第六話:潮騒のプレイリスト
三浦半島、最南端の三崎。ここには、時折思いもよらぬものが潮風に乗って流れ着くと言います。
今回の「キボクマ」の客は、右耳だけに白いイヤホンを挿した女性。彼女は、存在しないはずの「左側の音」を追いかけて、この古い土間に辿り着きました。
少しだけ不思議で、切ない音の断片。熊たちが拾い集めた「さよならの続き」を、どうぞお聴きください。
……。
三崎、日の出バス停付近。
夕暮れ時、バスが吐き出す熱い排気ガスが、冷たい潮風に洗われて消えていく。
築50年の古民家「キボクマ」の奥、6畳間の定位置に私はいる。フリースを羽織り、ちゃぶ台に置いた冷めかけの茶をすする。眼鏡の奥で、土間の空気の揺らぎをじっと眺めるのが私の日課だ。
カラカラ、と引き戸が開いた。
現れたのは、グレーの厚手のニットカーディガンを羽織った若い女性だ。彼女はまるで何かに導かれるように、おぼつかない足取りで土間の中央まで進み、そこで足を止めた。
彼女の右耳には、白いワイヤレスイヤホンが一つだけ挿さっている。
だが、彼女はしきりに左耳のあたりを気にしていた。まるで見えない誰かが、そこに何かを囁きかけているのを聴こうとするかのように。
彼女は入り口の料金箱にそっと小銭を落とすと、迷うことなく壁際の棚へ向かった。
選んだのは、大きな耳をピンと立て、右側だけを少し傾けた風変わりな木彫りの熊だった。
彼女はその熊をそっと抱き上げると、窓際のローソファーに座り、熊の耳に自分の左耳を重ねるようにして目を閉じた。
私は六畳間から、その奇妙な光景を静かに見守った。
三分ほど経った頃、彼女が小さく声を漏らした。
「……聞こえる」
私はゆっくりと立ち上がり、土間へと出た。
「どんな音が聞こえたんですか」
彼女は驚いたように目を開けたが、その瞳は潤んでいた。
「あの、変なことを聞いてもいいですか。この熊、音楽を流しているんですか?」
「いえ、この店には音楽もテレビもありません。あるのは、熊たちと三崎の音だけです」
彼女は自分の右耳のイヤホンを外し、掌に乗せた。
「昨夜、港で彼と別れました。このイヤホン、二人で片方ずつ着けて、よく好きな歌を聴いていたんです。でも、お別れだって決まった時、彼が左耳の分を海に放り投げてしまって」
彼女の指が、カーディガンの裾をぎゅっと握りしめた。
「でも、さっき道を歩いていたら、聞こえるはずのない左耳のほうから、彼と一緒に聴いていた曲が聞こえてきたんです。かすかな、音のかけらみたいなメロディが。それに誘われてここに入ったら……この熊が、その続きを歌っている気がして」
私は彼女の手元にある、耳を立てた熊を見た。
この店の熊たちは、時折、持ち主が一番聴きたい音を反響させることがある。
「その熊は、遠くへ消えた音を拾うのが、少しだけ得意なんです」
私はいつものように、どこか他人事のような、根拠のない言葉を口にした。
「三崎の海に消えたものは、時々、熊たちの耳を通って戻ってくることがあるのかもしれません。もう少し、その音に耳を澄ませていきますか」
彼女は小さく頷き、再び熊に身を寄せた。
それから一時間。彼女は時折、懐かしい友人と再会したような穏やかな顔を見せ、最後には満足そうに熊を抱きしめた。
日が沈み、土間に夕闇が満ちる。彼女は意を決したように立ち上がり、抱えていた熊を両手で包み直すと、壁際の棚へと歩み寄った。
「……あ」
棚の前に立った彼女が、小さく息を呑む音が聞こえた。
私は六畳間からその背中を見守る。彼女は金縛りにあったかのように動かなくなり、やがて震える手で、棚の足元、熊を戻そうとしたその場所に転がっていた「小さな白いもの」を拾い上げた。
それは、彼女が失くしたはずの、左側のワイヤレスイヤホンだった。
「なんで……嘘……」
彼女は呆然とした様子で、掌の上のイヤホンを見つめている。
彼女は昨日、港で海に捨てられたと言っていた。ここは港から数百メートル離れている。何より、さっきまでそこには何もなかったはずだけど……。
私はゆっくりと立ち上がり、土間の入り口まで歩み出た。
「見つかりましたか」
振り返った彼女は、泣き出しそうな、それでいてどこか誇らしげな顔で私の掌を見た。
「はい。でも、これ……濡れてるんです。潮の匂いがして、とても冷たくて」
彼女の指先も、イヤホンを伝った海の水でわずかに湿っている。
「その熊が、人知れず海まで探しに行ってくれたんでしょう。……そういうことが、この町ではたまにあるんですよ。迷子になった音のかけらが、ひょっこり戻ってくることが」
私はそう言って、彼女が戻した「耳を澄ます熊」を指さした。熊は満足げに、ほんの少しだけ首を傾けているように見えた。
「ありがとうございました。……これ、大切に持っておきます。聞こえない音を待つんじゃなくて、楽しかった時の思い出として」
彼女は両手でイヤホンを胸に抱き、静かに会釈をして引き戸を開けた。
冷たい潮風が部屋の中に滑り込み、彼女のカーディガンをふわりと膨らませる。彼女が去ったあと、土間には温かな余韻だけが残った。
あたりはすっかり夜の帳に包まれていた。
私は「ヨルクマ」の営業準備のために、黒漆喰の天井に星空のイルミネーションを灯した。
棚の隅で、先ほど戻された「耳を澄ます熊」をふと見ると、その足元がほんの少しだけ、潮水で湿っているように見えた。私は熊の下にそっとタオルペーパーを敷いて、眼鏡を拭き直した。
ちゃぶ台に置いた湯呑みを手に取り、私は6畳間の定位置に腰を下ろす。
三崎の夜は、今日もどこからか「音のかけら」を運んでくる。
「……さて、今夜は誰が来るかな」
私は独りごちて、静かな夜の始まりを待った。
……。
迷子になった音のかけらと、それを拾い上げた木彫りの熊。
三崎の海は、時に私たちが手放したはずの記憶を、思いもよらない形で足元へ戻してくれることがあります。
彼女が手にしたのは、ただのイヤホンではなく、凍えた心を温めるための小さな灯火だったのかもしれません。
持ち主の決意を静かに見届けた熊も、今はまた、次の誰かを待つように棚の隅で耳を澄ませています。
夜の帳が下りた「ヨルクマ」の天井には、今夜も星空が瞬いています。
さて、次回の「キボクマ」にはどんな風が吹き込むのでしょうか。
またこの土間で、皆さまとお会いできるのを楽しみにしております。




