第五話:重たいマグロと、軽すぎる謝罪
三崎の潮風は、時に尖った心を丸く削り、時に隠していた本音を波のように引きずり出します。本日お届けするのは、そんな三崎の片隅にある「キボクマ」を訪れた、ある若い二人のお話です。
ぎくしゃくした空気の中に漂う、ほんの少しの不条理と、木彫りの熊たちが仕掛ける小さなお節介。どうぞ、土間のローソファーに腰を下ろすような気持ちでお読みください。
三崎港から城ヶ島へ向かうバスが、派手な音を立てて「日の出」の停留所を通り過ぎていった。
私はいつものように、土間の奥にある六畳間に座り、古い文庫本のページをめくっていた。網戸越しに入ってくる風には、かすかに磯の香りと、どこか近所の家で焼いている干物の匂いが混じっている。
築五十年の古民家を改装したこのフリースペース「キボクマ」には、時計の針の音が妙に大きく響くような、独特の静寂がある。
ガタリ、と引き戸が開く音がした。
「……ここ、休憩所だって」
「いいよ、どこでも。疲れちゃったし」
入ってきたのは、二十代半ばとおぼしきカップルだった。
男の方はベージュのチノパンに真新しいスニーカー。女の方は、三崎の坂道を歩くには少し不向きな、踵の高いサンダルを履いている。
二人の間には、三崎名物のマグロよりも重たくて冷たい「沈黙」が横たわっていた。
私は六畳間から、眼鏡の縁を押し上げて彼らを一瞥した。
「いらっしゃい。一時間三百円、セルフサービスです。お好きな席へどうぞ」
「あ、はい……」
男が財布を出して料金箱に小銭を落とす。女の方は、土間に並んだ百体の木彫りの熊たちを見て、一瞬だけ足を止めた。
「……何これ、すごい数」
「店主の趣味だって、表の看板に書いてあったろ。ほら、座ろうぜ」
男は促すが、彼女は動かない。
彼女は壁際の棚に鎮座する、鮭を咥えていない、妙に「思慮深そうな顔」をした一体の熊を選び取った。それを抱えるようにして、日当たりの悪い、しかし一番奥まったローソファーに沈み込んだ。
二人は並んで座ったが、視線は決して交わらない。
「だからさ、俺は別に、あのお店が悪いって言ってるわけじゃないんだよ」
男が、絞り出すような声で再開した。
「ただ、せっかくの旅行なんだから、もっと効率よく回れたらなって思っただけで」
「効率って、何。私はあそこの路地裏にある古い看板が見たかっただけなのに」
彼女は膝の上の熊の頭を、無意識に撫でている。
「あなたはいつもそう。予定通りにいかないと、すぐ機嫌が悪くなる」
「機嫌なんて悪くしてないよ。謝っただろ? ごめんって」
「その『ごめん』が、すごく軽いから怒ってるの」
不条理だ、と私は思う。
「ごめん」という言葉は、本来、心の隙間を埋めるための接着剤のはずなのに、時としてそれは、火に油を注ぐ着火剤になる。
私は六畳間から出ず、ただ二人の気配を追っていた。
すると、奇妙なことが起きた。
彼女の膝の上にいる木彫りの熊が、ほんの数ミリ、首を傾げたのだ。
木特有の「ギィ……」という乾いた音は、古い家の軋みに紛れて、彼らには聞こえていないようだった。
熊は、彼女の手から離れるように少しだけ身を乗り出し、隣に座る男の膝へと、まるでお手をするように前足を乗せた。
「……うわっ」
男が声を上げた。
「なに、どうしたの?」
「いや、なんか……この熊、重くないか? 急にずしっときたというか」
男は不思議そうに、自分の膝に乗ってきた熊を見つめた。
木彫りの熊は、今度は男の方をじっと見上げている。その彫り込まれた瞳は、まるで「お前の言葉、軽いぞ」と説教でもしているかのようだった。
「ねえ、ちょっと代わって」
彼女が熊を自分の方へ引き寄せようとしたが、熊はびくともしない。
「えっ、何これ。引っかかってる?」
男が両手で持ち上げようとしても、その熊はまるで床に根を張った大樹のように重くなっていた。
「……重い。なんだこれ、鉄でも入ってるのか?」
男は焦ったように力を込める。その拍子に、彼のポケットから小さな紙切れが落ちた。
それは、午前中に彼らが寄ったであろう、三崎港の食堂のレシートだった。
裏面には、殴り書きでこうあった。
『夕陽、間に合わなくてもいい。一緒に歩きたいだけ』
彼女がそれを拾い上げ、じっと見つめた。
それは彼女が書いたものではなく、彼が、彼女がトイレに立っている間にでも、自分自身に言い聞かせるためにメモしたものだったのかもしれない。
「……これ、何?」
「あ……いや。今日、夕陽のスポットまで急がなきゃって焦ってたから。忘れないようにっていうか」
男はきまり悪そうに頭を掻いた。
「効率よくとか言ったけど、本当は、お前をがっかりさせたくなかっただけなんだよ。ごめん。今度のは、さっきよりは重い『ごめん』だ」
その言葉が出た瞬間。
男の膝の上で鉄のように重くなっていた木彫りの熊が、ふっと軽くなった。
「……あ、動いた」
男がひょいと熊を持ち上げ、彼女に手渡した。
彼女は熊を受け取ると、その木彫りの耳のあたりを、今度は優しく指先でなぞった。
「バカじゃないの。メモしなきゃ忘れること?」
「三崎の坂道が、思いのほかきつかったからさ」
彼女の口元に、ようやく小さな綻びが生まれた。
二人の間にあった、あの重苦しい「沈黙」が、三崎の湿った風に溶けて薄くなっていくのがわかった。
私は頃合いを見て、六畳間から土間へ出た。
サンダルを引きずり、二人の前を通り過ぎて、本棚の整理をするふりをする。
「あの、店主さん」
男が声をかけてきた。
「この熊、なんか……不思議ですね。重くなったり軽くなったりするんですか?」
私は眼鏡を指で直しながら、適当な顔で答えた。
「さあ。古い木ですから。湿気を吸えば重くなるし、風が吹けば乾いて軽くなる。三崎の天気は変わりやすいですからね」
嘘である。
だが、この場所では、その程度の不条理がちょうどいい。
「……ありがとうございました。少し、休めました」
彼女が立ち上がり、熊を元の棚に戻した。
熊は、最初よりも少しだけ誇らしげな顔をして、他の九十九体の中に紛れていった。
二人が店を出ていく。
引き戸が閉まる直前、男が彼女の歩幅に合わせて、ゆっくりと歩き出すのが見えた。
私は六畳間に戻り、再び文庫本を開いた。
土間には、また静寂が戻ってきた。
ただ、棚の奥で、一体の熊が「やれやれ」とでも言うように、小さく首を振ったような気がした。
三崎の午後は、ゆっくりと過ぎていく。
次に来る客が、どんな「重荷」を抱えてくるのか。
私はただ、ここでそれを見守るだけだ。
いかがでしたでしょうか。
喧嘩の最中は、相手の言葉がどうしても軽く聞こえてしまうものですが、三崎の熊たちは、その重さを物理的に調整してくれることがあるようです。
「効率」という言葉を捨てて、あえて遠回りを楽しむ。そんな二人の後ろ姿が、三崎の夕日に照らされていることを願って。
次は、どんなお客さまがこの土間の扉を叩くのでしょうか。
またいつでも、物語の続きを書きにいらしてください。




