第九話:合鍵と、熊の寝言
三浦半島を走る京急バスが、終点の一つ手前「日の出」のバス停で、重たい吐息を吐くように停まる。潮の香りと古い魚網の匂いが混ざり合うこの町には、時計の針が少しだけゆっくり進む場所があります。
築五十年の古民家を改装したフリースペース「キボクマ」。
そこには、ただ静寂を買いに来る人々が訪れます。店主は、奥の六畳間に潜んでいる「フツーのおじさん」。彼と、そして店内に並ぶ百体の木彫りの熊たちが、今夜も迷える誰かの「落とし物」を待っているようです。
……。
夜の「ヨルクマ」は、黒漆喰の壁に埋め込まれた小さなLEDが、三崎の海に映る星空のように瞬いている。
私は奥の6畳間で、文庫本のページをめくる音さえ大きく感じるほどの静寂の中にいた。土間の方からは、かすかに潮騒の音と、時折通り過ぎるバイクの排気音が聞こえてくる。
カラカラ、と引き戸が開いた。
入ってきたのは、30代半ばとおぼしき青年だった。ヨレたリクルートスーツに、肩からずり落ちそうなリュック。彼は入り口で戸惑ったように立ち尽くし、それから吸い寄せられるように、壁一面に並んだ木彫りの熊たちの前へ歩み寄った。
彼は迷うことなく、一頭の熊を手に取った。
それは、鮭をくわえているわけでもなく、ただ前足を投げ出して「座り込んで」いる、少し間の抜けた顔の熊だった。
彼はローソファーに深く腰を下ろすと、膝の上にその熊を乗せ、自分の顔を埋めるようにして俯いた。
30分が過ぎ、1時間が過ぎた。
彼は持ち込んだ缶コーヒーを一口も飲まず、ただ熊の頭を撫で続けている。時折、何かを探すように、自分のポケットを何度も何度も裏返しては、絶望したように肩を落とす。
「……あの、すみません」
消え入るような声が、六畳間の私に届いた。私はサンダルを突っ掛けて、土間へ出た。
「はい。何か」
「……落とし物、届いてませんか。ここに来るまでの道か、あるいは、昨日……」
「昨日は店、休みでしたよ」
「そう、ですよね。すみません、変なこと聞いて」
彼は力なく笑った。眼鏡の奥の目が、ひどく充微している。
「合鍵を、失くしたんです。この町に越してきたばかりの、彼女の部屋の。明日、彼女が海外赴任から帰ってくるのに」
彼は語り始めた。
彼女が旅立つ前に預けてくれた、信頼の証である合鍵。それをどこで落としたのか見当もつかない。今日、仕事を早退してまで三崎の路地を隅から隅まで歩き回ったが、見つかったのは錆びたボルトと、誰かの捨てたライターだけだったという。
「僕、昔からそうなんです。一番大事な時に、一番大事なものを失くす。彼女、怒るだろうな……いや、怒るんじゃなくて、あきれられるのが一番怖いんです」
彼は膝の上の熊を見つめた。
その時、不思議なことが起きた。彼の膝にいた「座り込んだ熊」が、ふいっと、首を左側に傾けたのだ。
機械的な動きではない。まるで、隣で話を聞いていた友人が「そういえばさ」と思い出したかのような、自然な動き。
彼は目を見開いた。
「……動いた?」
「よくあることですよ。ここの熊たちは、少しだけお節介なんです」
私は適度な距離を保ったまま、上がり框に腰を下ろした。
熊は傾けた首をそのままに、じっと一点を見つめた。その視線の先にあるのは、彼の膝元で口を開けているリュックのサイドポケットだった。
彼は吸い寄せられるように、熊の視線を追った。
「そこは、さっき何度も確認したんです。空っぽでした」
そう言いながらも、彼は導かれるようにそのポケットに手を伸ばした。
だが、彼の手が奥まで入り込んだとき、指先に、冷たい金属の感触があった。彼は信じられないという顔で、一本の鍵を取り出した。
裏地の破れ目に滑り込み、布の隙間に隠れていたらしい合鍵。
「あった……。あったんだ……」
彼は鍵を握りしめ、ボロボロと涙をこぼした。
それは安堵というより、もっと深い、自分という人間への絶望から救われたような涙だった。
「良かったですね。熊も、気になっていたみたいだ」
「……はい。ありがとうございます」
彼はしばらく泣き、それから少しだけスッキリした顔で立ち上がった。
帰りがけ、彼は棚に熊を戻しながら、その頭を優しく、今度は慈しむように撫でた。
「あの、店主さん。ひとつ聞いていいですか」
「なんです」
「あの熊、さっき僕の耳元で、何か言った気がしたんです」
「なんて?」
「『自分を責めすぎだ、自分を許してやれ』って。……そんなわけ、ないですよね」
私は曖昧に微笑んだ。
「三崎の夜は長いですから。空耳も、ここの風景の一部ですよ」
彼が去った後、私は彼が座っていたソファーに近寄った。
例の「座り込んだ熊」は、いつのまにか元の無表情に戻り、またぼんやりと虚空を見つめていた。
ただ、その熊の足元に、小さな砂粒が落ちていた。
三崎の海辺にある、貝殻をすりつぶしたような白い砂。
彼が今日一日、必死に彼女との思い出を探して歩き回った足跡が、熊に移ったのかもしれない。
私はそれをそっと掃き、また静かな六畳間へと戻った。
バスのエンジン音が遠ざかっていく。
今夜も三崎の夜は、不条理なほどに穏やかだ。
……。
失くしたものは、案外、一番近くに隠れているものかもしれません。
それは鞄の裏地の中だったり、あるいは、自分でも気づかない心の奥底だったり。
「ヨルクマ」の熊たちは、饒舌ではありません。けれど、彼らはあなたの孤独に寄り添い、時としてあなた自身よりも先に、あなたの大切なものを見つけ出してくれることがあるようです。
もし、あなたも何かを探して三崎の町で途方に暮れることがあったら、ぜひ「日ノ出」のバス停で降りてみてください。
次は、あなたが誰かと分け合いたい「お題」を、そっと教えてくださいね。




