第三話:琥珀色の追伸
三崎の夜がいつ始まるのか、それは店主さん本人にも正確にはわからないのだそうです。
気が向けば看板を出し、気が乗らなければ六畳間に籠もったまま、古びた本を捲って過ごす。
この気まぐれな営業こそが、フリースペース『キボクマ』が夜の『ヨルクマ』へと姿を変えるための、唯一の合図なのかもしれません。
潮風が止み、バスのエンジン音が一段と高く響くようになると、決まって訪れる客がいます。
店主さんは、あの紳士が「日の出」バス停の方からゆっくりと歩いてくるのを、今夜も静かに待っていました。
第三話:琥珀色の追伸
三崎の夜は、潮騒よりも先に静寂が満ちる。
黒漆喰の壁に埋め込まれた小さなLEDが、スローテンポで明滅する。フリースペース『ヨルクマ』の店内は、まるで深い海の底から見上げた星空のようだ。
私はいつものように六畳間に引きこもり、古い文庫本を捲っていた。
カラン、という乾いた音が土間に響く。
時計を見なくてもわかる。二十時を少し回った頃、彼がやってきた。
その紳士は、いつ、どこから現れるのかわからない。
営業日を告知しているわけでもないのに、私がふと思い立って店を開けた夜、彼は決まって現れる。仕立ての良いチャコールグレーのジャケットに、手入れの行き届いた革靴。三崎の漁師町にはいささか不釣り合いな、品のある初老の男性だ。
彼は入店すると、黙って千円札を一円玉の入ったトレイに置く。
外部から持ち込んだ小瓶のウイスキーと、小さな紙袋に入った乾き物をテーブルに並べるのがいつもの流儀だった。
今夜、彼が選んだのは、百体の中でも一際大きく、どっしりと胡坐をかいたような姿の熊だった。荒々しいノミ跡が残るその熊は、どこか威厳を漂わせている。
紳士は熊の向かいに座ると、鞄から何かを取り出した。
銀色の、小さな写真立てだった。
いつもなら一時間ほどで静かにグラスを空けて立ち去る彼が、今夜は違った。
ウイスキーを二つのグラスに注いだのだ。一つは自分の手元に、もう一つは、木彫りの熊の前に。
「……今日はね、君に紹介したい人がいるんだ」
六畳間の隙間から、彼の穏やかな声が聞こえてきた。
彼は写真立てを熊の正面に向け、まるで旧知の友人に話しかけるように語り始めた。
「家内だよ。君のように、少し頑固で、でも一度決めたら動かない人だった」
紳士は自分に注いだウイスキーを一口含み、目を細めた。
「三崎の海が見たいと、ずっと言っていたんだ。病室の窓からは、ビルしか見えなかったからね」
私は本を閉じ、彼らの様子をじっと見守った。
紳士は、写真の中の女性に語りかけるように、あるいは熊に同意を求めるように、ぽつりぽつりと話し続ける。それは彼自身の人生の断片であり、失われた時間への追伸のような独白だった。
一時間が過ぎ、二時間が過ぎようとしていた。
紳士がふと顔を上げ、六畳間の方を振り返った。
「店主さん」
呼ばれるのは珍しい。私はサンダルを履き、土間へ出た。
「はい。いかがなさいました」
「『店長との会話 0円』。今夜は、少し長引いてもいいかな」
「ええ。構いませんよ。ここは、急ぐ理由のない人のための場所ですから」
私は彼の隣、少し離れた位置にあるローソファーに腰を下ろした。
テーブルの上では、熊の前のグラスに注がれたウイスキーが、星空のようなイルミネーションを反射して琥珀色に輝いている。
「この熊は、聞き上手だね」
紳士が少し照れくさそうに笑った。
「家内の自慢話をしても、一度も退屈そうな顔をしない。それどころか、時々頷いているようにも見える」
「そうかもしれませんね」
私は他人事のように答えた。
「この店にある熊たちは、長い年月、誰かの沈黙に寄り添ってきたものばかりですから。聞き飽きるということはないでしょう」
紳士は満足そうに頷き、最後のウイスキーを飲み干した。
「……ありがとう。少し、話しすぎたかな」
その時だった。
テーブルの上に置かれていた木彫りの熊が、わずかに、本当にわずかに震えた。
それと呼応するように、熊の前に置かれたグラスの中のウイスキーが、表面に小さな波紋を作った。
紳士はそれを見て、目を見開いた。
「今、彼女が……笑ったような気がした」
「三崎の夜は、たまに時間の境目が曖昧になりますから。不思議なことではありませんよ」
私はそう言って立ち上がった。
紳士は銀色の写真立てを愛おしそうに撫で、鞄に仕舞った。
二十一時二十分。
終バスのエンジン音が、静まり返った日の出バス停に響く。
「また、伺います」
紳士はそう言い残し、背筋を伸ばして夜の闇へと消えていった。
翌朝。
私は土間の掃除をしながら、昨夜のテーブルを片付けようとした。
そこには、熊が飲んだはずのないウイスキーのグラスが残っていた。
不思議なことに、グラスの中は空っぽだった。
蒸発したにしては、あまりに早い。
私は、昨夜の大きな熊の口元を見た。
昨日よりもほんの少しだけ、毛並みが艶やかになっているような気がした。
そしてその横には、紳士が忘れていったのか、あるいはあえて置いていったのか。
カシューナッツが一つだけ、供え物のように置かれていた。
三崎の朝が始まる。
日の出バス停に、最初のバスが到着する音が聞こえてくる。
私はそのナッツを、少しだけ迷ってから、熊と一緒に元の棚へと戻した。
そしてそれを、供え物のように熊の足元に置いた。
ほんの少しだけ、ウイスキーの香りが、まだそこに漂っているような気がした。
空っぽのグラス、そして熊の足元に残された一粒のナッツ。
それはきっと、目には見えないけれど確かにそこにいた「誰か」からの、ささやかなお礼だったのかもしれませんね。
三崎の夜には、都会の喧騒ではかき消されてしまうような、小さくて優しい不条理が満ちています。
皆さんの隣にいる木彫りの熊も、もしかしたら今夜、そっと耳を傾けてくれるかもしれません。
さて、次はどんなお客様が「キボクマ」の扉を叩くのでしょうか。
どうぞ、次回もお楽しみに。




