あの橋の上
夜中。もう、人が寝静まった時間。一人の青年が、橋の上で彷徨いていた。彼の左手には、小さな箱。右手には、コンビニの袋があった。
何度もその箱を橋の下へ落とそうとし、諦めて考え込み、また落とそうとした。だが、決心が付かないのか何度も迷っている。そしてそのたびに、コンビニ袋からアイス棒を取り出して、ガリガリと食べていた。
頭をかきむしりアイス棒を見る。
「ハズレ、か…」
ポイッとそれを捨てて、青年はまた悩みだした。箱を落とそうとし、引っ込める。何度かそれを繰り返した後、意を決してか箱から手を離した。
何秒かの沈黙の後に、ボチャンと水に落ちる音がする。青年はその時ヒクリと肩を震わせたが、すぐに脱力してその場に座り込んだ。
「捨てちまった、やっちまった」
大丈夫か?大丈夫だよな?と何度も確認するように呟く。その顔は、少し引きつっていた。
その時だった。
青年はふと人の気配を感じて右を見た。
するとそこには、一人の少年がいた。
まだ幼い少年だ。前髪で目を隠して、ジッとその場に立っている。その姿は、どこかボワァと浮き出て見えた。青年は目を見開く。
いつの間に、と言うよりも。
その肌の白さが人外じみていた。
まるで水死体のようなー…。
「どうし、た?坊主」
しかし青年は声をかけた。
多分、半分ほど自暴自棄になっていたせいでもある。どうにでもなれ、と。
「…お兄さん、どーしたの?」
少年は、その年相応のボーイソプラノの声で尋ねてきた。感情は、こもっていなかった。
「いやぁ。家出ってヤツかな?家でさ、冷たい目で見るヤツがいてね。こんな時間に坊主はどうした?お前も家出か?」
コンビニ袋からアイス棒を取り出し、袋を開ける。少年は何も言わずに、ジッとそれを見つめていた。そして、また尋ねてくる。
「何、それ?」
「アイスの棒。アタリが出ねぇんだよ、コレ。一本やるからさ」
開けたばかりのアイス棒を、少年に手渡す。こんな暑い夜なのに、彼の手はビックリするほど冷たかった。少年は黙って受け取ると、一口小さく食べる。
「さ、俺も帰るかな。坊主、お前は?」
前髪の間から、チロリと少年の目が見えた。
何処までも、暗い目。
「食ったら帰れよ?俺は恐いお方が待ってるんだ。お先にな」
少年はまだアイスに夢中らしく、青年の言う事を聞いてなかった。青年はため息をつく。
「俺は、遠藤 進。本当お前気を付けて帰れよ?」
一瞬少年は、コチラを向く。進は、アバヨと言って歩いていった。返事はなかった。
橋の上に、再び静寂が戻ってきた。
* *
遠藤カナメは、仕事の最中だった。
書類にザッと目を通す。その時。
「カナメェー。またその癖やってる」
同僚にそう言われて、私はふっと気付いた。右手の親指を、同じ人差し指と中指にくっつけたり離したりしている。注射器を何度も刺す感じだ。
「あれ、本当だ。ゴメンゴメン、何かイライラしてて…」
慌てて指の動きを止めて、笑った。同僚のトモエも苦笑する。彼女は、私と仲が良かった。仕事場の唯一の友人だ。私と違って、彼女は人気もあるが、何故か私とつるんでいる。
「まあ、仕方無いけどね。大変だったでしょ、お葬式。弟さんだっけ?カナメが喪主だもんね」
そう。私の弟が、自殺した。つい八日前の事だ。何の前ぶれなく、川に入水自殺。その時岩にぶつかって、後頭部がザクロのように弾けていた。空気の抜けた頭は、ベコベコしていた。
「次は六日後。少し休めるかなって感じ。ねぇ、トモエ。今日は付き合ってよ」
私はそう言って、クイッと手首をひねった。
お酌しろ、という事だ。
「いいよ。とことんやったげる!あでもその前に、会議あるから終わったら外で待ってて」
月に一回の会議は、私には関係ない。だいたい一時間くらい待つのだが、まぁいい。空が明るくなるまで付き合わせてやる。
「オーケー。またあの話し?」
「もちろんよ。他の子じゃあ出来ないもん」
堂々と胸を張って言わないでほしい。私だって、アレは少し苦手なのだ。だけどそれを拒むと、私は本当に一人になってしまう。
だから。
「あーあ。弟が生きてたらなぁ…」
私は小さく呟いた。
「弟が生きてたら」
* *
仕事が終わり、外でトモエを待つ。三十分ほど過ぎた時だった。トモエが出てきた。
「あれ?今日早くない?」
「うん。何かもう終ったっぽい。カナメ!また」
手を指摘されて、私はギクリとした。しまった。またやってしまった。トモエは大げさなため息をついて、私の手をつかむ。
「もう。ひとまず、居酒屋でも行く?割り勘で」
「あっ、ズルい!」
そう言いながらも、本心ではない。トモエはそういう人だ。どんな時も、二分のー。多かろうが、少なかろうが半分こ。それが彼女の考えだった。
弟の進が自殺した橋は、もう通れるようになっていた。橋の全長は、約五百メートル。ゆっくり歩いても、十分とかからない。人の滅多に通らない、地元用の橋だ。
「おーいっ、カナメ!」
その橋の、中間ぐらいだった。
急に止まったトモエが、後ろから私を呼んだ。
何?と言って振り返ると、何かを投げられる。
それはー…。
「石?」
慌ててキャッチしたそれは、手の平に乗るくらいの小さな石だった。
「アンタにあげる。持ってな」
「ただの石だけど…」
呆れる私に向かって、トモエがため息をつく。
「私の、愛が込もってるわ!」
「はぁ…」
何とも言えない迫力に押されて、石をポケットにしまった。トモエの愛かぁ。いらないな。
「失礼な事考えたでしょ?」
「そんな事ないよ。早く行こ」
無駄な所で感の鋭いトモエを、スッと受け流す。今日は飲んでやるー!と呼んだ彼女の手を取って、ハイハイと言った。
そう。夜はこれからだ。
ひとまず全部忘れて飲みまくろう。
私は伸びをした。
* *
小さな、でもそこそこ賑わっている居酒屋に入る。私達はカウンター席に行く。若い女性が、無愛想な顔でお冷やを置いていった。
「でさぁ、最近話題の都市伝説なんだけどぉ」
ひとまず焼酎を一杯飲んだ時だった。
トモエが話し出した。浮かれているのが分かる。
「橋の、なの」
「えぇ…。それ、嫌み?」
前そこで弟が自殺したばかりだと言うのに、失礼な友人である。しかし彼女は話しを続けた。しかもその間に、日本酒二合も頼んでいる。
「アンタも知ってるんじゃない?少しは」
「まぁ、ね。でも少しだよ、本当に」
言ってごらんなさいよ、と女王様口調でトモエは言った。おもしろがっている様にも見える。私は、仕方無く何処かで聞いたものを言い出した。
「まず…、そのお化けが出る時間が夜中って事」
「うん。そうね」
彼女は、日本酒を私のおちょこに入れながら頷いた。それから?と続きを促す。
「それと…。橋から呼び掛けられても、返事をしない、だっけ?」
「まあべタな所ね」
彼女は、自分の所にも入れた。それを一気に煽る。私はその勢いにビックリした。
「私は一気派なの」
トモエはそう言ってまた飲んだ。おつまみを追加して、また私の方を向く。ねえ、他には?そう尋ねてきた。
「えっ?んーと…。お化けと会うためには、意識的に物を落とす、かな?」
おかしいと思う。物は決められていないし、何処へというのも聞いた事はない。何処へ何を意識的に落とすのか。
「そのくらい、だよ。トモエ…ってあぁぁ!」
彼女はまた酒を頼んでいた。目の前に、水割りの焼酎が置いてある。流石に飲み過ぎだ。しかし等の本人は気にする様子もなく、水割りも飲んでいる。
「何よぉー。おいしいわよ、コレ?で、そうそう。それもあるわね。結構知ってるじゃらい」
枝豆の空がカウンタ一席に散乱している。いつの間にかチーズもあった。私はまだ日本酒一合と焼酎一杯しか飲んでいない。
「トモエ~。ロレツが回ってないよ。大丈夫?」
「大丈夫よ。まだ飲めるら」
それを大丈夫とは言わない。完全に酔っぱらっている。
「まあ後は、橋をわたる前に振り返っちゃダメ、っていうのもあるわ。って言うか、振り向くか?普通」
「まあ…あんまりない、よね」
私は苦笑して、もう一合日本酒を頼んだ。おつまみのチーズを少し頂く。無駄に濃い味が、口のに広がっていった。トモエは相変わらず飲みまくっている。
「ほらまたぁ!その癖」
「あっ、ゴメン」
指摘されて、また私はギクリとする。何度言われても、その指の動きは止まらない。暇さえあれば、始終やってしまう。
「何なのよ、それ」
「気にしちゃダメ」
私は、慌ててトモエの口を塞いだ。トモエは何秒か訝しげな目をこちらに向けた後、はいはい、と言った。どうやらこの話しはここまでらしく、興味なさそうにガラスを傾ける。
「弟さん、残念だったわね。私は嫌いじやなかったわ」
「ええっ!うそ」
以外だ。いつの間にか会っていたのだろう。しかも、あのだらしない弟を…。
「アイスくれたのよ」
「アイツ好きだから、アイス」
「ソーダ味だったわ」
「アイス棒の中のお気に入りね」
「甘かった…」
私はそっとトモエの顔を覗いた。大丈夫だろうか。これではどちらがショックだったのか、分かったものではない。どこか遠くを見つめる姿は切なげだ。
「トーモーエー!頭がどっか行ってるわよ?」
ブンブンと彼女の前で手を振ると、トモエはハッとした様な顔で正気に戻った。それから、自分の頭をペシペシと叩く。
「あーもう!興醒めよ!仕切り直しだわ、もう一度飲むぞおおぉっ」
「えぇっ。まだ飲むの?トモ」
「生ビール、ジョッキでニ本!今すぐよ」
私の静止も聞かず、トモエはニ本ジョッキを両手に持って一気に飲んだ。今度こそ、私は唖然とした。こ…これは…。何と言えばいいのか…。
「ップハァッ!やっぱこれよね!」
「何やってるのよ?大丈夫なの…?」
トモエはニヤリと笑った。その顔はそう。色々な意味でレベルを越えていた。私は、少し彼女から距離をとる。
「あと橋はね、一生人を閉じ込めるのよ」
無限階段ならぬ、無限橋。
しかし、今の彼女の顔で言われても怖くなかった。何か拍子抜けしてしまう。私は適当に返事をして、日本酒の残りを飲みほした。
「さぁさぁ!アンタも飲みなさいよ!ジョッキ行っちゃう?あ、華舞の方がいい?」
休む間もなく、トモエは酒を注文する。次の日頭痛が激しいだろうな、と思いながら私は飲んだ。どことなく、ホロ酔い気分になってゆく。
もう、どうにでもなればいい。
私は薦められた酒を、トモエを真似て一気に飲んだ。
* *
「お客様、あのぉ…」
店員が話しかけてきた。トモエの酒を飲んだ後の記憶がない。ハッとして辺りを見回すと、客は私とトモエのみになっていた。
「あのぉ…閉店時間なのでぇ…」
もう一度、話しかけられる。隣ではトモエが爆睡していた。私は慌ててトモエを起こして、店員に謝る。店員は、ペコリと頭を下げて他の机の後片付けを始めた。
「トモエ、閉店時間だって。ねえ」
何度か揺すると、彼女は唸りながら伸びをした。時計を見て、アララと呟く。もう、午前一時半だった。
「もう一店行かない?私のおすすめ」
一度寝て、少し冷静になったのかトモエが言った。私は呆れて友人を見る。でも、嫌ではなかった。このまま一人帰るのは寂しい。あの橋の事もあるし…。
「分かった。行こっか。だーかーらー、そのだらしない服装をしっかりしなさい」
「うう~。あ、ちょっと触んないで自分で出来る」
くすぐったそうにケラケラと笑って、トモエは上着のボタンを閉めた。結構危険な服装だった。
勘定して粘着く夜を二人で歩く。人の気配はなかった。生温い風が頬を掠める。
「そう言えば、お化けから物をもらっちゃいけない、っての言ったっけ?」
唐突にトモエが言った。私は無言で首を横に振る。彼女は、足元がおぼつかなかった。
「でも、欲しいのをあげると、一つ願いを叶えてくれるらしいよ」
それも、私は初聞きだった。結構いいお化けではないか。へえ…、とつぶやいたその時。
ピリリ…ピリリ…
私の携帯が鳴った。誰だろう、と思いながら発信者名を見る。しかし。
『トモエ』
「えっ…?」
トモエは隣りにいる。彼女が携帯を握っている様子はない。私は、肌が泡立つのを感じた。恐る恐る、彼女に尋ねる。
「トモエ…、アンタ携帯は…?」
彼女はふっと私を見た。冷たい。瞬間的にそう感じる。何が、とかどうして、じゃない。ただ単純にそう感じた。ー…、冷たい。
「あぁ、忘れちゃった。彼氏かも」
嘘だ。トモエが携帯を忘れる訳がない。履歴を見ると、何度かトモエからの電話が来ていた。
「ね…ねぇ、トモエ…。あの橋を通るの?」
「そうよ。そうしないと、行けないし」
「でも、トモエ…」
「ただの都市伝説よ」
「でも…」
彼女は、ニッコリと笑う。その綺麗な笑顔は、街灯に照らされて青白く浮き出て見えた。ほら、行こう?彼女は私の腕を握る。
こんな夏の夜、しかも酒を飲んだ後なのに。
トモエの手は、異様なほど冷たかった。
私は反射的に手を振り解く。慌てて前へ進んだ。遠くに、ぼんやりと橋が見えてくる。トモエは後ろからついて来て、そして一人言のように話しだした。
「今は夜中って十二時だけど…。昔は丑三つ時。午前、ニ時なのよねぇ」
まるで、死刑宣告。
囁くような声は、しかしハッキリと私に届いた。背筋が無意識的に伸びる。
『橋の前で、振り返ってはいけない』
私が言ったのか、もしくはトモエか。嫌に何度も頭の中で繰り返された。もしこのまま行けば、トモエは橋の前で私に声をかけるだろう。振り返れ、と。
橋が近付いてくる。否、私が向かっているんだ。他の道は行かせないと、無言でトモエが言っている。
携帯は、なかった。
いつの間に。手汗で滑ったのだろうか。
橋の、目の前に着く。私は歩みを止めた。
はたしてトモエは…。
「何止まってんの?通れないじゃん」
そう言って彼女は、私の前へ体を滑り込ませ橋に入った。そして、振り返って呆れ顔になる。
「え…?あ、ゴメン…」
私は疑問に思いながらも橋へ一歩踏み込んだ。
「ここで、亡くなったんでしょ?弟さん」
ゆっくりと歩きながら、トモエが言う。
私は無言で頷いた。
「なんで、自殺したのかなぁ。死ぬのって、恐いよね」
そう言って、下を見る。ポッカリと開いた橋の下。巨大な生き物の口の中へ吸い込まれる感覚がした。ゴーゴーと川の音がする。
「そう、ね。私には…、弟の気持ちは分からない」
トモエが顔を上げてこちらを見た。橋の明りが、一瞬その明るさを増した気がする。
「本当に?」
そう言って、私が聞き返す前に歩き出した。
ゆっくりと、しかし確実に。
「あなたのその癖」
私はハッとして右手を見る。いつの間にか、手は一定の動きを繰り返していた。注射器を何度も刺すような…。私の、癖。
「弟さんが死ぬニ・三日前から急に増えたわ」
「ちょっと…、トモエ…何言ってるのよ」
彼女はニッコリと笑いながら振り返る。私のよく知っている、でも知らない笑顔で。私は彼女につれて歩みを止めた。
「どうしてかしらね?」
まるで謎かけ。
お酒の酔いは、とっくに吹き飛んでいた。
「ちょっとストレスが、仕事とか」
「本当に?本当にそんな理由だけ?」
こちらを向いたまま、トモエは後ろに歩き出す。私も糸に引かれるように歩き出す。
「トモエ…、ちょっと大丈」
「無くなったもの、あるんじゃない?」
私はビクリと肩を震わせる。
なぜ…なぜトモエがそれを…。
それでも、足は一定に前へ進む。
トモエの歩みに合わせて、一歩。一歩。
「箱、そして中の物」
「なんでアンタが!」
私は叫んだが、声は震えていた。
「弟さんの死体にあった穴。普通の人じゃ分からないものよ。まるで」
注射器で何ヵ所も刺されたみたいな、ね。
私は唖然として彼女を見る。
なんで?なんで…?
混乱する私を見ながら、トモエは笑みを深くした。
「私、全部見てたよ。弟さんが、箱を捨てる所も全部」
ー…、誰?この目の前にいる女は、ダレ?
「結構大変なんだよ。迷いながら、意識しながら、本気で考えながら物を捨てるのって」
トモエが微笑んでいる。
でも、その口調は彼女ではない。
トモエからの電話一…。
外へ出たら、私がいない。心配してかけてきたのなら、何度もの履歴は納得がいく。
でも、じゃあ目の前のトモエは…?
「弟さん、アナタの注射器で何ヵ所も刺されてたでしょう?それで、無くなったらもっと怒るのを知ってても、捨てたの。迷いながら」
どこかで声がする。
橋の下から、小さくでもハッキリと。
『オーィ。ォーイ』
辺りに反響する、男の声。
私は悲鳴も上げられないまま、その場で突っ立っていた。膝が笑って、上手く動けない。
そんな中で、トモエは美しく笑っている。
「ヤツに怒られるって、両親にしては変だよね」
ヤツ。
私のー…、コト?
急に目の前がクリアになっていく。
「弟さんは、ここでアイスをくれたの。でも、何もお願いを言わなかった。だから、だから…」
女は少し落ち込んだように下を向く。
弟は、ここで会ったのだ。コレと。
そしてアイスをあげて、でも願う前に自殺した。
だからお化けは困った。
でも。
でもなら。
ナンデ、ワタシトモ、アウノ?
「覚えてないの?」
ボーイソプラノが響く。
ハッとして前を向いた。
まず目に入ったのは、アイス棒。
アタリ、と小さく書いてあった。
弟がずっと欲しがっていた、アタリ棒。
そして次に、寂しそうに笑っている友人。
声と顔が、全く異なっていた。
私は一歩後ろへ引く。
「お姉ちゃんも、捨ててくれたじゃない」
「知らないっ!そんなの知らないっ!」
女はアイス棒をいじる。
両手で大事そうに。寂し、そうに。
「だってお姉ちゃん。お兄ちゃんを捨てたよ。この橋の上から、すっごく悩みながら」
私はドクリと心臓が動いたのを感じた。九日前の夜。映像がフラッシュバックする。
『姉さん、ちょっとこんな夜中に…』
私は、困った顔の弟を見つめた。
私の大切なものを、捨てた弟。
『姉さん?』
唯一の使い捨ての注射器を、掴んだ腕に刺す。
『ちょっ、何やって…』
振り解こうとした弟が、急に崩れ落ちる。
私は、黙ったまま後頭部を石で殴る。
何度か殴ると、石に脳味噌がくっ付いた。
役立たずな弟。
「しっかり返り血まで拭いてくれたじゃない?」
女は笑う。ボーイソプラノの、幼い少年の声で。私は、もう一歩下がった。
「違う!違うの!あれは…」
「どう違うの?教えて、ね?」
囁き声が、ハッキリと私の所まで届く。川の音がする。でも、それだけ。川の音、だけ。
何?一体何が起こってるのよ!?
私は目を左右に動かす。
逃げよう。逃げた方がいい。
大丈夫。逃げれる。
私は何もしていない。このまま逃げればー…。
もう一度だけ友人を見た。
しかし。彼女はいなかった。代りのように少年が一人いる。水死体の様に真っ白いー…。
「ひっ…!」
喉の奥から絞られたような悲鳴。それが、私の声だと気付くのに数秒かかった。
そして気付いた瞬間。
私は少年に背を向けて走り出した。
ここは、橋の中間ぐらい。
橋から逃げれば…!
「ねぇ、お姉ちゃん。僕からのプレゼント、まだ持っててくれてる?」
後ろから、あざけ笑うような爆発的な声が響いた。私は呼吸を荒くして、橋の出囗に向かって走る。
どうしようもない膝の震えを感じながら、私はポケットに違和感を覚えた。トモエからもらった。
彼女からもらった、愛のこもった石。
『お化けから、物をもらってはいけない』
『無限橋地獄がある』
意味のない事ばかり思い出してしまう。
こんな時に。なんで…。
この石は?誰から貰った…?
出入口が見えてくる。
あと、五メートル弱。
お願い。夢であって…!
ギュッと目を瞑り、ラストスパートをかける。
自然と悲鳴がロから出た。
少年の笑い声は、いつの間にか聞こえなくなっている。このまま、このままっ…!
私は足に力を込めて突っ切った。
余分に十メートルほど走って、呼吸を整える。目はまだ開けていない。大丈夫。大丈夫。
ゆっくりと、目を開ける。
「お姉ちゃん、残念だったね」
少年の笑い声が弾けた。
ー…、目の前に、橋。