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キボクマ  〜100体の熊と、普通のおじさんの静かな時間〜  作者: 一 十


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8/10

第八話:不揃いな編みもの

三浦半島、その最南端に位置する三崎。

潮の香りがバスの排気ガスと混ざり合う「日ノ出」バス停のすぐそばに、その店はあります。


築50年の古民家を改装したフリースペース「キボクマ」

そして夜、黒い漆喰に星が灯る「ヨルクマ」


ここには、何かに疲れた人や、静寂を求める人が、吸い込まれるようにやってきます。

店主の「私」は、ただ土間の奥の6畳間で、彼らが連れてくる小さな物語を眺めているだけ。


今夜、店を訪れたのは、編みかけのマフラーと、解けかかった思い出を抱えた1人の女性でした。

……。

 三崎の夜は、潮が満ちる音とともに深まっていく。


 「ヨルクマ」の黒い漆喰壁に、天井から降り注ぐ微かな光が反射して、まるで深い海底から夜空を見上げているような心地にさせる。


 土間の奥、6畳間の座椅子に深く腰掛けた私は、文庫本から目を離し、緩やかに仕切られた先にあるフリースペースへ視線を投げた。


 今夜の客は1人。ここ数日、毎晩のように通ってきている若い女性だ。


 20代半ばだろうか。名前も知らない。ただ、料金箱に1000円札をそっと差し入れる微かな音だけが、彼女の訪れを知らせる合図だった。


 彼女はいつも、土間に並ぶ100体の木彫りの熊の中から、一番どっしりとした、少し不格好な大柄の熊を選んで席に運ぶ。


 その熊は、鮭を咥えているわけでもなく、ただ前脚を揃えて「どっこいしょ」と座り込んでいるような、妙に人間臭い佇まいをしている。


 彼女がテーブルに広げているのは、赤茶色の毛糸で途中まで編まれたマフラー。


「……また、間違えた」


 小さな呟きが、静かな空間に溶ける。

 彼女はため息をつき、数段分を解き始めた。縮れた毛糸が、彼女の指先で震えている。


 家には、まだ幼い兄弟たちがいて、騒々しくてとても作業にならないのだと、初日にポツリとこぼしていた。


 私は6畳間から出すことなく、彼女の背中を見守る。

 彼女が編んでいるのは、亡くなった祖母が遺した編みかけのマフラーなのだという。


「おばあちゃん、ここまでは上手だったのに。私が続きを編むと、どうしても化け物みたいになっちゃうんです」


 そう言って自嘲気味に笑った彼女の瞳は、少しだけ潤んでいた。


 1時間ほど経った頃、彼女が「少し外の空気を吸ってきます」と立ち上がった。

 三崎の夜風は冷たいが、熱くなった頭を冷やすにはちょうどいい。


 彼女がカラカラと引き戸を開けて外へ出ると、土間には木彫りの熊と、編みかけのマフラーが残された。


 私は、ふと妙な気配を感じて腰を浮かせた。彼女が座っていた席の熊。

 あの大柄な熊が、わずかに、本当にわずかに首を傾げたように見えたからだ。


 私はサンダルを突っかけて土間に降りた。店主として、席を離れた客の持ち物にいたずらをするつもりはない。ただ、なんとなく様子が気になったのだ。


「……おや」


 テーブルの上を見て、私は眼鏡をかけ直した。


 そこには、さっきまで彼女が「間違えた」と嘆いていた、いびつな網目が並んでいたはずだった。しかし、今そこにある編み地は、どういう理由か、少しだけ形を変えている。


 網目が、整っているわけではない。むしろ、ガタガタなのは相変わらずだ。

 けれど、その「ガタガタの具合」が、彼女が編んでいたものとは違い、綺麗にガタガタなのだ。どこか、リズムがある。不器用だけれど、迷いがない。

 それは、彼女が見せてくれた「祖母が編んだ部分」の癖に、驚くほど似通っていた。


 私は、熊の顔を覗き込んだ。

 熊は、相変わらず無表情で、どっしりと座っている。


 だが、その太い木彫りの指先には、1筋の赤い毛糸が、まるで最初からそうであったかのように引っかかっていた。


「……さて。もう一回、ダメ元でやってみるかな」


 引き戸が開き、潮風と共に彼女が戻ってきた。

 誰に聞かせるでもないその呟きには、諦めと、ほんの少しの決意が混ざっていた。

 私は慌てて、何事もなかったかのように6畳間へと引き返した。


 彼女が席に戻り、編みかけのマフラーを手に取る。

 数秒の沈黙。


「えっ……?」


 彼女の驚いたような声が聞こえた。

 彼女は編み地を光に透かし、何度も指でなぞっている。


「これ……おばあちゃんの網目だ。なんで……私、こんなふうに編めたっけ?」


 彼女は戸惑いながらも、再び編み棒を動かし始めた。


 不思議なことに、先ほどまでの迷いは消えているようだった。

 カチ、カチ、と編み棒が触れ合う音が、小気味よいリズムを刻み始める。


 彼女の手元を、傍らの大柄な熊が、満足そうに見守っているように見えた。


 閉店時間の23時が近づく。

 彼女はマフラーを丁寧に畳んでバッグに仕舞うと、私の方を向いて小さく頭を下げた。


「あの、店長さん。今日はなんだか、すごく上手くいきました。おばあちゃんが手伝ってくれたみたいで」


 私は6畳間から顔を出し、フツーのおじさんらしく、曖昧に微笑んだ。


「それは良かったですね。三崎の夜は、たまにそういうことがありますよ」

「……また明日も、来ていいですか?」

「ええ、もちろん。熊たちも待っていますから」


 彼女が帰ったあと、私は彼女が選んだ大柄の熊を元の棚に戻そうとした。持ち上げようとすると、いつもより少しだけ、その熊が温かいような気がした。それから、その熊の足元に、小さな赤い毛糸のクズが落ちているのを見つけた。


 私はそれを拾い上げ、窓の外を眺めた。

 星空のようなイルミネーションが、黒い天井で静かに瞬いている。


 明日には、その不揃いなマフラーも、もう少しだけ完成に近づくだろう。


 三崎の夜は、ただ静かなだけではない。

 解けてしまった思い出を、もう一度編み直すための時間も、ここには流れているのだ。



……。

いかがでしたでしょうか。

不器用な指先が紡ぐ、赤茶色の物語。


完璧ではないからこそ愛おしい、そんな「不揃いな網目」に込められた想いが、少しでもあなたに届いていれば幸いです。


ヨルクマの熊たちは、饒舌ではありません。

けれど、彼らはいつだって、あなたの隣で「静かな肯定」を送り続けています。


もしあなたが何かを諦めそうになったら、三崎の潮風に吹かれながら、この古民家の扉を叩いてみてください。


次は、あなたがどの熊を選ぶのか、店主と共に楽しみに待っていますね。

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