第四話:雨と、小さな守り神
三崎の港町に雨が降ると、潮の香りがいつもより濃く、重たく街を包み込みます。バス停「日の出」のすぐそば、築五十年の古民家『キボクマ』の軒先からは、規則正しい雨垂れの音が聞こえてきます。
今日は、そんな雨音に誘われるようにやってきた、小さなお客さまのお話。店主の「私」は今日も奥の六畳間から、土間に流れる静かな時間を見守っています。傘を畳む音、硬貨の響き、そして木彫りの熊と少年の間に流れる、不思議で温かい空気。
雨の日のささやかな物語をお届けします。
……。
三崎の雨は、どこか遠慮がない。
日ノ出バス停に止まる京急バスの排気音が、濡れたアスファルトに反射して低く響く。築五十年の――フリースペース『キボクマ』の瓦を叩く音は、古い太鼓を連打しているようだった。
私は奥の六畳間に座り、文庫本を広げていた。といっても、文字を追っているわけではない。土間から伝わってくる「気配」を読んでいるのだ。
午前10時過ぎ。引き戸がカラカラと開き、湿った風と共に、一人の少年が入ってきた。
黄色い長靴に、紺色のレインコート。小学校3、4年か……いや、高学年くらいだろうか。彼は入り口にある料金箱の前で足を止めると、リュックの底を探り、まだあどけなさの残る手で、百円玉を一枚、丁寧に投入した。
「いらっしゃい」
私は六畳間から声をかけた。立ち上がりはしない。それがこの店のルールだ。
キボクマの利用料は、大人は500円。12歳以下の子供は基本的に無料だが、子供だけで利用する場合に限り、私は「100円」をもらうことにしている。
それは、彼らがここを「自分の責任で選んだ場所」だと感じてもらうための、一種の契約料のようなものだ。
少年は少し驚いたように私の方を見た。眼鏡の奥の私の視線とぶつかると、彼は小さく会釈をして、土間の真ん中へ進んだ。
彼は、この店の主役たち――百体の木彫りの熊が並ぶ棚の前で、長いこと立ち尽くしていた。
鮭を咥えた勇猛なもの、丸々と太って寝そべっているもの、あるいは抽象化されてただの塊に近いもの。彼は一つ一つを検品するように眺め、やがて棚の隅にいた、掌に乗るほど小さな熊を手に取った。
それは、作者が彫り疲れたのか、あるいは途中で投げ出したのか、耳の形すら定かではない、ゴツゴツとした不格好な熊だった。
少年は、その小さな熊をローソファーの肘掛けに置き、自分もその隣に深く腰を下ろした。
それから三時間。
少年は、何をするでもなかった。本棚にある脈絡のない三十冊の本から『世界の深海魚図鑑』を引っ張り出してきたが、ページをめくる手は止まったままだ。彼はただ、窓の外を流れる雨水と、肘掛けに置いた不格好な熊を交互に見つめていた。
時折、パキリ、と乾いた音がする。
古い木材が鳴る音。あるいは、百体の中の誰かが、姿勢を変えた音かもしれない。少年が熊に視線を戻すと、その不格好な熊が、ほんの数ミリだけ、少年の指先に寄り添うように傾いている気がした。
昼過ぎ、私はポットに淹れた白湯を湯呑みに注ぎ、彼のもとへ歩み寄った。
「雨、止みそうにないね」
少年はびくりと肩を揺らしたが、すぐに「はい」と消え入るような声で答えた。
「学校、休み?」
「……開校記念日なんです。でも、家には誰もいなくて。鍵、忘れちゃって」
なるほど、と私は頷いた。三崎の子供は、こういう時に港のベンチで過ごしたりするものだが、あいにくの雨だ。
「ここは、雨宿りにはちょうどいい。ゆっくりしていって」
「あの……」
少年が、私のパーカーの裾あたりを、遠慮がちに見た。
「この熊さん、怒ってるんですか?」
私は彼が選んだ小さな熊を見た。削り跡が荒々しく、確かに見ようによっては、眉間に皺を寄せているようにも見える。
「どうだろうな。こいつは、この百体の中で一番の『守り神』なんだよ」
「守り神?」
「ああ。一番小さくて不格好だから、みんなに馬鹿にされないように、いつも虚勢を張ってる。でも、本当は怖がりな客が来ると、一番に寄り添ってくれるんだ」
嘘ではない。この熊を選んだ客は、決まって帰る時に少しだけ背筋が伸びている。
少年の表情が、少しだけ緩んだ。
「僕……今日、図工の作品を壊しちゃったんです。わざとじゃないけど、友達が大切にしてたやつ。謝ったけど、許してくれなくて。それで、逃げてきちゃった」
少年の告白は、雨の音に紛れてひどく頼りなかった。
私は彼の隣にある熊を、指先でちょんと突いた。すると熊は、木彫り特有の鈍い音を立てて、コクリと一度、深く頷いた。少年の目が見開かれる。
「……あ、今、動いた」
「気のせいじゃないか? 古い家だから、揺れるんだよ」
私はとぼけて見せた。
「でも、その熊が頷いたなら、大丈夫だ。明日はちゃんと、壊したパーツを一緒に直そうって言ってみな。この熊みたいに、少し不格好な形になっても、それが案外、前より強くなることもある」
少年は、小さな熊を両手で包み込んだ。
「……はい」
16時。雨足が弱まり、雲の切れ間からオレンジ色の光が土間に差し込んだ。
少年は立ち上がり、熊を元の棚へ戻した。
「ありがとうございました」
「またおいで」
少年が店を出ていく。その足取りは、来た時よりもずっと力強かった。
彼が去った後、棚に戻された小さな熊を見ると、その表情は心なしか、満足げな笑みを浮かべているように見えた。
私はまた、奥の六畳間へ戻る。
日ノ出バス停に、バスが止まる音がした。三崎の日常が、また動き出す。
今夜の「ヨルクマ」は、少しだけいい酒を自分で開けようか。
あの不格好な守り神に、乾杯するために。
雨の日の『キボクマ』、いかがでしたでしょうか。
大人の目にはただの木彫りの置物に見えても、子供の純粋な瞳には、彼らが確かな意思を持ってそこにいることが伝わるのかもしれません。100円という「契約料」を払って一時の安らぎを得た少年が、明日の学校で少しだけ勇気を持てることを願わずにはいられません。
店主の「私」も、おせっかいは焼かないけれど、ちゃんと少年の心に寄り添っていましたね。三崎の街には、こんな風に静かに誰かを受け入れる場所が、きっとどこかにあるはずです。
さて、次はどんなお客さまが、どの熊を手に取るのでしょうか。
また次のお話でお会いしましょう。




