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キボクマ  〜100体の熊と、普通のおじさんの静かな時間〜  作者: 一 十


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第二話:硝子細工のハッシュタグ

三崎の日の出バス停に降り立つと、潮の香りに混じって、どこか懐かしい古い木材の匂いが鼻をくすぐります。


フリースペース「キボクマ」。

そこには、店主が長年かけて集めた100体の木彫りの熊たちが、それぞれの表情で客を待っています。彼らは何も語りませんが、訪れる者の心のささくれを、その彫り跡でそっとなぞるような不思議な力を持っています。


今回「キボクマ」を訪れたのは、スマートフォンのレンズ越しにしか世界を見ることができなくなった、一人の若い女性です。

キラキラとしたデジタルな光と、静かな土間。

相反する二つの世界が交差したとき、彼女が選んだ「一頭」の熊は、一体どんな答えを返したのでしょうか。

三崎の日は、ゆっくりと、しかし確実に沈む。

「日の出」という名のバス停の前に建つこの古民家、フリースペース『キボクマ』が、黒漆喰の壁に星空を宿した『ヨルクマ』へと姿を変える時間だ。


私はいつものように、土間の奥にある六畳間に座り、ユニクロのフリースを羽織ってノートパソコンに向かっていた。正確には、向かっているふりをして、引き戸の隙間から土間の様子をぼんやりと眺めていた。


今夜の客は一人。

三十代半ばとおぼしき女性だった。ベージュのトレンチコートを隙なく着こなし、ハイヒールが土間のコンクリートに硬い音を響かせる。彼女は入店するなり、壁際に並んだ百体の木彫りの熊たちを値踏みするように見つめた。


彼女が選んだのは、鮭を咥えているわけでもなく、ただ前足を揃えて座り、虚空を仰いでいる一回り小さな熊だった。


「これ、お借りしますね」


彼女は誰に言うでもなく呟き、一番奥のローソファーへ熊を運んだ。

それからが、彼女の「仕事」の始まりだった。


テーブルに置かれたのは、コンビニで買ったとは思えないほど色鮮やかなマカロンの箱。そして、どこの高級ホテルのラウンジかと思うような、クリスタルカットのグラス. 彼女は持ち込んだ炭酸水を注ぎ、そこに持参したエディブルフラワー(食用花)を浮かべた。


「……よし」


彼女はスマートフォンを取り出し、角度を変え、照明の反射を気にしながら、何度も何度もシャッターを切る。木彫りの熊は、その華やかなセッティングの傍らで、どこか場違いな供え物のように鎮座していた。


私は六畳間から、その光景を静かに見守る。

彼女の指先は、画面の上で踊るように動き続けている。ハッシュタグを選んでいるのだろう。#三崎の夜 #隠れ家バー #自分へのご褒美 #静寂を楽しむ。


だが、画面の中の「キラキラ」とは裏腹に、彼女の横顔は、今にも崩れ落ちそうな硝子細工のように見えた。時折、スマートフォンの通知が光るたび、彼女の眉間には深い溝が刻まれる。


一時間ほど経っただろうか。

彼女が不意に顔を上げ、六畳間の方を振り返った。


「あの……店主さん」


私はサンダルを突っ掛け、土間へ出た。

「はい。何か」


「メニューに書いてあった『店長との会話 0円』っていうの、まだ有効ですか?」


「ええ。まあ、気の利いたことは言えませんが、聞くことくらいなら」


私は彼女の向かいにある、もう一つのローソファーに腰を下ろした。彼女の目の前には、一口も付けられていないマカロンと、氷が溶け切った花の浮く水、そして一匹の熊。


「これ、見てください」


彼女はスマートフォンの画面を私に向けた。

そこには、今しがた撮ったばかりの、完璧に計算された写真が映っていた。加工アプリの魔法で、古民家の土間はパリの裏通りのような叙情を纏っている。


「綺麗ですね」

「……嘘ですよね。自分でも、何やってるんだろうって思うんです」


彼女は自嘲気味に笑った。

「仕事は事務職で、毎日の往復。友達はみんな結婚して、週末は子供の写真ばっかり。私は、自分が惨めじゃないって証明するために、わざわざ三崎まで来て、こんな……食べもしないお菓子を並べてる」


彼女の手が、隣に置いた木彫りの熊の頭に触れた。

「この子、何を見てるんでしょうね」


「さあ。この熊を作った職人が何を考えていたかは分かりませんが……」

私は少しだけ言葉を選んだ。

「この店にある熊たちは、みんな何かから逃げてきたような顔をしてるんです。この子も、たぶん鮭を追いかけるのに疲れて、ただ空を見てるんじゃないでしょうか」


彼女は黙って、熊の背中を撫で続けた。

「……私、今日、本当は会社で大きなミスをしたんです。誰にも相談できなくて、でもSNSでは『充実した休日』を演じなきゃいけなくて。そうしないと、自分の居場所が消えてしまいそうで」


その時、不条理なことが起きた。

彼女が撫でていた木彫りの熊が、ほんの少しだけ、首を傾げたように見えたのだ。

いや、光の加減かもしれない。あるいは、築五十年の床が沈んだせいかもしれない。


だが、熊の口元が、ほんのわずかに緩んだ気がした。


「あ……」

彼女も気づいたようだった。彼女は驚いて手を止めたが、恐怖は感じていないようだった。


「店主さん、今、この子……」

「三崎の夜は長いですからね。たまに、木の体も凝るんでしょう」


私はあえて、さも当然のことのように答えた。

彼女は一瞬、呆気に取られたような顔をしたが、やがて「ふふっ」と声を漏らして笑った。今日、彼女が最初に見せた、フィルターを通さない本当の笑顔だった。


「変な店」


「そうかもしれませんね」


私は他人事のように、小さく頷いた。自分の店を褒められたわけでも貶されたわけでもなく、ただ「そういう現象」として受け止める。それが、この場所での私の作法だった。


彼女はスマートフォンをバッグの奥底に仕舞い込んだ。

そして、ようやくマカロンを一つ手に取り、ゆっくりと口に運ぶ。


「……甘い。これ、すごく甘いですね」


「お茶、淹れましょうか。メニューにはありませんが、口直しに」


「お願いします」


私は奥から、飾り気のない茶碗に熱いほうじ茶を淹れて持ってきた。

彼女は熱い茶を啜り、ようやく人心地ついたようだった。


21時20分。

三崎の夜を終わらせる、最後の一台となる京急バスの音が、潮風に乗って遠ざかっていく。

都会に比べればあまりに早い幕引きだが、彼女にとってはちょうどいい潮時だったのかもしれない。

彼女は「ありがとうございました」と小さく頭を下げ、店を出て行った。

テーブルには、あのマカロンの箱が置かれたままだった。


「お忘れ物ですよ」と声をかけようとしたが、やめた。

箱の中には、一口かじられたマカロンと、彼女の「虚栄」の残骸が、静かに残されていた。


翌朝。

私は土間の掃除をしながら、彼女が座っていたソファーの脇に、昨夜の熊が戻されているのを見つけた。


熊は、相変わらず虚空を仰いでいる。

だが、その足元には、彼女が持ち込んだはずのエディブルフラワーが一輪だけ、まるで最初からそこに咲いていたかのように、木肌に張り付いていた。


私はそれを無理に剥がそうとはせず、熊を元の棚へと戻した。

三崎の朝が始まる。

潮の香りと、バスのブレーキ音。

また今日という日が、何食わぬ顔で動き出していく。

第2話をお読みいただき、ありがとうございます。


誰かに「見せる」ための自分を演じ続けるのは、今の時代、避けては通れない疲れなのかもしれません。

マカロンの甘さよりも、写真の「いいね」の数を求めてしまう彼女の姿は、決して他人事ではない切なさを孕んでいます。


「ヨルクマ」の漆喰の壁に映る星空のような光の中で、彼女が最後に見せた、レンズを通さない素顔。

それを見守る店主の、付かず離れずの距離感が、彼女にとっての「救い」であったなら幸いです。


三崎の夜は、都会よりも少しだけ暗く、その分だけ自分自身の影がはっきりと見えます。

次はどんな迷い人が、この土間の引き戸を叩くのでしょうか。


また、キボクマでお会いしましょう。

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