5 部屋の隅
最近、シンの様子が変だ。
この二年、結局同じ部屋のまま過ごしてきた。彼の様子の変化くらいすぐにわかる。
シンはいつでもどこでも笑顔を振りまいている。
その相手が、能力士官の上官であっても幼い子供であっても。
それは、きっと彼を見てきた周りからすれば当たり前だというだろう。けれど、キフィは違和感を感じていた。
幼い頃から彼が上手く生きていく為に備わった能力、営業スマイル。半分くらいはオマケの笑顔だ。その顔に馴染みすぎて誰もが彼の事を穏やかだという。
しかし、それが全て彼を表す訳ではなく本当のところ実に冷淡で物事をよく見ている。
そのシンは今、居ないように見える。目の前にはもちろん居るのだが、彼が浮かべる笑顔は作られたものしかなくなっている。
そうでなかったら、今目の前で微笑んでいるシンはなんなんだろうか?
「何?」
シンが首を傾げて自分を上目遣いに見る。シンは椅子に座り医術の教本を眺めていたようだ。
返事は返さずにじっとシンを見つめる。
「…キフィ、何な訳?」
シンは本を閉じて目の前に座るキフィに向き直った。
「お前、どうかしたのか」
「え、それって僕のセリフじゃない?」
苦笑してシンは呆れてみせる。
一緒に過ごし何度も衝突し本音でぶつかってきた結果包み隠さず言葉を投げあうようになっていた。
その自分にシンは微笑むのだ。だれもいない自室でさえ。
「おかしいだろ」
作戦部に行く事が多くなり、シンと一緒に仕事をすることがほとんど無くなった。
珍しくサキヨミも連れて行く任務にキフィが呼ばれた。
それは軍の外に出るシンの変装をより違和感無くするためのものだったのだろう。情報部の行なう任務の半分は内部の情報操作にあてられているように思う。
そして残りの半分は軍に都合のよくない外部への干渉など。
今回はシンとそこら辺に居るだろう学生の格好で町に出た。
もちろん周りには一般人にしか見えない情報部員が固まっていたが。
あえてシンとキフィはくだらない話をしながら歩いていた。学生ならばどうでもいい事を話し続けるだろうというのもあるが、キフィはこの任務に参加しているアルファン統括が嫌で気を紛らわせる事にしたのだ。
「だから、きっと小麦を荒く挽いたものを使った方がおいしいんだと思うよ」
「ホントにお前は味わかんないくせによく知ってるよな」
昨晩の夕食の材料について熱心に語っていたシンは、困ったように笑う。
「だって、どんなものか想像するのは楽しいだろ…わっ」
そう、口にした所で不意にシンが派手にこけた。それも顔面から倒れていて誰かが後ろから押したのかというくらい見事だった。
「大丈夫か?」
普段ならシンの補佐官が慌てて飛び出てくるだろうけど、今は任務中だ。
キフィが声をかけながら手を差し出す。シンは身体を起こしながら手を取りかけてピタリと動きを止めた。身体を起こした体勢のまま強張った顔でてのひらを見つめている。
「どうした? てのひらも怪我したのか?」
「…う、うん。両手とも負傷しちゃったな…」
微笑んで答えると自力でシンは立ち上がった。
「何も無い所で初めてこけたかも」
再び歩きながらシンが首を傾げながら呟いた言葉を聞いた。
確かにシンは身のこなしも普段から軽い方だし、こういった派手なこけ方をする前に何らかの受身を取れたはずだがしなかった。あまりにも急でとっさの動きができなかったのだろうか。
町中をゆっくりと歩きたどり着いたのは町外れの古ぼけた商店だった。シンが引き戸を開けるとガタガタと埃を立てながら動いた。
商店は古い本を売る店らしく、埃のかぶった本が棚に並んでいてキフィは思わず顔を顰めた。商売する気は有るのだろうか?
「いらっしゃい」
奥から店番らしき中年の女が出てきた。
奥のほうは住居スペースになっているようだった。
「珍しいね、学生さんがこのこんなマニアックな古本屋に来るなんて」
二人の服装などからちゃんと学生と認識されたようだった。
「えぇ、今日は先生に頼まれたのです。“鷹の育成方法”について探してくるようにと」
シンは嬉しそうに顔をほころばせる。
シンの微笑みに一瞬目を奪われた女が、はっとした顔で二人を見た。
じろりと自分を見た女にキフィは目を細める。どうやらこの女は自分と相性は悪いようだ。
「もちろん、この店には置いていらっしゃいますよね?」
「そ、そうね」
シンの言葉に我に返り女が頷く。
「すぐに探しに行くわ」
女が踵を返して姿が消えたのを確認して、隣に立つシンの靴を軽く蹴った。シンが何事かと目線を寄越す。
「お前、女顔の癖になんで女に好かれるわけ? わかんねぇ~」
「余計なお世話」
「生意気な」
シンが苦笑しながら本当の先を促す。
「ん? ちゃんといるよ」
中年の女のサキヨミを瞬時に終わらせて行動予測は終わっている。
「了解」
またくだらない会話を続けていると女が戻ってきた。
「私一人じゃ持って来れないから、あなた達が取りに来てくれる?」
「ええ、構いませんよ」
シンがまたも愛想のいい笑いを浮かべると先頭を歩き始めた女の後ろを付いていく。
店の奥は、予想通りの住居スペースとその隣りに書庫があった。そこは店の中よりも棚も床も綺麗に整えられており、どっちが店か分からない状態だった。
書庫に入り女が床に屈む。自然な動作で床板を一枚抜き取り、薄暗いその中へ身体を滑り込ませた。
一緒にその様子を見ていたシンが顔を顰めるのを見た。
本人は隠しているつもりらしいが寝食共にしていれば分かる。シンは暗いところが嫌いだ。
「いかないのか?」
意地悪にも聞いてやる。
「行くに決まってる」
一瞬、悔しそうな顔をしたあとに無表情を装って言葉を返された。そうか、ととても優しい笑顔を作り促す。
女の後を追ってシンが地下に続く階段を降りていく。キフィもすぐに続いたが、思ったよりも暗くなかった。森育ち、それもランプのみで過ごすキフィにとっては少しでもランプの灯りが届く範囲であればなんでもない。森の中なら夜目もきく。
シンを怯えさせられない事に若干不満も持ちながら階段をおり終わる。
小さな部屋(キフィとシンの部屋の半分ほど)の中央の机を挟んで人がいるのが分かる。先にいたシンがじっと男の顔を見ていた。シンのそれは、先ほどまでのほんわりした人を虜にするものではなく、凄く残忍で冷酷な横顔だと思った。
シンが一歩前に出て頭を下げる。
「…こんにちは。マーティン・マーマルさん」
丁寧なお辞儀をするシンの背中越しにマーマルを見ることが出来た。
年のころは丁度自分の祖父と同じくらいの初老の男、堅苦しそうな顔立ちに皺は多く頭半分は銀色のものが混じっている。
「ほぉ、君たちが使者だと…?」
「不満ですか?」
シンが何かを答える前に口を挟んだ。
「満足するとでも思っているのか? 私はこの王国軍の秘匿された情報を唯一持つものなのだ。こんな尻の青い子供に何が出来る」
「それは残念な事です」
心底そう思いキフィは沈痛な面持ちで同意した。
本当に残念だ。
彼が国家唯一の情報を持っていたばかりにこの状況になっているのだから。自分とシンが出てくるような状況に。
「カリー、二人には帰ってもらいなさい」
カリーと呼ばれたのは、二人を誘導してきた女だった。彼女は従順に頷く。
「かしこまりました。マーマル様」
先ほどまで見せていたそこら辺にいる中年女の顔から今は、貴族や政治家の秘書のような顔つきになっていた。
きっと自分の判断は間違いではないだろう。
「さぁ、戻りなさい。軍にもどって告げるのです。もっと有用な交渉ができるものを派遣するように」
カリーは尊大に二人に向かって告げ、それにキフィは噴出しそうになるのを我慢する。
それを見咎められ、カリーに睨まれるが肩をすくめて見せる。こんな面白い事と言う方が悪い。
「僕に不満だなんて、酷い事を仰るんですねマーマルさん。軍の情報なのでしょう? 僕で十分です」
「何を言っている。お前のような小僧に何が分かるのだ」
憤慨し、マーマルは失礼な発言をするシンを睨む。
「全部です」
シンは淡々と言葉を返し、口角を上げる。氷のような横顔に作られた笑みは残忍な物にしか見えず、先ほどシンに見とれていたカリーも驚いた顔を見せている。
「全部だと? 何を言っている私の半分も生きていないお前に何が出来る」
「出来ます」
ヒュッという音と共にシンがマーマルと自分を隔てていた机の上に立つ。唐突な軽い身のこなしにマーマルとカリーは口を開ける。
「軍の重要機密をその脳に保有し、国王や国民に漏らそうとする貴方が無事に生きていけるとお思いですか? そんな貴方だからこそご存知のはずですよね…僕みたいな者の事を」
にぃいっとシンの口がさらに歪められて、椅子に座ったまま立ち上がれないマーマルの目線を捉える。
「情報部が何の情報を管理するかをお忘れですか? そして情報部に何が居るのかも」
「……う、噂だけのはずだ…お前がそんなバケモノのはずが無いっ…そ、そうだろう? 人の記憶を喰らって生きるコエケシのはずが…」
「ありますよ? バケモノなんです、僕がね…」
ことさらゆっくり告げられた言葉にマーマルが蒼白になっていくのと、シンの手のひらが彼の頭部に伸びるのは同時だった。
シンの擦りむけた血の滲む手のひらがしっかりとマーマルを捉える。後ろ姿だけでは何を本当に彼がしているのかなんて見えないが何をしているのかなんて百も承知だ。
「くっ」
崩れ落ちたマーマルをシンは無表情にいや、青白い顔で見つめているのだろう。
自分へとシンがくるりと振り返ると瞳だけが爛々と異様に輝いているのを感じた。
生気の無い顔なのにその視線だけが取り込まれそうなほど強かった。
あまりの出来事に硬直していた女、カリーが身動ぎをする。次は自分であると気が付いたようだった。一歩も後ろに下がることが出来なかったカリーにシンは近づいて、トンッと人さし指を額に置く。キフィもなんとなくカリーの身体を押さえたが必要無いことだと分かっていた。
瞬きの間にカリーも床に崩れ落ちる。
何度見てもシンの仕事の手際のよさには感心する。
自分と行なう事が違う分それがどうなのかは分からないが、キフィはシンの能力には内心感心していた。
蒼白なままでシンがふらふらと部屋の隅へと歩いていくと壁に背を預けて座り込む。
「おい、大丈夫か?」
「触るな」
肩に手を掛けようとしたところで突き放すようにシンが吐き捨てた。
それは二人の間で出来た妙な連帯感がある冗談などの類ではなく完全な拒否だった。シンの顔を窺うと両手を握り締めて何かに耐えているようだった。その間にもシンの顔は青白さを増す。
「シン…」
いつもの様に放っておいてどうにかなるようなものではないように見える。
「僕に触るなといってる」
「お前、そんな事言ったって体調が悪いんだろ」
とりあえず触ることはせずに諭すが、ちらりと上げた視線で睨まれる。
「キフィまで僕に喰われ、る…ぞ…」
「え?」
聞き返すまでも無くシンの体が横に傾いでいく。ぐったりと意識を失ってしまったシンの横顔を見つめる。他の二人と同じような顔だ。
「どういうことだよ」
返事をするものなどこの地下室には存在せずにむなしく声が響いただけだった。