったのだろう。

そもそも早寝早起きの彼が徹夜をするのは非常に珍しいことだったが、

変な夢といい昨夜の祖父母といい、不可解続きに首を傾げながら欠伸をしていると、

遠くから馬の蹄が聞こえて来るのに目をしばたたかせた。

やがてその音が家の前まで来ると、馬の嘶く声がして停まった。

馬車でこの家へ人が訪ねて来ること自体が珍しく、

驚いたリオーは窓を開けて身を乗り出す。

馬車からは外套に身を包んだ若い男女が降りて来るのが見えた。


(こんな朝はやくから、一体誰だろう……?)


はた迷惑な人がいるものねと毒づいてみるが、

この村では見かけない美しい容貌に思わず息を呑み込む。

二階の窓から顔をのぞかせていたリオーに、あちらも最初から気づいていたのか、

彫刻のような美しいその顔で二人はリオーを見上げた。


(――あの人たち……)


知っている気がした。

見たことも会ったこともないのに、

どうしてこんなに懐かしいのかがわからなかった。

しかし、記憶の片隅が何かに刺激されると同時に、

身体が拒絶反応を起こしてガクガク震え出す。


(い、や……! 嫌よ!)


何とか部屋を抜け出すと、一階の祖父母の部屋へと急いだ。


「おじいちゃん、おばあちゃん起きて!」


部屋の扉をしばらく叩くが反応がない。


「おじいちゃん! おばあちゃん! ねぇ、起きてったら起き――」

 

その時、カチャリと玄関の扉の鍵が開く音がし、怯えたリオーは息を殺した。

そして、戸口に立つ二つの影――外套姿の男女を凝視する。


「だっ、誰よあんたたち!」

「この村にかけられた魔法が消えかかっている。

 十二歳になる前に、君はここから出なければならない。

 そういう約束だ。さぁ、リタ」


背の高い青年の方に語りかけられ、手を差し伸べられた。


「リタ? リタって誰? 私はリオーよ!」


(――何を言ってるの、この人は?)


リオーは(かたく)なに拒んでその場から動こうとしなかった。


「この世界は魔法で作られた幻の村だ。君は今日までここで暮らす必要があった」

「ま、幻の村……? 何言って……。

 ノックも無しに勝手に入って来て、一体あなたたち何者なのっ!?」

「ノックは何度もした。

 だが君が錯乱状態でいたために、聞こえていなかったからやむを得ず開けたまでだ。

 ことは急を要している。私は君の従兄でセシリージェン。セシリーと呼ばれている。

 そして、こちらが――」


「ルフィネリアン。あなたの姉のルフィネよ。

 お久し振り、リタ。大きくなったわね」


(赤紫色の髪……)


男の背後から現れた、自分と同じ珍しい色の女の髪に目を(みは)る。

近くで見ると一段と綺麗な人たちだとは思うが、

いかんせん、今はそれどころではなかった。


「知らない知らない! 従兄? 姉? そんなのがいたなんて知らないわ!」


リオーは青ざめ、必死に首を横に振るだけだった。


「遠い親戚と、教えられていたはずだ。

 君と暮らした血の繋がらない祖父母は、ちゃんと約束を果たしてくれたようだ。

 十二歳になるまで仮の祖父母として君を養うことに……」


昨夜も近いうちに親戚に会えると言われて、

自分も会いたいとは切に願っていたけれど――

今は前言撤回したい気持ちでいっぱいだった。

もう会いたいとは思わない。

できれば帰ってほしい。

そして二度と迎えになど来てほしくなかった。


(私の大切な居場所を……幸せだった日々を奪わないで……!)


リオーはもう一度、祖父と祖母を大声で呼んだ。


「おじいちゃん、おばあちゃん! 起きてよ!起きてったら!」

「酷なようだが今頃は、村人から君の記憶は消えているはずだ。

 魔法の効力が微弱化しているからね」

「なっ……!」


意味がわからなかった。

この世界が幻だということが。

彼女は生まれてから、一度もこの村から出たことがなかったはずだ。


リオー・リズナス――


それが自分の名前。

祖父母やヨディや牧師や村の皆とずっと一緒にいた。

決して幻なんかではないのだ。

意識だってこんなにはっきりと――


「誰が信じるもんですか!……魔法ですって? 冗談でしょ? 

 そんな夢みたいな世界があるわけないじゃない! 

 空想と現実を一緒にするなんてどうかしてるんじゃないの!?

 出てってよ! じゃないと人を呼ぶから! ヨ――」


窓を開けたリオーは、

隣りのエンフィセン家に向かって幼なじみの名を呼ぼうとした。

が――


「よせ。君がもっと傷つくだけだ……リタレイゼラン」

「何よ! 私はそんな花みたいな名前じゃないったらっ!」


リオーの真後ろに立ったセシリーが彼女の肩を掴んで引き止める。

やがてルフィネも近づいて、年の離れた妹の目の前に(てのひら)をスッとかざす。

刹那、見知らぬ映像が頭の中に怒涛のように流れ込み始めた。

懐かしい昔の記憶が甦り始める。

それは魔法国――アウドリックでの記憶。

理由あって七年前に離れた真の故郷のことを、彼女は思い出してしまった。

確かに、物心がつき始めた五歳まで、自分は魔法国にいた。


(どうして迎えに来たの? どうして思い出させてしまうの?)


「うっ、うぅっ……」


ポタポタと涙が雫となって床にこぼれ落ちる。

そのままくずおれそうになったリオー……否、リタをセシリーは優しく支えた。


「さぁ、行こう。約束の時間が迫っている。

 君がいるべき場所は、ここではない」


彼女の背中をそっと促した。

一方、魔法の効力が切れたのか、騒ぎに気づいて起き出した老夫婦は、

リズナス家を出て馬車に乗り込む一行に凝然となって立ち尽くしていた。


「はて、お前さん方はどちらさんじゃ? 今、わしらの家から出て行ったようじゃが――」

「お気になさらないで下さい。

 何一つとして、あなた方の所有物が紛失することはありません――何一つ……。

 お騒がせ致しました」


振り返るセシリーが何事もなかったかのように、リズナス家を去っていく。

実の所、この老いたリズナス夫妻には子供も孫もいなかった。

リタは馬車の中で泣いている。

昨日まで楽しかった温かかった七年間の思い出が、音を立てて崩れ落ちていく。

動き出す馬車。 

回る歯車は、これから彼女をどこへ連れて行こうとしているのか。

未だ灯りの消えない部屋の窓からヨディが不思議そうにこちらを窺っていたが、

リタは下を向いたままだった。 

彼も恐らく、自分のことなどもう記憶の彼方に追いやってしまったのだろう。

リタは前屈みになって、わぁっと泣き崩れた。

ガラガラと土煙を上げて、無慈悲に馬車はエリオーネ村を去っていく。


その直後、エンフィセン家の扉が開き、

スケッチブックを抱えたヨディが飛び出して来た。


「リオー!? どこ行くんだリオー!?」


彼の記憶は消えていなかった。

ヨディは必死に後を追いかけるが、

少女を乗せた馬車はどんどん遠ざかり小さくなっていく。

ズザザーッ!

勢いよく転倒し、すぐさま立ち上がってまた走り出す。


「リオ――ッ!」


彼の切ない呼び声は届かなかった。

道端には、こぼれ落ちたスケッチブックが開かれたまま風にページを弄ばれている。

今朝あげるはずだった誕生日プレゼントのスケッチブックには、

『リタの花』に囲まれたリオーそっくりの女神像が、鮮やかな彩りで描かれていた。

ヨディにとって初めて色をつけた渾身の力作。

途方に暮れる少年が、初恋の少女にそれを渡せる機会は、

儚くついえてしまった。


 


少しだけ落ち着きを取り戻した頃、リタは窓から村のあった方角を振り返るが、

そこには森も湖も村もなく、あるのは草原と石碑だけだった。

エリオーネ村が、魔法で作られた幻の村だったことをようやく納得できたような気がして、

益々絶望感に打ちひしがれていく。


太陽に向けて一心に咲き誇る『リタの花』だけが風に揺れていた――






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