第七話:ぬるい缶コーヒー
三浦半島、その最南端に位置する港町・三崎.。
潮の香りと、時折通り過ぎる京急バスの低いエンジン音が街の旋律です。
日ノ出バス停からほど近い、築50年の古民家. そこには、ただ静かに時間を過ごすためだけの場所「キボクマ」があります。
店主の「私」は、今日も奥の六畳間から、土間に流れる時間を眺めています。ここに来る人々は、100体の木彫りの熊の中から一体を選び、誰にも言えない思いを預けます。
今日お届けするのは、どこにでもいる営業マンと、一本の缶コーヒーを巡る、少しだけ温かな物語です。
……。
三浦市三崎、日ノ出バス停付近。
潮風が古い建具の隙間を抜けて、ひゅうと鳴る. 築五十年の古民家を改装したフリースペース「キボクマ」の午後は、いつも凪いだ海のように静かだ。
私は土間の奥にある六畳間に座り、古い文庫本を広げていた。広げていただけで、目が土間の方を向いている。
入り口には受付もなければ、愛想のいい店員もいない。ただ「1時間500円」と書かれた木箱が置いてあるだけだ。
カラカラ、と引き戸が開いた。
入ってきたのは、最近来店するようになったヨレたグレーのスーツを着た中年男性だった。四〇代半ばといったところか。
手には一本の缶コーヒーが握られているのが見えた。
男は慣れた手つきで木箱に500円玉を落とすと、壁際に並ぶ100体の木彫りの熊たちを一瞥した。そして、棚の隅にいた、手のひらに収まる小さな熊を選び、入り口から一番遠いローソファーに腰を下ろした。
彼は缶コーヒーのプルタブを開けようとはしなかった。
ただ、その金属の塊を両手で包み込むように握りしめ、じっと俯いている。
私は六畳間から、その背中を眺めていた。
営業回りの合間だろうか。
三崎の細い路地を歩き回り、断られ、頭を下げ、すり減った靴底でここまで辿り端いた。
そんな空気が、彼の丸まった背中から漏れ出していた。
「……はぁ」
小さく、重い溜息が聞こえた。
男は膝の上に置いた小さな熊に向かって、ぽつり、ぽつりと呟き始めた。
「また、ダメだったよ。ノルマなんて、誰が決めたんだかな。あんなに頭を下げても、結局は数字だけだ」
木彫りの熊は、じっと男の手元を見つめているように見えた。
男の独り言は続く。
家族のこと、住宅ローンのこと、最近眠れないこと.。それは誰かに聞いてほしいというよりは、自分の中に溜まった泥を少しずつ掻き出しているような、苦しい作業に見えた。
「冷たいよな、世の中ってやつは。……このコーヒーみたいにさ」
男が自嘲気味に笑い、握りしめていた缶コーヒーをサイドテーブルに置いた。その時だ。
膝の上の小さな熊が、ほんの少しだけ、首を傾げたように見えた。
熊の前足が、男の指の間を抜けて、そっと缶の横腹に触れた。
私は目を凝らした。見間違いではない。
そして、熊の手が触れた瞬間、缶コーヒーの周囲が、まるで春の陽だまりに置かれたように、淡く、優しく揺れた。
男は驚いたように目を見開いた。
彼は恐る恐る、缶コーヒーを手に取った。
「……え?」
男の顔に、戸惑いと、それから不思議な安らぎが広がっていく。
彼は缶を頬に当て、それから大切そうに両手で包み込んだ。
「温かい……」
それは、熱いわけではない。
ただ、人の体温よりも少しだけ高い、誰かの掌に包まれていたような、そんな「ぬるさ」だった。
私は立ち上がり、六畳間から土間へと一歩踏み出した。
私は客に呼ばれない限り声をかけないのだが、今の彼には、何か言葉が必要な気がしたのだ。
「……お疲れ様です」
私が声をかけると、男はビクッとして顔を上げた。
「あ、すみません。つい、長居を」
「いえ。どうぞごゆっくり。そのコーヒー、飲み頃のようですね」
男は少し照れくさそうに、温まった缶を見つめた。
「ええ。不思議ですね。さっきまで冷め切ってたのに。なんだか……誰かに『大丈夫だ』って言われているみたいな、ちょうどいいぬるさです」
私は男の膝の上にいる小さな熊を見た。
熊はもう、いつもの木彫りの置物に戻っていた。
ただ、その木の肌が、少しだけ艶を増しているように感じられた。
「三崎の冬は風が冷たいですから。熊も, お節介を焼きたくなったのかもしれません」
「……お節介、ですか」
男はフフッと短く笑うと, ようやくプルタブを引いた。
カシュッ、という小気味いい音が土間に響く。
彼は、「ぬるい」コーヒーをゆっくりと味わい、それから静かに飲み干した。
「……最近はずっと、苦いものばかり飲み込んできたので. こんなに甘いのは、久しぶりです」
男は立ち上がり、小さな熊を丁寧に棚の元の位置へ戻した。
出ていく時の彼の背筋は、入ってきた時よりもほんの少しだけ伸びていた。
引き戸が閉まり、再び潮騒の音が支配する。
私は棚に近づき、彼が選んだ小さな熊を手に取ってみた。
その掌サイズの熊からは、まだ微かな温もりが残っていた。
不条理なこともある。冷たい言葉に凍える日もある。
けれど、この町には、そんな冷え切った心を「ぬるく」温める程度の、小さなお節介があってもいい。
私は熊を棚に戻し、自分の居場所である六畳間へと戻った.
三崎の陽は、もうすぐ暮れようとしている。
……。
いかがでしたでしょうか。
栄養ドリンクよりも、高級なディナーよりも、時には「ぬるい缶コーヒー」の温度が一番心に沁みることがあります。
キボクマの熊たちは、決してドラマチックな奇跡は起こしません。
ただ、明日を少しだけ軽やかに歩けるように、そっと寄り添うだけです。
もし、あなたも少し心が冷えてしまった時は、三崎の港まで足を伸ばしてみてください。
古びた木彫りの熊が、あなたの話し相手になるのを待っているかもしれません。
次は、夜の「ヨルクマ」で、星空のような光の下でお会いしましょう。




